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翌朝、鏡に映る自分の顔は、普段より一層冴えない顔をしていた。 「大丈夫……大丈夫っ」 いつもやる気の無い顔が、憂鬱を上乗せして更に暗い。そんな鏡の自分に、言い聞かせるように呟いた。 東舘さんに噛み付かれた痕は、見事に歯形がついていた。一夜明けた今も、赤みは引いていない。 シャツの襟を首に引き寄せて歯形を隠す。不幸中の幸いというべきか、ギリギリ隠せる位置でよかった。 あとは日中見つからないよう過ごせるか。 こんな痕が見つかれば、恐ろしい噂が立ちそうで……。 どうか……、どうかっ!平和に過ごせますようにっ! ドアの前で祈ってから、登校の第一歩を慎重に踏み出した。いつも通りの光景で、早朝の寮の廊下は誰もいない。今まで、こんな朝早くに誰かに会ったことはないのだから普通でいい筈なのに、気付けば足早になっていた。 寮を無事抜け出して、さぁいつもの場所へ!と思った矢先、寮の門の前でばったりと人に会ってしまった。 いつもならっ!いつもならぁっ!!絶対会わない筈の時間帯なのに!!今日に限って会うなんてっ……今日はもう駄目かもしれない。神様は俺を嫌うどころか、恨んでるらしい。俺何かしました?何もしてないよ。 ……ぁそれが原因?記憶に残るような善悪を一切してないからそれ生きてる意味あるの?ってこと?予想外の出来事で人生に潤いをって?余計なお世話だよ神様。 「あれ、早いね。おはよう成崎くん」 「ぉ、はよー」 自分が今引き攣った笑顔をしていることは自覚している。 目の前にいるのは、千田。人に会いたくなかったし、ズッキーの元恋人ということが頭を過って普通のリアクションができなかった。 「千田こそ、早いね。何か用事?」 「うん……そんなところかなぁ」 濁した言い方をした千田は、それ以上深掘りするなということなのかもしれない。 「成崎くんはいつもこんな早いの?」 「ぁううん、今日は偶々」 いつもだけど、知られたくない。俺はさらりと嘘をついた。 「そういえば昨日、東舘副会長に捕まったんだってね。ちょっとした騒ぎになってたよ」 「そこ触れなくていいよ」 「あはは疲れきってるねー。何かあったんだ?」 「はぁ……俺はやっぱりあの人は読めない。理解不能」 俺の反応を見てケラケラ笑う千田に、密かに眉を寄せる。 ズッキーは自分は大人だからもう落ち込んでないと言っていた。じゃあ千田は?俺と同じ高校生だろ?今までと特に変わった様子はないけど……もうふっ切れてる?それとも平静を装ってる?……でも、今まで千田と、千田の恋愛の話なんてしたこと無いし……別れ話をきっかけに話すことでもないよな。 「じゃあ……俺そろそろ」 立ち話を終わらせようと後退したら、千田は何かを思い出したように鞄を漁った。そして何かを握った手を差し出された。 「はいこれ。良かったら使って?」 「……?」 よく分からないまま、差し出されたものを受け取る。見れば、ガーゼと肌色のテープ。 なんだこれ?と考えて、千田の言わんとすることを察して直ぐ様首に手を当てた。 「動くとチラチラ見えちゃってたよ」 「……まじかっ……ぇ、あの、」 「そのテープ、肌色だから意外と目立たないんだよ。だから、それ使って隠しなよ」 なっ、なんて素敵な子!! 「っ……ありがとうっ……!!」 「どういたしまして。成崎くん、ノンケとはいえ……こういう物すら持ってないんだね」 ……それはどういう意味だ?こういう物って? 「じゃあ、そろそろ行くね」 「ぁ千田っ」 「……ふふ、大丈夫。誰にも言わないよ」 「……深く感謝申し上げます」 ふんわり笑って去っていく千田に、俺は深々と頭を下げた。

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