53 / 87

第53話

 湯気で曇った眼鏡のレンズをムキになって磨く。そこで後ればせながら閃いた。これは、生きた授業というやつなのかもしれない。  山岸はフェミニストに徹して、女心にうとい自分のために理想的な女子の扱い方を実演してみせてくれているのだ。とはいえ蟹みそをせせった割り箸で「あ~ん」とアミの唇をつつくのは、どう贔屓目に見てもサービス過剰だ。  もしも、これが彼女をそれとなく紹介するというシチュエーションだった日には、のこのことやってきた自分はまるっきりピエロだ。  と、山岸がだしぬけに身を乗り出した。耳許に唇が迫り、望月は思わずのけ反った。 「彼女の髪質が絶妙に俺好みで。他のスタイリストには絶対にカットさせない、売約ずみ宣言してるんだ」  内証話の体を装っても丸聞こえだ。アミが嬌声をあげながら山岸にしなだれかかると、 「メスブタが、気安くさわるな」  という類いの罵詈雑言を浴びせてしまいそうになる。自分はそんなに酒癖が悪かったのか、と望月は眉間を揉んだ。  元を糺せば山岸と交流が始まったきっかけじたい、酒の上の過ちだ。ソフトドリンクに切り替えるべくメニューを開くと、山岸がいち早く店員を呼び止めた。 「あしたも仕事なんで俺たちはあとはウーロン茶。望月さんは熱燗にしとく?」 「おふたりは共通点なさげですよね。なに関係の知り合いなんですか」 「俺が遠回しに望月さんを口説き中な関係」  山岸が苦渋の色を眉宇に漂わせて、そう答えた。望月はイワシのツミレで舌を火傷して、アミはきゃらきゃらと笑った。 「……ってのは冗談で、俺は人生勉強全般のコーチ役って感じかな。俺って基本的に博愛主義者だし、マジメなのが災いして婚活に苦戦中の望月さんを手助けしてるの」 「納得です。先輩は面倒見がいいですもの」  アミが山岸の取り鉢に牡蠣を入れ足すと、おれの役割を盗るな、と今度こそ本気で声を荒らげる予兆に唇がわななく。  望月はテーブルの陰で箸袋を引き裂いた。自分を支配しようとするどす黒いものが、どういった感情に根ざしているのか煎じ詰めて考えたら、とんでもない答えが導き出されそうで怖い。  とにもかくにも悪酔いしたらしい今夜は、ふたりにからみだす前に退散したほうが賢明だ。 

ともだちにシェアしよう!