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11話-1 ストレンジ・アライアンス

 日曜の公立図書館は静かだった。  俺はここへ、新聞をまとめ読みするために毎週末通っている。  静かと言っても、勉強中の学生で席があらかた埋まっているため、当然物音はある。ノートに何事かを書きつけるさやかな音。なるたけ潜めようとした靴音。資料を書架から取り出すときの擦過音。そして、自分が手元の新聞をめくるかさかさという乾いた音。そのどれもが、図書館の静謐な空気に一瞬だけ漂いすぐに消えていく。  週末、ここで一週間ぶんの新聞を数種類まとめて読むのは毎週の習慣だった。ネットのニュースだけでは自分の興味がある話題しか拾えないことが多く、偏りが生じる。すべては仕事上の付き合いで話題についていく、そのための作業だった。  たいていは土曜にこなしているのだが、昨日は入谷とのデートがあったので来られなかった。彼との目眩くような時間が昨日のことだったなんて、自分でもにわかに信じられない。無機質な新聞の活字を追いながらも、恋人と過ごした時間を反芻してしまうのは許してほしい。誰にも迷惑はかけていないのだから。  新聞を読み終え、くたくたになった紙の束を所定の位置に返却する。入谷に選んでもらったダウンコートを羽織りつつ腕時計を見れば、ちょうどお昼時であった。何か食べてから帰ろうか、それとももう少し足を伸ばすか、と思案しながら数階建ての巨大な図書館を後にする。  今日は今期いちばんの冷え込みだったので、道行く人の中にもちらほらとダウンコートを着こんだ姿が見られた。さすがに自分のレッドオレンジほど派手な色は見つからないが、周囲から特に注目を浴びていないところを見ると、この格好でもそれほど浮いてはいないと判断してよさそうだ。  何か食べたいもの、と考えながら無意識的に脚を動かしていると図書館の最寄り駅についてしまった。この時点で遠出するのは億劫になっていて、昼食もどこかチェーンの定食屋で簡単に済ませるか、と投げやりな思考に流れかけている。電車を待つ人々の列に加わろうとしたとき、何やらホーム上がざわついているのに気がついた。  ざわついているというか、はっきりと言い争っている声が聞こえる。若い男と女がひとりずつだろう。そちらを見れば、向かい合って声を荒らげる一組の男女を、駅の利用客たちが遠巻きにしているのだった。渦中の男はすらりと背が高く、ややオーバーサイズ気味の服を難なく着こなしている。対する女は、凝った髪型と華やかなワンピース、それにファー付きの淡いベージュのコート。明らかによそ行きの格好だが、その背中にヤマアラシのごとく逆立てたトゲが見えるようだった。どうも女の方が激昂し、男が宥めようと応対しているらしい。  ――痴話喧嘩なんてご苦労だ。昼間からこんなところで。  ちらりとそう思うが、俺には関係のないことである。  こんなときに限って次の電車はなかなか来ない。そのうちに喧嘩の声が大きくなって、一字一句が鼓膜に届くようになってきた。あいにく、俺には外で音楽を聴く習慣がないから、イヤホンで耳を塞ぐこともできない。 「ねえ、あり得なくない!? せっかくのデートなのにお昼食べるところも決めてないとか! リードする気もないわけ?」 「あり得ないとか、どの口が言ってるんだよ。そもそも一回でいいからデートしてくれって頼んできたのはそっちだろ。俺は渋々付き合ってあげてるだけなんだけど?」 「はあ? 何その言い方! こっちは昨日美容院にも行って、新しいコート買って、靴だって今日下ろしてきたのに!」 「そんなの、そっちが勝手にしたことだろ。俺は頼んでないから」  聞くに堪えない言葉の応酬を、俺はじっと首をすくめることで耐えていた。敵の攻撃をやり過ごすカメみたいに。ここに集う人々の願いはひとつ。早く電車が来てくれること、だ。  憤るばかりだった女の声に、湿ったものが混じり始める。旗色が怪しくなってきたのが部外者の俺にも伝わってくる。 「なんでそんなに冷たいことばっかり言うの? 酷いじゃん……」 「はあ……。なんで俺が休日を一日潰した上に、ほとんど何も知らない相手に優しくしないといけないんだよ。一緒に出かけるだけならって最初に言ったはずだろ。そもそも、俺にとって特別な人は他にいて、今はその人以外のことは考えられないから」 「は?」  女の声が一オクターブ近く低くなる。その声音がひどく冷たく響くのを場の誰もが感じ取っただろう。だが、そうしたくなる気持ちもおそらく多くの人が共有した。  非があるのは、どちらなのだろうか。 「好きな相手がもういるってこと? 最悪! ふざけんな! 顔がいいからって調子に乗んなよ!」  女がエレガントな装いからは程遠い罵りの台詞を吐いて。ぱん、と柏手に似た破裂音が響き渡った。  ぷあん、と音を響かせてようやく電車が構内に滑りこんでくる。顔を伏せた女はそれと反対にホームから走り去っていく。冷たい風を頬に浴びながら置き去りにされた男の方を見ると、彼は不機嫌そうにやれやれといった仕草で乱暴に頭を掻いていた。その様子に思うところがあり、俺はそっと列を離れる。  群衆からぽつんと取り残されている若い男に歩み寄って、できる限りさりげなく声をかける。 「災難だったね。常葉(ときわ)くん」  相手がぱっと面を上げてこちらを見た。やはり、見間違いではない。前髪が下りていて実年齢より幼い印象ではあるが、会社の後輩・常葉で間違いなかった。  頬を掌の形に赤くした常葉は、俺が何者か何秒か訝しんだようだったが、数秒後に「え、橘さん?」と目を丸くした。 「なんでここにいるんスか?」 「ごめん、用事帰りに偶然居合わせちゃってさ。会話もけっこう聞こえちゃった」 「うわ、マジすか……。つか、なんで話しかけてきたんです? 知らないフリして素通りすりゃ良かったのに」 「ごめんね。明日会社で会ったときに変な感じになりそうだと思ったから」 「はー……律儀な人というかなんというか。いや、ついてなさすぎ……よりによって橘さんに見られるとか、ないわ……」  常葉が天を仰いで嘆息する。らしくない姿を会社の同僚に(さら)してしまった、と知るのは居たたまれない出来事だろう。自分の胸に仕舞いきれないと判断したのは俺のエゴでしかなく、彼を無闇に落ち込ませてしまったことに罪悪感が湧いたが、もうどうしようもない。  乗客を吸い込み終えた電車が次の駅へ向けて出発する。俺は整った顔を歪める後輩に微笑を向けた。 「とりあえず、座らない?」  視線で促して、ホームに備え付けの椅子に常葉と腰を落ちつける。ひとつ飛ばした合間の席に、常葉がとさりと手荷物を置いた。  さて、座らないかと誘ったものの何から話せばいいのか。「ええと……」と言葉を探しているうちに、常葉がちらりと横目でこちらを見る。 「橘さん、ずいぶんいいコート着てますね」 「ああ、これ。変かな?」 「いや、似合ってますよ。でも平日と雰囲気違いすぎて、一瞬誰か分かりませんでした」 「あー……だよね。それを言ったら常葉くんもだけど」 「はは。お互い様スね」  常葉が口火を切ったおかげで舌が滑らかになり、俺は続く言葉をスムーズに発することができた。 「常葉くん。さっきのことは誰にも言わないから」 「わざわざ言わなくたって、橘さんは言いふらしたりしないって分かってますよ。……でも、ありがとうございます」  相手の目を見てしっかり発音すると、後輩は口の端を歪めて苦笑する。  常葉は電車が去った方へ視線をやって、ふううと深く溜め息を吐いた。 「さっきの子、大学時代の後輩なんスけどね。在学中はほとんど接点なかったのに、なんでかあっちが卒業してから付き合ってくれアピールがすごくて。一回デートに付き合ったら落ち着くかなと思ったけど失敗でした。まさか俺が全部プランニングしなきゃいけないとは思わなかった」  そうやって説明する口調は半ば吐き捨てるようで、言葉には空虚な自嘲を多分に含んでいた。  遠い目をして常葉が最後にぽつりと漏らす。 「駄目なんスよね、俺。そういう気遣いができないから。向いてないんです」 「……そっか」  何と返せばいいものか迷った挙げ句、言葉少なに相槌を打つ。欠点がなさそうな後輩の意外な吐露。その横で、  ――常葉くん、好きな相手いたんだな……。  俺は別のことを考えていた。 『俺にとって特別な人は他にいて、今はその人以外のことは考えられないから』  あの、熱烈とも言える独白。彼くらい恵まれた容姿なら、相手など選びたい放題のような気がするが、その気持ちは片思いなのだろうか。世の中とは不可思議なものだ。  横目で常葉の表情をうかがうと、憑き物が落ちたような、存外にさっぱりとした顔をしている。元々誰かに心情を吐き出したい気持ちがあったのかもしれない。俺に話したことで、彼の中の整理がついたのならいいのだが。  俺はわざと明るい声色をつくって後輩に笑いかけた。 「まあ、あんなことがあったらもう積極的に関わる気にはならないんじゃない? むしろ結果オーライかもよ」 「さすがは橘さん、考え方が合理的スね」  常葉が不敵な笑みをにやりと俺に返す。  我々には通底する思考があって、二人だとそれがこうして言葉として表れる。同期の望月が聞いたら、きっとお前らは冷たいなどと言うのだろう。もし入谷が聞いたなら、どう思うだろうか。  何にせよ、常葉に言いたかった文言は伝えた。  じゃあ俺はこれで、と腰を上げかけるのと、不意に後輩が体ごとこちらを向くのが、ほぼ同時だった。  いつもの無表情に戻った端正な顔にじっと見つめられ、「橘さん」と呼び止められる。 「ところで昼飯ってもう済ませました?」 「いや、これからだけど」 「もし良かったら一緒にメシ食いに行きませんか? よく行く喫茶店が二駅隣にあるんで、そこで良ければ案内します」 「……じゃあ、行こうかな」  普段私生活をまったく明かさない後輩からの誘い。心の内で驚きながら、俺は引きずられるようにうなずいていた。目の力をどことなく強めた常葉の誘いを、断ることができなかったのだ。  その両目の光は、ある種の覚悟、のようなものを俺に予感させた。

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