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11話-2 ストレンジ・アライアンス
常葉に連れられて訪れたのは、いわゆる下町エリアにある喫茶店だった。やや年季が入った雑居ビルの三階にあるそこに、後輩に先導されて入店する。
二人です、とピースサインのように店員へ向けて示す常葉の後ろで、俺は店内をぐるりと見やった。純喫茶ほど格式めいた部分のない、親しみやすそうな内装だ。厨房の壁にカレンダーやら地域のイベントのポスターが貼ってあるのが見え、生活感を漂わせている。店内には十ほどのテーブルがあって、それぞれ椅子のデザインが違うのが、遊び心の演出に繋がっているように見えた。お昼時ということもあり、席はおおかた埋まっている。
「空いている席へどうぞ」と促された常葉が選んだのは、ひとつだけ空いていた窓際のソファ席だった。
向かい合わせでソファへ腰を下ろす。がやがやとした喧騒でほぼ掻き消えているが、店内には喫茶店らしくジャズが流れているらしい。常葉はまだ何も切り出さず、視線を真横にある窓から下方へと流している。釣られてそちらに視線をやると、道行く人々が行き来するのを見下ろせるのだった。
ダウンコートを脱いで脇に置く。そこで今日は入谷が選んでくれたニットを着てきていたことを思い出す。注文は汁が飛ばない料理にしよう、と密かに決意した。
お冷やとともに店員がふたつメニューを持ってくる。ぱらぱらめくるとやはり、ナポリタンやミートソーススパゲッティ、サンドイッチ、ハヤシライス、オムライス、ハンバーグなど、オーソドックスな喫茶店メニューが並んでいた。典型的な洋食を出すこういった店には久々に来たが、写真を見る限りどれも美味そうだ。
「常葉くん的には何がおすすめ?」
ぼんやりとメニューを眺めている後輩に訊ねてみる。行き付けと言うくらいだからもしかするとコンプリートしているかも、と予想したのだが。
「んー、ハンバーグドリアしか頼んだことないんで他はわかんないっス」
「あ、そうなんだ……」
小首を傾げた常葉から返ったのは意外な答えだった。しかしこの中から選び続けるには、なかなか攻めたチョイスだ。
しばし決めあぐねていると、はたとあることに気づく。そういえば、俺は納会のときの礼をまだしていない。あのとき飲み会から早引けするする自分の面倒を、常葉は一手に引き受けてくれたのだ。缶コーヒーは何度か差し入れしたけれど、あれじゃお礼のうちには入らないだろう(たとえ常葉がそれでいいと言ったとしても)。
俺があのときのお礼にご馳走するよ、と提案すると、常葉は苦いものを噛んだように顔をしかめた。
「ああ、そんなことありましたっけ……別にあんなの、忘れてくれていいのに。つか、自分が案内した行き付けの店で先輩に払わせる後輩って意味わかんないでしょ。遠慮しときます」
「うーん、そう……? あ」
にべもなく断られて視線を落とすと、視界にメニューのケーキセットが飛び込んでくる。チーズケーキやガトーショコラなど、数種類のラインナップがあるようだ。
「ここのケーキは食べたことあるの?」
訊ねると、常葉は「いや……」と目を瞬かせる。
「常葉くん、甘いものは苦手じゃないよね。もし良かったらそっちだけ払わせてくれない? なんて、俺が押しつけるのも変な話だけど」
「いや……それなら、お言葉に甘えようかな。実は前から気にはなってたんスよね」
常葉は冗談めかしてにやりと笑う。それが社交辞令だとしても、彼の応対は俺にとって心地好かった。
迷った挙げ句、俺はスタンダードにデミグラスオムライスとブレンドコーヒーのセットを注文した。常葉はハンバーグドリアとレアチーズケーキである。
料理を待つあいだ、俺と常葉は他愛のない雑談を交わした。常葉は月に一回はこの喫茶店に来てのんびり本を読んだり、眼下の往来の人間観察をしているらしい。俺と話していても目線がふっと窓下に向かうので、もう習慣として体に染みついているのだろう。
「人間観察かあ。若い子のあいだでは今そういうのが流行ってるの?」
「んなわけないじゃないスか」深く考えずに問いかけると、水を飲もうとしていた常葉が噴き出す。
「流行ってたら怖いでしょうよ。俺にそういうの訊かないで下さい、流行には疎いんで。――つうか、若い子ってなんスか。年寄りみたいなこと言わんで下さいよ」
橘さんってけっこう天然ですよね、と真顔で言われて返答に窮する。
そうするうちに、もしかしたら俺が感じた覚悟めいた目の光は見間違いだったのかもしれない、と思えてきた。まあ、後輩とただ雑談を交わして一緒に昼食を食べるだけというのもたまにはいいだろう。常葉に案内されなければ、この店に来ることはおそらく一生なかっただろうし、何事も経験だ。
メインの料理より先に来たサラダとオニオンスープを口に運びながらも、雑談は途切れず続く。
「さっきここでいつも本読んでるって言ってたよね。どんな本読むの?」
「あー……大体小説ですかね。昭和の作家の」
「へー。たとえば誰の?」
「有名どころでは江戸川乱歩とか横溝正史とか。こういうこと言うと引かれるかもですけど、昭和のエログロが好きなんで。大学は乱歩と横溝で卒論書きましたし」
「はあー……そうなんだ。本は全然読まないからなあ……。あでも、子供の頃に怪人二十面相は読んだ覚えがある」
「そしたらぜひ、『芋虫』とか読んでみて下さい。ぶっ飛びますよ」
常葉の目がいつになく輝いている。本当に本が好きなのだろう。彼が文学青年だということをいま初めて知った。
そうこうしていると、ほかほかと湯気を上げるオムライスとドリアが運ばれてくる。
オムライスは、薄い卵焼きでくるまれた昔ながらのスタイルだ。明るい山吹色の卵は布のようになめらかで、表面には焼き色ひとつない。そこに、食欲をそそる匂いのデミグラスソースがかかっている。
いただきます、と手を合わせて端からスプーンで掬って食べる。子供に返ったように、熱々を口いっぱいにほふほふと頬張って。
まずバターが香る卵の甘さ、次にデミグラスソースのコク、最後にケチャップライスの酸味とチキンやコーンやマッシュルームの具材感が来る。デミグラスソースはこっくりした旨味があるだけでなく、ほのかなほろ苦さや野菜由来の酸っぱさも含まれていて、飽きのこない味に感じた。こういうスタンダードなオムライスを食べたのは久しぶりだが、懐かしい気分になれて悪くない。
「どうスか、橘さん」手をひととき休めた常葉が訊ねてくる。俺は安心させるように笑顔でうなずいてみせた。
「うん、美味しいよ。あんまり喫茶店って来ないんだけど、懐かしい味がする。常葉くんのはどう?」
「ま、いつもの味って感じっス」
その口調は淡々としていたが、口元がほころんでいるのを見るに、ここのハンバーグドリアがよっぽど好きなのだろう。好物を味わって楽しんでいる後輩を前に、自分もなんとなく嬉しい気分になる。若者が何かを美味しそうに食べる様子ってほほえましいよな……なんて、老成しすぎな感想だろうか。
最後まで美味しくオムライスを食べ終えた頃、二人ぶんのコーヒーとケーキと運ばれてくる。チーズケーキにはベリーソースがかかっているらしい。湯気の立つカップを傾けて一口飲んでみる。深煎りのコーヒーは酸味が少なく、店内の雰囲気に合うほっとする味だった。
小さくうなずきながらチーズケーキを食べ進める常葉と「どう、美味しい?」「美味いス」なんて会話をしてみたり、コーヒーを飲みながら彼の真似をして往来を見下ろしてみたり。なんだかすごく長閑な気分だ。
やがてケーキを食べ終えた常葉が口元を紙ナプキンで拭う。
「そういえば俺、橘さんにひとつ訊きたいことがあって」
「うん? なに?」
俺はとてもリラックスしていて、その先の言葉に対して構える暇 もなかった。
「昨日のことなんスけど。橘さん、もしかして」そこで後輩が、俺たちがデートで行った場所の名を音にする。
「そこに、いましたか?」
一拍遅れて、呼吸が止まるほどの動揺を覚えた。昨日感じた視線が脳裏に甦って。やはり、あれは常葉本人だったのだ。俺の勘違いなどではなく。
一瞬で喉がからからに乾?いていた。いや待て、一旦落ち着こう。常葉があそこに居合わせたからといって、入谷の存在に気づいたかどうかはまだ分からないじゃないか。
「う、うん。いたけど……」
「そうスか」
相手の熱のない相槌。対して己の心臓は、近年稀に見る速度で早鐘を打っている。
儚い俺の希望的観測は、
「あのとき一緒にいた人が、入谷紫音さん?」
続く問いで粉々に打ち破られた。そして続けて、後輩は決定的な言葉を口にする。
「彼と付き合ってるんですか? あ、恋人なのかって意味です」
今度こそ、呼吸ができなくなった。俺の身体活動が止まったのか、時間自体が止まったのか、どちらかだと思った。それくらい何も考えられなくなって、半径三メートルより遠くの音も景色も急速に遠ざかっていく。
腿の上で、手汗で湿る掌をぎゅっと握りこんだ。自分の愚かさに情けなくなる。こういった質問をされたときどう答えるべきか、事前に想定しておくべきだったのに。
常葉はまっすぐに、こちらをじっと見つめている。その目に好奇の色はない。ただただ、事実確認のための透徹した視線だ。
こうなったら、と俺は腹を括った。入谷のことで嘘はつきたくない。その気持ちは前々から決まっていたのだ。だったら、ここで返すべき返事はひとつしかない。
「……うん、そうだよ。一緒にいた人が入谷……くんで、彼とは恋人同士だ」
はっきり肯定すると、常葉はわずかに目を瞠った。「そうスか……」と吐き出すように言って、脱力したように背もたれに身を預ける。ふう、と長く息をつく後輩を見ながら、俺はまた急速に不安に襲われた。
勢いで肯定してしまったものの、俺が入谷と恋人だということは、入谷の指向も勝手に明かしてしまったことになる。それに、もっと根掘り葉掘り訊かれたら? 常葉はそんな人間ではないと信じてはいるが、もし。
「橘さんってバイセクシャルなんですか?」「それとも前からゲイだったとか?」「入谷さんと橘さんは、どっちがどっちの役なんですか?」
そのようなことを、尋ねられたら。
「橘さん」いつの間にか姿勢を正した常葉に呼ばわれ、肩が跳ねる。
ごくり、と唾を飲む自分の喉が鳴って。張り詰めた空気を裂くように、常葉はがばり、と音が聞こえそうな勢いで深々と頭を下げた。額がテーブルにつくすれすれの角度まで。
「訊きたかったのはそれだけです。立ち入ったことを訊いてしまって、すみません」
俺は毒気が抜かれたように、それを呆けて眺めることしかできない。
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