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7話-1 コーリング・ユー

 入谷はこの瞬間、どこにいて何をしているのだろうか。 「しばらく来なくていい」と伝えられた日から、そんな疑問を何度も頭に浮かべている。毎日の出勤時、仕事の休憩時間、食事中、就寝前など、何度も何度も、ふとした瞬間に。  ヨーロッパに撮影に行くと言っていたから、何ヵ国も訪ねて回っていると想像できる。彼はどんな風に被写体を決め、どんなカメラをどうやって構えるのだろう。俺は彼の写真について、作品として完成されたものしか知らない。そのことに、遅まきながら愕然としている。  写真を見て頬を火照らせ体を許し合う前に、彼がどこでどういう気持ちで写真を撮っているのか、そういうことを訊いてみれば良かった。写真集を二人で眺め、彼が選んだ美味しい和菓子を食べながら、彼の心構えや仕事のディテールについて話したかった。  そうしてもっと、彼の内面を知って、健全に仲を深めていきたかった。  それももうできない。俺が拒絶してしまったせいで。  異邦人として諸国を巡っている入谷をイメージする。ひとりでだろうか、助手がいるのか? ファインダーを覗きこむ行為は人を無防備にするに違いない。あれだけ綺麗な人がひとりでいたらきっと危険だ。お近づきになりたい衝動に駆られる人だっていてもおかしくない。  体格のいい外国人に組み敷かれ、服を剥かれていく入谷。互いの手足が絡み合い、吐息が交じり、白い肌が空気に(さら)される。  無論すべては俺の妄想で、そんなことはないはずだと分かっている。俺が初めてだと言っていた彼が、そこまで無防備で色に溺れやすいはずがない。けれど脳内の闇の中で像が蠢くのを止められず、今夜も俺は入谷の手を思いながら自らを慰める。 「は、あ……」  自室のベッドの上。右手は股間に伸ばされ、左手には入谷から贈られたネクタイを握っている。入谷の部屋の匂いと香水の香りがほのかに残るそれを顔に押しつけ、深く残り香を吸い込みながら、何回めか知れない絶頂に至る。  興奮が醒めてしまえば、胸に去来するのはどこまでも深い罪悪感でしかない。  自分からもう触らないでほしいと頼んでおきながら、人知れず醜態を演じている。俺のさもしい姿を見たら入谷はどう思うだろう。きっといつもの穏やかな表情も、一瞬で軽蔑の色に染まるに違いない。  こんなの、もうやめなければ。分かっているのに、入谷の匂いを思い出しただけで腹の奥がずくずくと疼いて熱を持つ。  入谷に会いたい。会って、もう一度きちんと話がしたい。  身を焼き焦がし内部から総身を突き動かすような衝動は、果たして恋というものだろうか。  この(はげ)しい気持ちが恋なのだとしたら、俺は本当の意味で、誰かに恋したことなどなかったのかもしれない。  10月に入ると、しつこく肌に絡む夏の残滓も遠ざかり、ワイシャツの隙間から入ってくる秋風が心地好い涼しさになってきた。  夏休みを利用して営業一課へインターンシップに来ていた学生も去り、上半期も終わったこともあって、社内には少しばかり弛緩した雰囲気が漂っている。  (くだん)の学生はインターン修了時、俺に「お世話になりました! いつかまたお会いできたら嬉しいです」と熱気のこもった挨拶とともに握手を求めてきたが、特にお世話をした覚えがないため顔がひきつってしまった。暑苦しい学生の肩越しに、同期の望月(もちづき)は「なんで橘? 俺だろ?」と言わんばかりの渋面をつくっていた。  今日は10月最初の金曜日で、俺は上半期の納会に参加するため会場へ向かっている。多人数の飲み会は何ヵ月ぶりだろう。仕事が若干長引いてしまい、既に開始の時刻を20分ほど回っていた。繁華街の駅で電車を降り地上に出ると、紺に染まりゆく空を厚い雲が覆いつつある。じきに雨になるかもしれない。  店はバルと言えばいいのか、イタリアンを中心に出すらしいこじゃれた雰囲気の場所だった。うちの会社の飲み会はフロア毎に行われるが、その中の若い誰かが幹事となって選んだのだろう。  テーブルを埋める団体客の中からひとりが振り返り、こちらに向かって手を掲げる。 「おーい橘センセー、こっちだこっち。重役出勤だなあ」  もうアルコールが回っているらしい望月が大仰にひらひらと掌を振る。  そちらへ近づいていくと、テーブルには既に大皿の料理が何種類か――小海老のサラダやカプレーゼやアヒージョなど――が並び、ビールやサワーによって場も温まりつつあるようだった。  空いていた席の椅子を引くときに、斜め前に座っていた常葉と目が合う。軽く会釈しながら「お疲れ様です」と言ってくる青年は、確かフロア単位での飲みに参加するのは新入社員の歓迎会以来だったはずだ。久々の彼の参加を全力で喜ぶように、若手の女子社員が常葉を包囲する形で集まっている。なんというか、露骨な光景だ。 「橘くん、お疲れ様」 「遅くまでお疲れ様でーす」  彼女らからの労いの言葉に遅れてすみません、と返しながら望月の隣に座る。何が悲しくてこいつの隣席に陣取らなくてはいけないのか、と内心毒づくが他に空席がないので仕方ない。  追加で注文したビールが来たところで、近くに座る面々で改めて乾杯する。半期が終わったからといって何かあるわけでもないが、皆余計な力の抜けた開放的な表情を浮かべていて、リラックスした雰囲気だ。  味がほどよく染みたアヒージョの食材をいくつかぱくつきながら、何の話をしてたんですか、と問うてみると、愛犬や愛猫など飼っている動物が話題にのぼっていたらしい。うちの子自慢でなかなか盛り上がっていたようだ。 「橘さんは……さすがにペットはいないですよね? 一人暮らしですもんね」 「あー、ペットというか……クラゲを飼育してる水槽はありますよ」 「クラゲ?」「へえ~」「珍しいですね!」と多分に驚きを含んだ声が上がる。「ああ、だから会社のパソコンの壁紙がクラゲなんですね」とは常葉の反応だ。相変わらず無駄によく見ている。 「クラゲ見たーい。写真ないんですか?」 「生憎(あいにく)、あまり写真自体撮らないので……」 「じゃあ今度撮ってきて下さいよー」 「そんな大したものじゃないですよ」  などと会話していると、隣にいる望月が不満そうに唇を突き出してこちらを横目で見やった。 「お前クラゲなんて飼ってたの? いつから?」 「そうだなあ、彼女が置いてったやつだから……まあ、6年くらい前からかな?」  そう言った途端に周囲の空気がざわりと動いた気がして不安になる。彼女、という言葉にわずかに反応した女性社員が数人いたように見えたが、おそらく目の錯覚だろう。でなかったら少し怖い。 「元カノねえ。未練がましいなあ、6年も」 「別に、そういうのじゃないから」 「ていうか俺同期なのにクラゲ飼ってるのとか教わってなくてけっこうショックなんですけどー。プライベートのこと話したくない理由でもあるわけ? 皆さんもそう思いますよねえ?」  え、と思わず望月の横顔を見てしまう。彼の口からショックという単語が出てくるのは意外だった。同僚の家にクラゲがいると知って何かが変わるわけでもないだろうに。  俺とは正反対にプライベートを訊いてもいないうちから明け透けに語りがちな同期は、数秒だけ実に不機嫌そうな表情を浮かべていたが、それはただのファッションだったようで、「まあそれよりもさあ」と急に相好(そうごう)を崩してポケットからスマートフォンを取り出した。 「わんにゃんも良いけど俺の娘ちゃんもみんなに見てほしいのよ、めちゃくちゃ可愛いからさー」  自分から話題が逸れて胸を撫で下ろす。ビールをぐびりとやってから、運ばれてきていたマルゲリータに手をつける。生地はさすがにパリパリとはいかないが、新鮮なバジルの風味が鼻を抜けていき、なかなかに美味い。  周りでは望月の子供の写真を回し見た女子社員らが「えーほんとだ可愛い~」「望月くんにはあんまり似てないね」「似なくて良かったですねー!」ときゃいきゃいしている。もしかしなくても普通に(けな)されている気がするが、当の望月は「でしょう?」とずっと上機嫌に相槌を打っている。娘が可愛いと言われれば何でもいいらしい。  その後も望月や女性主導で、話題が続々と移り変わっていく。アルコールと噂話とカルパッチョと愚痴と種々のチーズが混ざり合う。誰かが席を立ったり戻ってきたり、会話に加わる面子(めんつ)は流動的なのに、雰囲気の質は意外に代わり映えがしない。  俺や常葉は隙間を縫って適当な相槌を打つだけだ。ただ時間を流すための、ほとんど意味を持たない言葉。

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