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第54話

「用を思い出した。先に失礼する」  会計をすませてもお釣りがくるだろう枚数の紙幣を伝票に重ねて置くなり、コートと通勤鞄をまとめて摑んだ。凛と背筋を伸ばし、それでいて幽霊屋敷から逃げ出すように足早に立ち去りゆくその背後で、山岸とアミが共犯者の笑みを交わして親指を立て合った。  当て馬役、グッジョブ、といいたげに。  週末の繁華街はカオスだ。学生風のグループが歩道いっぱいに広がったかと思えば、再び団子状に固まる。  やっとのことで彼らの間をすり抜けても次の集団に行く手を阻まれ、もたもたしているうちに腕を摑まれた。  望月はつんのめった。腕を振りほどきざま怒気を含んだ顔を振り向け、その瞬間、すくみあがった。  そこに山岸が、しかも望月以上に険悪な形相で立っていたのだ。山岸は人質をとるように通勤鞄をひったくると、望月を手近の路地に引きずっていった。  そこは、かび臭いようなビルの谷間だ。闇が澱み、ドブネズミの目が赤く光る。  望月は否応なしに路地の奥へと追いやられたあげく、飲み屋の裏口に置かれたポリバケツにつまずいた。鈍い痛みがむこうずねを走り、にもまして屈辱感に顔がゆがむ。コートをはためかせて反転した。立ちはだかって動かない山岸を睨みつけたものの、先手をとられた。 「鍋は人数多いほうが美味しいからノリのいい子をつれてきたのに、ぶんむくれて突然、帰っちゃうのって大人気なくない?」 「そっちこそ勝手にメンツを増やして非常識じゃないか。おれは、てっきり……」 「ふたりっきりで、ごはんと思ってたんだぁ、ふぅん」   嫌みったらしくねっとりと語尾を伸ばすと、山岸は鼻で嗤った。望月の肩越しにビルの外壁に手を突くと、こころもち腰をかがめた。 「メチャクチャ可愛い女子をつれてる俺と、俺にじゃれる女子。正直に答えなよ、どっちが羨ましかった」  ふてぶてしい態度と裏腹に、懇願するような響きに語尾が震える。  望月は顔を背けながら眼鏡を押しあげた。モテ男にあやかりたい、と言ってほしいのだろうか。それともアミと本当につき合っていて、彼女を自慢しているのか……ずきりと胸が痛み、舌がもつれる。  こめかみの両脇をかすめて伸びる左右の腕は遮断機のポールのように、逃げ道をふさぐ。望月は壁に沿って横にずれて、だが、すかさず腕と腕の間隔が狭まって閉じ込められる。  これは、と目をしばたたいた。かつて一世を風靡した〝壁ドン〟というやつか? だとすれば山岸はさしずめ不良テイストの王子さまキャラで、自分の役柄はなぜか彼に見染められるその他大勢組のヒロインか?   陳腐な想像に噴き出しつつも、どうしようもなく頬が紅潮する。そこに、せせら笑いを浴びた。

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