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10話-3 ロール・プレイング
複数の足音がばらばらと響き、近づいてくるではないか。きゅ、と喉が締まる心地がして、心臓さえも数瞬止まったかに思えた。
それでも、入谷の舌遣いは止まる気配がない。
――嘘だろ……!
咄嗟に掌で口元を押さえる。荒くなった息が鼻から抜け、指の表面を熱くくすぐった。こちらの淫らな水音が、あちらの物音に紛 れているといいのだが。いや、紛れていないと困る。早く、早く用を足して出ていってくれ。
内腿のあたりが震えてくる。限界の二文字が脳裏に閃いた瞬間。扉の向こうから伝わってくる流水音と一緒に、俺は達した。
熱く濡れた、入谷の咥内へと。
「――ッ!」
迸りそうになる声を必死にこらえ、びくりびくりと繰り返す痙攣に一時 身を任せる。
入谷が俺のぺニスから唇を離したときには、もうトイレは静まり返っていた。
「ご、ごめん……! 大丈夫だった?」
彼の口の中に出したのは初めてだった。音を出せない状況だったため、達 くタイミングも教えられなかったのは不可抗力とはいえ歯がゆい。
入谷は丸めたトイレットペーパーに白濁を吐き出した後、やや潤んだ目を俺に向け、うっそりとほほえんだ。
「大丈夫ですよ。ずいぶん興奮したみたいですね?」
「うっ……」
揶揄するような言葉を即座に否定できない自分がいる。
入谷は手持ちのウェットティッシュで手を拭いてから、新品の下着を紙袋から取り出してきた。それを受け取り、汚れた下着を脱いで着替えるあいだ、入谷は俺をじっと見つめていた。もう今さら恥じらってもしょうがないと思って心を無にしたのだが、入谷に外へ出てもらえば良かったのでは、と気づいたのは着替えが済んでからだった。
「それでは、行きましょうか」
入谷が促してくる。彼の頬はまだ、上気してほんのり染まっていて。その様子にそそられた。
相手が荷物に手を伸ばす前に、後ろから体を抱き寄せる。腕の中にいる総身がぴくりと震えた。
「次は紫音くんの番じゃない?」先ほどの彼を真似て、耳元で吐息混じりに囁く。入谷は身動 ぎするが、本気で逃れようとはしていないのが伝わってくる。
「あの……、僕のことはお構いなく」
「そうかな? こっちは構ってほしそうだけど」
右手で入谷の下半身をまさぐると、それは厚手の布の下でしっかり存在を主張しているのだった。布越しにつうと撫でてやれば、入谷の喉から熱くなったため息が漏れる。
「自分で言ってたじゃない。溜まってるって」
「それは、そうですが」
窮屈そうにしている昂りを外へ導く。既に濡れそぼっているそれは、何回か扱くだけで急速に固さと大きさを増した。
「紫音くん、咥えながら感じてたんだね。可愛いなあ」
「はあ……柾之さ、ん……」呼ばう声は切なげだ。
「ほら、思いっきり出したらいいよ。ここから後始末も簡単だし。ね」
「……!」
「いやらしいのは、紫音くんもでしょ?」
わざと音を立てて項 に口づけしながら、竿の部分を前後に刺激する。それに合わせて入谷の腰も妖しく蠢く。
普通のデートってけっこう辛いものなんだな。自分のどこか冷静な部分でそんなことを考える。今すぐにでも入谷の中に分け入って彼を感じたいし、彼にもセックスで気持ちよくなってほしいのに、ここではそれは叶わない願いなのだ。
入谷の呼吸が切迫してくる。いい年をした男二人がこんな場所でいかがわしい行為に耽 っているなんて、良識ある人なら絶対に非難し、糾弾し、断罪するだろう。良識に反しているからこそ、こんなにも気持ちいいのだ。
「っあ、ああぁ……」
嘆息するように甘い声を漏らし、身を捩 りながら入谷が絶頂を迎える。性器の激しい収縮とともに吐き出される精液が、トイレの中の水面をびちゃびちゃと叩いた。
肩を上下させる入谷の体からくったりと力が抜ける。彼を支えながら、首筋にキスをした。
「いっぱい出たねえ。本当に溜まってたんだね。紫音くん、気持ちよかった?」
「だめ……」
「ん?」
「耳元で囁かれると、力が抜けてしまうので……駄目です」
「あ、その、ごめん……?」
濡れた瞳で見上げてくる様子がいじらしいのに艶かしく、どぎまぎするのを隠せない。
入谷をしっかり立たせてから視線を落とすと、俺の股間は再び布を持ち上げていた。このトイレから抜け出すのはなかなか骨が折れそうだ。
身なりを整えた俺たちは先ほどのショップに戻り、試着の続きを再開した。残りは入谷が選んだ俺のボトムスだけだったので、彼には試着室の外で待っていてもらい、着終えたところを見せる形に変えた――また変な空気になったら色々と困るので。
お互いに気に入った服は選んだ本人が会計した。俺が購入したのはライダースジャケット一着で、入谷にコートやらシャツやらパンツやら買ってもらったので心苦しかったが、きっと恋人はいつものように「気にしないで下さい。僕がしたくてしていることなので」と微笑するだけだろう。だとしても、何かしらの形で彼に返す手段を考えたかった。
俺は今、満足げな顔の入谷と連れ立って、二人でぶらぶらとウィンドウショッピングをしている。恋人はほんの数十分前まで乱れていた気配などまったく見せずに、普段どおり涼しげな様子で俺の隣を歩いている。
一方、自分は。
――き、気まずい……。
トイレで何かしらのスイッチが入り、それがまたオフになった今、どんな顔をして入谷の傍らにいればいいのかが分からない。フロアにはしっかり暖房が入っていて、変な汗で全身が湿ってきている気がする。脱ぎ着できないニットを身につけてきたことが恨めしい。入谷が選んでくれたシャツにトイレで着替えた方がよいだろうか。
歩きながら考え事をしていたところへ、「柾之さん」と出し抜けに声をかけられたものだから驚く。
「うっ、うん!? 何かあった?」
「おなか空いてませんか? 昼食はどうしましょう」
腕時計を見れば既に13時を過ぎている。気を取られることが多すぎて、そこまで頭が回っていなかった。だがひとたび入谷に問われると、急に空腹を感じるようになってくるのが不思議だ。
「紫音くんは何か、特別食べたいものある? それか、フードコートに行ってみようか」
「フードコートもいいですね。行ってみましょう」
うなずき合って足先をフードコートへと向ける。昼食には少し遅い時間だからか、そこは休日の割に混雑はそれほどでもなく、空席もちらほらと目についた。
並ぶ店名とメニューをひととおり眺め見て、俺はサーモンといくらの親子丼、入谷は豚骨ラーメンに決めた。
ちょうど相対する席に座れたのは僥倖だった。湯気を立てる丼を前にした入谷がいただきます、と丁寧に手を合わせるのに、俺も一拍遅れて続く。
醤油にわさびを溶き、それをつやつやしたサーモンの切り身に回しかけながら、入谷の方を盗み見る。少し多めの麺を持ち上げ、ふうふうと息を吹きかけてから、一本も噛み切ることなく一気に最後まで啜る。ジャンクなものを食べる彼の姿は新鮮であり、それでいていつも纏っている上品さも失われてはいない。
――ラーメンも綺麗に食べるんだなあ……。
熱いご飯とひんやりした魚介を頬張りながら見とれてしまう。入谷と他の人はどこが違うのだろう。俺の好意が彼に向いているから、彼の仕草が特別に見えるとか? いや、客観的に見ても入谷の所作は洗練されているに違いない。こんなに上品に見えるのに、二人きりの時は大胆なんだよな……。
そこまでつらつらと考えたところで、いかんいかんと妄念を振り払う。人の目がたくさんあるのに、何を連想しようとしているのか。
普通のデート、難しくないか? 親子丼にセットでついてきたあおさの味噌汁を啜りながら思ってしまう。どうしても恋人を前にすると不健全な想いが湧き水のようにあふれてくる。昔、彼女がいた頃でさえこんなに悶々とはしなかったのに。街中でデートしているカップルはみんなこの不埒な感情に耐えているのか。それとも俺がおかしいのか?
「親子丼、美味しいですか?」
いつの間にかこちらを見ていた入谷と目が合う。目が合うということは、俺が先に彼を見つめていたということに他ならない。頬がじわりと熱くなるのを感じつつ浅くうなずく。
「うん、それなりに。紫音くんのは?」
「ええ、美味しいですよ。もっと熱々だったらより良かったですが、それは高望みでしょうから」
「紫音くん、ラーメンも食べるんだね」
「もちろん。何でも食べますよ」
次はあなたを食べたいですね、とはさすがの入谷も憚 って言わなかった。だが、こちらをじっと見据える深い色の瞳が、口ほどに感情を訴えているのが俺には分かった。
器を綺麗に空にして、二人でごちそうさまと掌を合わせる。席を立つ前、入谷がぺこりと小さく頭を下げた。
「なんだか今回、学生同士みたいなデートプランになってしまいましたね。申し訳ないです」
「謝る必要なんてないよ。俺は紫音くんとならどこに行っても楽しいから」
それは偽りのない本心だったのだが。
「そうですか? ……言質 は取りましたよ、ふふ」
蠱惑的にほほえみながら、双眸をきらりと輝かせる恋人を前にすると、不用意な発言をした気になる。俺の貧しい想像力を軽々と超えてくる、とんでもないところへ連れて行かれそうな予感がするも、ここで発言を撤回なんてできるわけがない。思わずごくりと生唾を飲みこめば、喉の奥がわざとらしいほどに大きく鳴った。
食事の後も、特に目的もなく色々なフロアを見て回った。それが意外にも楽しかったのは、入谷がそばにいてくれた賜物だろう。俺一人ではきっと早々に飽きていた。そもそも、面倒くさがってこのような場所に来ることもなかったはずだ。
そのような心持ちで雑談を交わしながら歩いていたとき。
ふと顔を上げると、前方20メートルほど離れた場所にいる男と、目が合った気がした。人混みより頭半分抜けたところから、自分へまっすぐ届くその視線。
反射的に体を反転させると、一瞬で全身から冷や汗が噴き出る。周囲のざわめきがすうっと遠くなった。代わりに、自分のどくどくという鼓動の音がいやに大きく聞こえる。
なんてことだ。いや、あり得ないことではない。
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