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第32話
ゆらり、と山岸が立ち上がったせつな、望月は咄嗟にヤモリのように壁に張りついた。
タイムマシンが欲しい、と切実に願う。山岸にLINEをしようなどと考える自分に会いにいける方法があれば、数時間後にこれこれこういう事態を招くことになると伝えて、スマホはしまえと説得にあたっていたに違いない。
「自炊はしなさそうだね、ほぼ空っぽじゃん。発泡酒ってのが、いかにもっぽいね」
冷蔵庫を勝手に覗いて、だが、それが自然体に見えるさまはテリトリーを見て回る猫を髣髴 とさせた。
望月は柳眉を逆立てる一方で、微苦笑を禁じえない。無味乾燥な毎日を送ってきた自分とエピキュリアン的な人物が出逢うとは、縁は異なもの味なもの、というあれだ。
「最近の女子が結婚相手に提示する条件は厳しいよ。家事と育児に協力的なのは当たり前で、プラスアルファを求められるんだ。望月さんもイメチェンの次は意識改革といこう」
したり顔でまくしたてると、山岸は発泡酒を取り出した。再びソファに腰かけると自分の隣を指し示し、しぶしぶ従った望月を肘かけのほうに押しやると、細い顎を指で掬った。
「エッチ方面のスキルは五段階評価でいえば一。童貞臭がぷんぷんするんだけど、マジに天然記念物の人種だったりする?」
「見損なうな。これでも一応、二十代のうちに筆下ろしはすませた」
「一応程度じゃ、童貞を卒業したうちに入らないね。そこでアドバイス」
山岸が人差し指を立てると、不吉な予感に尾骶骨のあたりがぞわぞわした。
「実践方式で抱かれる感覚を摑んどくのが有効だね。したら抱く側になったときに、相手がしてほしがってることを一発で見抜ける。床上手なのも立派なセールスポイントだよ」
結婚行進曲の最初の一音を奏でるふうにプルタブをひくと、
「というわけで高スペックの男をめざして、手始めにこいつをしゃぶってみようか」
もったいをつけてジーンズをくつろげた。
しゃぶる、しゃぶれば、しゃぶれ、しゃぶるとき、しゃぶろう……。
望月は、澄まし顔をまじまじと見つめ返した。コイツとは、どこのコイツかと訊き返すまでもなくボクサーブリーフに包まれたソイツのことで、とりもなおさず何を求められているかといえば……。
こけつ転びつ窓辺に走り、カーテンの陰にうずくまって怒鳴り返した。
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