28 / 42
6話-5 バッド・ガイ
眼前にある顔から表情が消え、切れ長の目が細められる。心の奥底まで見通すような真っ直ぐな視線に、耐えきれず目を逸らす。
「なるほど、やはり何かあるのですね。悩み事ですか? 僕には言えないような」
「それは……そういうわけでは、ないのですが」
入谷の声も体温も、やや低くなったように感じる。彼の手が下半身に降りてきて、持ち上がった布の上から昂りに触れてくる。最初は包み込むように優しく、徐々に扱くように性急に。布地越しの刺激は少しだけ物足りなくて、抑えようとするのに腰がねだるようにゆらゆらと動いてしまう。
呼吸が荒く、吐息が熱くなる。やっぱり入谷にしてもらうのはとても気持ちいい。自分の意地が取るに足らなく思えてきて、何層にも重ねて被っていた理性の化けの皮が呆気なく剥がされていく。自分が何に意固地になっていたのか、悦楽に掻き消されそうになる。
「ちょっと、後輩のことでなやんでいて」
ほろりと口の端からこぼれた言葉は驚くほど舌足らずだった。まるで残暑でとろけたアイスクリームのようだ。
入谷の目元がどこか嬉しそうににんまりと歪む。
「後輩、ですか。その方は男性? 女性?」
「男……です」
相変わらず入谷の手は俺のものを上下に扱き続けている。気持ちいい。早く達 きたい。入谷の服でも掌でも何でもいいから、ぐちゃぐちゃに汚してしまいたい。
深い色をした瞳がこちらをじっと覗きこんでくる。
「ねえ、僕に聞かせて下さいませんか。あなたの悩みと、その後輩くんのことを」
「今、この状況で、ですか」
「ええ。今すぐです」
力がこもった入谷の手に、出口のあたりをぐっと押さえつけられた。あ、と動揺がかすれ声となって口の端から漏れ出る。そこを塞がれては出せなくなる。出せなくなるのは、辛い。
入谷はなおも要求を重ねる。
「言って、柾之さん」
言うまで達かせない。話すまで離さない。そんな強固な意思を十二分に読み取れた。
俺は観念して唇を舐める。おかしいな。元々入谷には相談する心積りだったのに、この背徳感は一体何だろう。
後輩の常葉について洗いざらい喋る。入社直後のこと。お互いの共通点のこと。先日の居酒屋でのこと。今日の喫煙室でのやり取りや、実は後輩は自分を疎んでいるのではないかと懸念していること。
おそらく彼にとってはナイーブな話題であったはずの「彼の推し」を除いて、ほぼすべてを入谷に話した。
「それで、その後輩の彼に嫌われているのではないかと、あなたは考えているのですね?」
「……はい」
「やれやれ。"常葉くん"が言うように、あなたが鈍感というのは間違いないようですね」
嘆息するような調子で入谷が評する。今の話を自分でしていてなぜ気がつかないのか。そんな風に言いたげだった。
屹立の先端を押さえていた指はいつしか離れ、竿の部分への刺激を再開している。乾いた笑みを浮かべ、遠くを見つめる目で入谷が言い放つ。
「罪な人ですね、あなたは」
「なにを……」
快感と困惑に挟まれて混乱する。入谷がどうも怒っているように思え、自分にはその憤りの理由がとんと分からなかったからだ。どうしてこの話の流れで入谷が怒る? 常葉が俺を嫌っているのか否か、彼には一"聴"瞭然らしかった。
唐突に昂りへの刺激を入谷がやめた。宙ぶらりんになった快感を追うように入谷の挙動を注視してしまう。黒髪の青年は膝から降りると、俺の左耳に顔を寄せた。
「?」と思う時間は一秒にも満たなかっただろう。ぴちゃ、と濡れた音が大きく聞こえて背すじがびくんと伸びる。
舐められているのだ。耳を。
そんなところを舐められたことなど今までなかった。筋肉の塊である舌が形を柔軟に変えながら、耳介 の表面をぬる、じゅり、となぞっていく。大きすぎる水音に鼓膜を犯される。耳介内縁を上から下へ辿られ、未知の感触に総身がぴくぴくと震えた。
それだけでも耐えがたいほどの刺激だった。それなのに。
入谷の舌がとうとう、耳管の中へと侵入 ってくる。熱く質量のあるものに押し入られ、強すぎる刺激が脳を直接掻き回すようだ。ん、ふ、と嬌声を鼻から逃がしながら、我慢できずに身悶えしてしまう。
こんなの、駄目だ。頭がおかしくなる。気持ちよさとはまた違うベクトルの、一撃で理性が破壊されるような強烈な何か。
ぴちゃ、くちゅ、じゅる、あまりにも淫らな音が思考をぐずぐずに溶かす。意識が飛んでしまいそうだ。体から力が抜けて、入谷の腕に上半身を支えられる。
「紫音、くん……した、下、さわって……」
耐えかねて欲求を口にすると、耳から顔を離した入谷は不思議そうに首をひねった。
「おや、それはおかしいですね。あなたが触るなと仰ったんでしょう?」
「そう……だけど、こんな」
「ご自身でしたらいい」
「え……」
驚くほど冷めた声にはっとして相手の顔を見返す。何を考えているのか読み取れない、穏やかな無表情がそこにある。
「ほら、触って僕に見せて。柾之」
「……!」
名前を呼び捨てにされ、なぜか下腹部がずくりと疼く。
ほら、どうするんですか、と言わんばかりに入谷が耳たぶを甘噛みする。体のそこかしこが敏感になってしまっていて、それだけで感じすぎて辛い。
ごくりと息を飲む。早くこの状態から解放されたい一心で、なりふり構わず己の下半身に手を伸ばす。ローブの紐を解き、先走りで汚れた新品の下着から昂りを取り出す。入谷が喉を鳴らすのがすぐそばから聞こえる。
久しぶりの自慰を、まさか彼の前でする羽目になるなんて。惨めさが余計に熱を煽る。
入谷のうねる舌がまた耳管に差し込まれ、我を忘れてひたすら右手を動かす。耳からの暴力的なまでの刺激に急 き立てられるように、下半身からも快感があふれていく。独りの自慰とは比べものにならないくらいの興奮があった。
これは決してセックスではない。セックスにも匹敵する、いやもしかするとセックス以上に享楽的で狂乱的な、背徳的行為だ。
自分の呼吸がどんどん切迫していく。はだけたローブを肩に引っかけ、一心不乱に屹立を扱くみっともない俺の様子を、入谷は透き通った目で見やっているのだろう。そう思うと、なぜかいっそう体が火照るのだった。
達する瞬間、瞼の裏が真っ白になる。掌にどくりどくりと激しい収縮が伝わって、弾けるような悦楽の波に唇を噛んで耐え抜く。
白濁を受け止めた手をそのままに、脱力した上半身をベッドへと投げ出した。
ああ、やってしまった。入谷と性的な接触は持たないと決めたのに、普通にセックスするよりも業の深い痴態を演じてしまった。
絶頂後の脱力感から回復してきたとき、こちらを静かに見下ろす入谷の視線に気がついて我に返る。その姿に纏っているのはいつもの穏やかさや余裕ではなく、何かぴりぴりと緊張感のあるもののように見えた。
そろそろと年下の青年を窺いながら声をかける。
「あの、入谷さん……何か、怒ってます?」
「ええ、そうですね……。どうしようもなく腹が立っています。自分自身に」
「え?」
入谷が自身に? どういう意味だろう。怒気の理由が分からず、目を瞬かせてしまう。
「僕は悪い男です」
ぽつりと、空間へ無造作に置くように入谷が呟く。どうして彼が俺みたいなことを言うのか、皆目見当がつかない。
手渡されたティッシュで手を拭う俺の前で、入谷は悄然と項垂 れながらなおも言葉を継ぐ。
「すみませんでした。僕はすべきではないことをしてしまった。あなたの服や生理現象を人質のようにして、あなたの気持ちを踏みにじってしまいました。今ほどのような行為はもうしません。お約束します」
「あの、入谷さん?」
先刻とは異なる混乱に襲われる。入谷は何に対して反省しているのだろう。元はと言えば、すべては俺のおかしな体質が招いたことなのに。
写真家はゆらりと一歩後ずさって、こちらから目線を外す。
「橘さん、オフィスへはしばらく来て頂かなくて結構です。近いうちに一ヶ月ほどヨーロッパへ撮影旅行に行きますので。帰国して用件ができましたら、また僕の方からご連絡差し上げます」
「え? ああ……はい」
それまでそっちからは連絡してくるな。言外に釘を刺された気がしてどことなく胸が騒ぐ。入谷はおそらく何かしら心境の変化があったのだろうが、それについていけない俺はやはり、他人の心情の機微を読み取れない冷血人間なのだろう。
「服はリビングのスツールの中です」と言われ、釈然としない気持ちを抱えながらも寝室を後にする。入谷は完全に俺から顔を背けていて、別れの挨拶もなかった。
スツールを探して開けてみると確かに俺の服があり、畳んであったシャツや作業着を着直しながら、きっとこのまま勝手に帰れということだろうな、とぼんやり思う。予想通り、俺が玄関ドアを跨ぐまで家主はリビングに現れなかった。
入谷が何に怒り、何に落ち込んでいたのか自分には分からない。別に今の一件で入谷を嫌いになったとかそういうこともない。けれど、今日のような行為を「もうしません」と相手が言うならそれでいいんじゃないか、とも思う。
こんな爛 れた関係はいけないと考えていた。
会う度に欲情に溺れるなんて不健全すぎた。
そう、これでいいのだ。思えば最初からおかしな関係だった。先方からの申し出を無下にするのも忍びないだろうし。なんて、俺は入谷の言質をただ利用しようとしているだけかもしれないけれど。
でも、なぜだろう。入谷との堕落した関係は終わりを迎えたというのに、俺の望むとおりになったというのに、寂しさを――心を冷ます隙間風のような寂しさを、確かに感じてしまうのは。
車に乗り込む直前、入谷の寝室のエキゾチックな匂いが、残り香のようにふと鼻腔を過った。
ともだちにシェアしよう!