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6話-4 バッド・ガイ

「なんだか先日より、腹筋が固いような」 「ん……!」  何が楽しいのか、腹をしつこく撫で回していた入谷が訊いてくる。その問いに頬がかっと熱くなった。  確かに俺はジムに通う頻度を上げた。これからも入谷の前で体を晒す状況に陥るなら、もう少し見られる体になった方がいいのでは――そんな想像がうっすらとでもあっただなんて、自意識過剰みたいで到底口には出せない。俺の羞恥心を素手で鷲掴みにするような言動を、入谷は意識的にやっているのだろうか。  ジム。ああ、そうだ。今日は入谷に、常葉の態度について相談しようと思っていたのに。結局こんな雰囲気になるのだったら、それどころじゃないではないか。  入谷の指がぬるりと俺の手に絡んでくる。手を握り合わせ、にぎにぎと何度か十指を動かした後は、重ねた掌をじっくり時間をかけて縦方向に動かす。なぜかそれが、全身の産毛が総毛立ちそうなほど、ぞくぞくして気持ちいい。それはもはや愛撫であり、前戯だった。  なんだこれは。こんな感覚、俺は知らない。 「気持ちいいでしょう? 掌と指って、神経がたくさん(かよ)っているから敏感なんです」  入谷は秘密を種明かしするように、楽しげに呟く。 「あの、なんか……触り方がいやらしいんですが……」 「あなたがいやらしいことを考えているから、そう感じるんでしょう」 「それはっ、責任転嫁ですよ……!」  彼の手の愛撫はさらに首、肘窩(ちゅうか)、手首、脇腹、背すじの溝、太腿の付け根へと及ぶ。そのどれもが快い。息が熱く、目の前がとろんとしてしまうほどに。もう、彼にすべてを委ねてしまいたい。  いや、まずい。このままでは全身を開発されてしまいそうだ。  入谷の手は今、俺に自身の体のかたちを分からせようとするように、念入りに鼠径部(そけいぶ)を往復している。際どい部分を触られるものだから、当然起つところも起ってしまう。  周辺はしつこいほどまさぐるのに、中心にはわざと触れないのが、生殺しにされているみたいでもどかしい。甘い快感が体内に溜まり、腰が砕けそうになって、思わず両手で壁に手をつく。  ふふ、という含み笑いが肩甲骨あたりをくすぐる。 「柾之さんの体、とても感じやすいですよね。本当に可愛らしくて、たまらない」 「違う、それは入谷さんが」 「違う? 一度出したばかりで、もうこんな風になっているのに?」  入谷の細く長い指がとうとう、屹立したものに届いた。  その瞬間が気持ちよすぎて、一発で理性が飛びそうになる。唇を噛んだのに、蕩けた声が鼻から抜けていく。  俺は何を我慢しているんだろう。ここは風呂場で、お互い裸なのだから、セックスするにはお(あつら)え向きのシチュエーションなのに。つまらない意地を張る必要なんてない。そう押し流されるように考えている自分に愕然とする。  そこで前触れなく、相手の体が離れた。 「今はこのへんにしておきましょうか」 「えっ……」 「そんな物欲しげな顔をしなくても」  反射的に振り向くと、生理的な涙で潤んだ網膜の向こうで、相手は眉尻を下げて微笑している。それではどうぞごゆっくり、と言い残して入谷は軽やかな足取りで浴室から去っていった。先ほどまでの過剰なねちっこさなどまるで嘘だったように。  ふうう、と長く深いため息をひとつ吐く。体にはじくじくした熱と欲が残ったままだった。一回抜いてから出ようかな、と一瞬考えるものの、入谷に勘づかれて言及されたら恥に耐えられないだろう。どうか(しず)まれ鎮まれと念じながら、温度設定を低くしたシャワーでボディーソープを洗い流す。  脱衣場に(しつら)えられたランドリーラックには、パッケージに入ったままの新品の下着と、ふわふわしたタオル地のバスローブが用意してあった。これを着ろということらしい。  バスローブなんて入谷のイメージそのままだな、とぼんやり思いながらそれに袖を通す。オフィスに来るときに着ていたシャツや作業着はバスケットから消えていた。なんとなく、これも入谷の意地悪のような気がする。俺が特定の何かをしなければ返してもらえない、とか。そんなことを淡く期待している自分自身が嫌だ。  ローブの袷を掻き抱いてリビングに戻ると、そこに家主の姿はなかった。かすかにほうじ茶の芳香が漂っているが、飲み物を入れる器はどこにもない。  五分ほどソファで待ってみたが一向に待ち人は現れなかった。さすがに不審に思って入谷を探すことにする。脱衣場と浴室には当然いなかったから、それ以外の部屋、キッチンやトイレを確認していく。  脳裏を強い既視感(デジャヴ)が過る。俺はうすうすこの状況の帰結に気づいている。なぜなら現在と酷似した状況を経験したことがあるからだ。それも、つい最近。  最後に残った部屋のドアは、俺をその先の空間へ招き入れるように、うっすらと開いていた。隙間から香ばしいほうじ茶の薫りが立ち(のぼ)ってくる。  心を決めて、ドアを押し開いた。予想通りそこは寝室で、俺と同じデザインのバスローブを纏った入谷が、セミダブル以上の大きなベッドに腰かけ、マグカップでお茶を飲んでいた。  艶やかな黒髪に水分を含ませたままの青年は、こちらをゆっくり振り仰いで目元をとろかす。胸元からはなめらかな肌が覗いていて、ほぼ裸を見たばかりだというのに、目が惹き付けられてしまう。円形のサイドテーブルにカップをことりと置いて、上半身を捻り俺に向き直る。  入谷の寝室はほのかにお香のようなエキゾチックな匂いがした。カーテンも壁紙も書棚も落ち着いたアースカラーで統一されていて、見るからにリラックスできそうな部屋だ。  心を落ち着かせ、体を休めるためのごく個人的な空間。そこを俺が侵していることにくらくらしてしまう。  揺れる心情をぎゅっと踏み固めるような心持ちで、入谷に要求する。 「入谷さん。服を返して頂けませんか」 「ええ、分かっていますよ。あなたのその扇情的な格好を一目見たら、返すつもりでいましたので」 「扇情的って……」  気が抜けるような言葉に思わず苦笑してしまう。俺よりもよほど彼自身の方が似合いそうな単語である。 「そういうわけですから、そう焦らずに。こちらへどうぞ」  言いながら入谷はぽんぽんとベッドの右隣を叩く。座れということか。  やや気まずく感じつつ、拳ふたつ分ほど距離を空けて腰を下ろした。ふわり、と自分と同じボディーソープの香りがほんのりと鼻腔をくすぐる。 「それで、服はどこに?」 「返すつもり、だったのですけれどね。しかし、その格好を見てそうも言っていられなくなりまして」 「というと……?」  なにやら不穏な空気だ。ずっと前方を見て話していた入谷が、いきなり俺の方を向く。  瞳の奥に確かに宿る、揺らめく炎のような輝き。 「見るだけでは物足りない、ということです」  言うが早いか、腰かけた格好の俺の膝に入谷が跨がってきた。半分予想通りの展開なのに()けられず、ローブのまくれた裾から白く艶かしい腿が垣間見えてどきりとする。  さすがに下着は穿いていると思いたいが――実際は分からない。穿いていなかったらどうしよう、という逞しい妄想が、無為に体内の熱の生産を促進する。 「柾之さん……」 「……っ」  熱っぽく名前を呼ばれ、じり、と頭の中が痺れる。煙草の火が赤く(おこ)るような、焦燥に似た衝動の発火。  体勢で言ったら、これは二回目にギャラリーで入谷と会った時と同じだ。経験があるのだから前回よりうまく対処できてもよさそうなのに、記憶が刺激されることでむしろ期待が呼び覚まされてしまう。  初めて彼とキスをしたギャラリー。あのときは半ば公の場だったが、ここは完全に入谷のプライベートスペースだ。つまり、何をしようが誰にも何も咎められない、ということ。  間近に迫る入谷の頬は薄く朱色に染まっていた。湿ったままの髪が一房二房、顔に乱れ散っているのが妙に色っぽい。  相手はこちらに抱きつくような格好で首筋を舐め上げる。と同時に、(うなじ)のあたりの髪をざり、と指の腹で撫でられ、ぞわぞわした感触が脳天項から尾骨あたりまでを瞬間的に貫く。 「っ、ん……!」 「柾之さん、首弱いですもんね」入谷の息を多く含んだ声が、耳管に直接吹き込まれる。「あなたはいけない方です。真面目な顔をしながら、性感帯を衆目に晒して仕事をしているのだから」 「ちが……」 「違うんですか? こっちは肯定のようですが」  こっち、の言葉とともに股間にぐりぐりと当たるものがある。目線を落とせば、オフホワイトのローブを持ち上げる屹立がふたつ、互いに押し合いながら存在を主張していた。痛みの中にうっすら快感があるのがもどかしく、何より、涼しい顔をして入谷もしっかり興奮しているのだと思うと、何やら胸のあたりが落ち着きなくざわざわする。 「浴室では抜いていませんから、お辛いのではありませんか。そろそろ触っても?」 「だ、駄目です」 「然様(さよう)ですか。今回はいつになく頑なですね」  入谷はやや鼻白むように眉を曇らせ、こくりと小首を傾げる。 「柾之さん、今日は最初から少し浮かない顔をしておられましたものね。何かありましたか」 「え……」  目を(みは)り、言葉を失う。まさか出会い頭からいつもと違うと勘づかれていたなんて、露ほども思っていなかった。

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