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11話-4 ストレンジ・アライアンス
「ええと……もしかしたら認識のすり合わせが必要かもしれないので、こちらからも確認します。柾之さんと僕が恋人同士であることを、あなたは〝良かった〟と仰いましたね? 僕にはそこが分からない。あなたは何を意図してこちらへいらしたのですか」
俺もそれこそが知りたかった。常葉の顔色は変わらない。そんなものは何でもないとばかりに、いともさらさらと答える。
「橘さんの恋人が――入谷さんがどんな方なのかこの目でしっかり確かめたかったんです。ちょっと見かけただけで二枚目なのは分かったんで、こう言っちゃ悪いですが橘さんが騙されてる可能性もあるかもと思って。橘さん、冷めてる割に脇が甘いから。いつも心配してるんですよ」
「ちょっと、常葉くん――」
急に貶されて抗議しようとするも、入谷に手で制される。彼の口調は穏やかだった。
「それで、いかがでしたか? 僕の印象は。懸念は払拭されたでしょうか」
「ええ、安心しました」ふっと破顔しながら後輩が言う。「お二人が信頼し合ってるのが伝わってきましたから。この短時間で、すごくお似合いだと思いました」
「常葉くん……」
胸のあたりがじんと痺れる。第三者から見た俺たちの印象を聞ける日が来るなんて、まったく思ってもいなかった。心の中の池に投げ込まれた言葉が、いくつもの水の輪を作り広がっていく。
しかし常葉といい姉といい、そんなに俺が入谷に騙されているように見えるのだろうか。この人とは住んでいる世界が違うなと、自分でも事あるごとに感じるのは確かだが……。
俺が複雑な感慨に打たれて反応できないでいるうち、常葉はこの場を去ることに決めたらしい。「それじゃ、俺はこれで――」と立つ鳥のように何気なく立ち上がりかける。
そんな後輩を引き留めたのは、入谷の「お待ちなさい」という硬さを含んだ言葉だった。彼の命令口調など、あまり聞いた覚えがない。
入谷はひた、と切れ長の目で常葉を見据える。
「あなたがもう用がなくても、こちらはまだ訊きたいことがあります。あなたが口にした話題は、なかなかにセンシティブな部類のものだということはお分かりでしょう? 僕らはあなたにいくつか質問を返す権利があると思うのですが。いかがでしょうか」
滔々たる主張に、常葉はああ……と得心したように首肯する。
「そうですね。そう思います。何でも答えるんで、遠慮なく訊いて下さい」
腰を浮かしかけた後輩が素直に座り直す。入谷はありがとうございます、とほほえんでみせ、
「それでは、橘さんからどうぞ」
「えっ、俺?」
急にこちらに質問を委ねてきた。慌てて思考を回転させ始める。間を持たせるために何度かコーヒーで唇を湿らせて、一体何を訊けばこの場が収まるか考える。
コーヒーの苦味が脳にまで到達すると、不意に先ほど常葉が呟いた言葉がくっきりと頭に浮かんだ。
「あのさ、常葉くん。さっき、『推しが推しカプに』みたいなこと言ってたよね。あれ、どういうことだろう」
「あー……それスか」
常葉の表情がコーヒーを含んだように苦くなる。たぶん、核心をついたのだ。
俺は馴染みの小料理屋で彼と交わした会話を思い出す。クールに見えた後輩が、内面に秘めた熱を垣間見せてくれた日のことを。
「前に、常葉くんの〝推し〟について話してくれたことがあったよね。その推しが、俺たちに関わってるってこと?」
「んー、それは……」
常葉の渋い顔は変わらない。一度ぎゅっと目を瞑ってから、ひとつ息をついて話し出す。
「まあ、この際どうなってもいいか。関わってるなんてもんじゃないです。俺の推しっていうのは、橘さんのことなんで」
手に持っていた全てのカードを、テーブルの上へ無造作に開示するような調子で、常葉が言いきった。
「……。……?」ちょっと、待ってくれ。常葉には推しがいて、その推しというのは俺で、つまり常葉の推しとは、この自分自身で。
「ええっ」
予想だにしていなかった告白に素っ頓狂な声が出る。そもそも常葉は、俺を嫌っていなかったのか?
「それは……本当に、そうなの?」
「はい。本当の本当です」
二の句が継げない俺の前で、一番言いにくいことを白状したからなのか、後輩は晴れ晴れとした顔つきになっていた。反対に、俺の質問あたりから不可解そうな雰囲気をまとっていた入谷の顔には、あからさまに「どういうことですか?」と書いてある。
常葉の態度について少し悩んでいたとき、入谷には後輩について説明したことがあった。その際、彼の推しについてはプライベートに関わると思って省いていたのだ。
俺の口からは何とも言いがたく、常葉本人から改めて説明してもらうことにする。しかしそれをこの距離で聞くのはなかなかの苦行であった。俺が彼の〝推し〟だと明かされた状況で、常葉が「橘さんが毎日健康に憂いなく過ごしてくれたら自分は満足」だの、「大袈裟に言うと自分にとっては生き甲斐に近い」だのと真面目くさった顔で言うものだから、居たたまれなくてこちらの頬が熱くなってしまう。妙に喉が渇き、冷めたコーヒーを啜る回数が増していく。
今日駅のホームで口論中に常葉が言っていた、『大切な人がいて、その人以外のことは考えられない』とは、俺を指していたのか。だから彼は『よりによって橘さんに見られるとか』と嘆いていたのか。
頭がぐるぐるとかき混ぜられているような感じがした。誰か別の、俺ではない人間について話されているみたいだ。だって俺はたまにご飯を奢っているくらいで、特段彼に何もしていない。後輩が抱いているらしい無私と呼べるほどの純粋で強い気持ちに、自分が相応しいとは到底思えない。
常葉とやり取りするうちに、入谷の表情からは霧が晴れるように険しさが取れていった。マイナス感情がゼロに振れるのみなからず、後輩の言う推し文化(というのだろうか)に関心を抱いたらしく、興味津々といった様子で身を乗り出している。
「推しというのは、恋愛感情はまったくないものなんですか?」
「俺の場合はまっったくないですね。リアコとは真逆なんで」
「なるほど。推しカプと仰ったそうですが、それには僕も含まれるのでしょうか」
「そうです。これから推したいと思います。――ところで入谷さんは写真家で、橘さんの取引相手なんですよね? 橘さんが取引先の人に手を出すような人だったのは、ちょっと残念ですけど……」
「手を出すって、それは」
油断していたら急カーブの軌道で刺された。事実は事実なので、うまく言い訳もできないが。
入谷は彼特有の如才ない笑みをふわりと浮かべる。
「その点はご安心を。元々手を出したのは僕の方からですし、取引相手になったのはその後のことですから」
「その言い方もどうなんだろう……」
「そうでしたか。それで安心しました。やっぱり橘さんは曇りない俺の推しっス」
なんだか妙な会話だ。気が抜けてしまい、安心したんだ、と突っ込む気力が湧かない。
ひとまず納得したのか、入谷が背をソファにつけてこちらに視線を向けてくる。
「柾之さんも、常葉さんの推しがご自身だとご存知なかったのですね?」
「うん……むしろ、常葉くんは俺のこと嫌いなのかもなあと思ってたから」
「それはないでしょう」「それはないスよ」
二人から一斉に否定を受ける。なぜか息ぴったりだ。
常葉がふうと深くため息をついて、どこかもどかしそうにがりがりと頭を掻く。
「橘さん、全然気づいてなかったんスね。酔ってぺらぺら推しの話したときやらかしたなーと思ってたのに。さすがにバレたかもなと悩んでた俺が馬鹿みたいじゃないスか」
「ご、ごめん……?」
「いやいや、俺が愚かだっただけっス」
常葉も悩んでいたのか、全然知らなかった。それにしても、普通の生活の中で愚かって聞くことあんまりないな。
いつしか肩の力が抜けていた。俺が後輩について思い悩んでいたのは全部勘違いだったというわけだ。常葉は俺を陰ながら見守っており、恋人ができたことを心から良かったと思ってくれている、ただのいい奴なのだ。
そう考えるとひとつ引っかかりがあることに、俺は思い至る。トレーニングジムを紹介すると言ったとき、常葉は難色を示していた。嫌いでないなら、なぜ嫌がっていたのだろう。
本人に問うてみると、眉を曇らせて渋面になった。
「それはなんというか……トレーニング中の橘さんを見かけるかもと思ったら申し訳ない気持ちになって。勝手に推してる身としては、見られることを意識してない瞬間の推しを見るわけにはいけないと思うんス」
「そうなんだ……?」
よく分からない理屈だが常葉の中ではそうなのだろうと理解する。
「申し訳ないっていうのはちょっと分からないけど……じゃああれは? 常葉くんが少し飲み過ぎてふらついたとき、俺が腕を支えたことがあったでしょう。あのとき俺のこと怖がってなかった? 怯えるというか……」
「それはあれです。俺が推しと物理的に接触するのは解釈違いというか、別の世界線が交わっちゃった感じというか。あの後かなり自己嫌悪でした。自分、マジないわーって」
「解釈違い……? 世界線?」
駄目だ。年代の差なのか、彼の言動についていくのが難しい。ただ、彼が意外と自罰的な思考回路を持っているのだけは分かった。
顔に「?」を浮かべているであろう俺に、またも常葉ががばりと頭を下げてくる。
「キモくてすみませんほんとに。何考えてるか分かりにくい上に中身がこんなんで」
「いや別に、キモいとかはないって」
「ほんとスか? さすがに推しバレしたら今の会社辞めるしかないなと思ってたところだったんスけど」
「いやなんで?」
真顔でとんでもないことを言ってくる。普通に転職するなら止める権利もないが、自分の人生を俺のために曲げないでほしい。
「そんなことしなくていいって。俺は本当に気にしないから!」
「そっスか? 分かりました……」
そう言いつつ、常葉は半信半疑といった表情だ。
「なんか色々と申し訳なかったです。俺のせいで橘さんに気を回させちゃってたんスね。推しを推す者として一生の不覚です。これからはもっと空気のようになります」
「俺は本当に何も……」
神妙な顔つきの常葉を前にして考えを巡らす。常葉は俺を推していて、俺と入谷は恋人。共有された事実は三人の関係を何ら揺るがすものではない、と今日ここで明らかになった。今後入谷と常葉のあいだで交流が発生する可能性があることだけが、我々における変化と言えようか。
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