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第44話

  「動くと危ない。まっすぐ前を向いて」    後ろから両手でこめかみを挟みつけられた。偶然の出来事なのか故意にそうしたのか。指の背で耳たぶを撫であげられた。  後者だ、絶対に後者だ。望月は、悩ましい吐息がこぼれかけた口を引き結んだ。 「完璧。定規で測ったみたいに綺麗でしょ」  山岸は満足げにうなずくと、鋏をケースにしまった。  正面を向いた顔、横顔と鏡に映して、望月は微笑んだ。性格には難ありだが、ほんの少し手を入れただけでベストの状態に持っていくあたり、山岸は腕利きの美容師なのだ。眼鏡をかけ直すとシートに散った髪の毛を寄せ集めて、そして口ごもった。 「時間があれば、その……」  ──今夜こそ〝マイ・フェア・レディ〟のDVDを一緒に観ないか……。  ところが、そうと切り出す前に、山岸はダイニングキッチンと玄関を結ぶ短い廊下に姿を消してしまった。 「手を洗いたいな。洗面所を借りまぁす」  どうぞ、と応じる声は喉にからむ。はぐらかされた気がしてムカつく反面、数分間の猶予を与えられて助かったようでもある。  ともあれコーヒーを淹れはじめた。もしも再び山岸が訪ねてきたときに備えて、念のために買っておいたお茶菓子が無駄にならずにすんだ。備品を管理するなかで培われた先を読む力が生きたな、と小さくガッツポーズをする。クッキーの封を切り、山岸は辛党かもしれないから、と煎餅も出した。それよりピザか鮨でもとるか。   だが山岸は洗面所から玄関に直行した。 「ご足労なことだったな。いや、きみ流に言えば、おれをオカズにした件はチャラか」  山岸に長居を決め込まれたらもちろん困るが、あっさり帰られてはこれまた癪にさわる。とはいえ可憐な乙女じゃあるまいし、むさ苦しい自分が引きとめても滑稽なだけだ。  望月は帰れよがしに上がり框に仁王立ちになった。山岸が出ていくが早いか鍵をかける必要があるからであって、帰るのやめた、と彼が言いだすのを期待しているなどという事実はまったくない。

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