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7話-2 コーリング・ユー

 その間、すっかりできあがった望月が「おい常葉! お前俺のこと邪険にしてるだろ。全部分かってんだぞ」と難癖をつける一幕もあったが、当の常葉は「してませんけど」と平然としていた。 「嘘だねー! 今だってそうだろ。あのなあ、お前が新入りの頃にお前の同期たちと一緒に何回も奢ってやっただろうが。恩を忘れたのか、恩を」 「別に俺はご馳走してくれなんて頼んでないし、毎回割り勘でいいって言ってたじゃないスか。望月さんは押しつけがましいんですよ。いつも」 「あーもう可愛くない後輩だな! そんなんじゃこれからお偉いさんと関わる時に苦労するぞお~」 「可愛くなくて結構。俺は望月さんとは違う方向性でやっていきますから。ご忠告どうもありがとうございます」  双方譲らないやり取りを間近に聞いているのは正直はらはらするものだ。常葉が慇懃(いんぎん)に目礼したあたりで、望月が爆発するんじゃないかとひやひやしながら隣を(うかが)ってみた、のだが。 「ああ、俺とは違う路線でね。先輩を立てるってことは最低限分かってるみたいだな。結構、結構」  と急に仙人みたいな顔になって何度も頷いていた。それでいいのか、お前は。  同期がすまん、の意味で常葉に向けて軽く手を合わせると、後輩はやれやれといった様子で肩を竦めてみせる。表情にはどこか(きょう)がるような色もあり、本気で憤慨したり気分を害したりはしていないようだ。まったく、心が広いのはどちらなのか。  周囲の女性陣はというと、望月と常葉のそれを日常のじゃれあいとでも思っているらしく、声を上げて笑っている人もいた。二人の語気のキツさに胃痛を感じているのは俺ばかりか。  そうこうしているうちに時も過ぎ、コース終盤にボロネーゼのペンネが運ばれてきたところで、どこかからムー、ムーとバイブレーションの音がしてきた。反射的にポケットを押さえるが自分ではない。皆そわそわとポケットなり鞄なりを確認するが、スマートフォンを手に席を立ったのは常葉だった。 「客先からなんで、ちょっとすいません」 「おうおう、ご苦労さん」  望月が挙げた手が下がりきらないうちに、女子社員の一人が声をひそめてやや深刻そうに切り出す。何やらこの機を待っていたかのような様子だ。 「あの、皆さんに聞きたいことがあって。常葉くんの彼女について誰か何か知りませんか?」 「え、付き合ってる人いるんですか? 彼」  びっくりして発言者をまじまじと見てしまう。彼とはよく二人で食事に行っているが、交際している人がいるなんて話は一回も出たことがない。「会社に恋人を探しに来ているわけじゃない」との発言もあったし、てっきり独り身を謳歌しているのだと思っていたが。  常葉より年若いその社員はそうじゃなくて、と苦笑いする。 「いるかどうかが知りたいから訊いてるんですって」 「常葉さんて全然自分のこと喋らないもんね。橘さん以上に」 「橘くんは何か知らないの? よく一緒にご飯行ってるんだよね」 「いえ……あ、そういえば」  彼には生き甲斐になるほど推してる人がいるらしいですよ。と喉元まで出かけて慌てて飲み込む。駄目だろう、自分。これは後輩がいない場で気安く口に出していいことじゃない。 「いや、やっぱり何でもないです」と誤魔化し笑いを浮かべるも、彼女らの興味の網は逃げを許してはくれなかった。 「ええ、何ですか? 気になるんですけど」 「言いかけたなら教えて下さいよ~」 「お前何か知ってんのか? 吐いちまえ吐いちまえ」  望月も含めて皆、無責任なことを言うものだ。追及の手に(から)め取られる前に、すうっと息を吸って、言う。 「すみません。この場にいない人の噂をするの、気が引けるので」  途端、周囲が水を打ったように黙りこんだ。さんざん本人不在の噂を(さかな)にしていた女性陣の視線が、気まずそうに左右に振られる。沈黙の外の喧騒ががやがやと耳に流れこんできた。  テーブルの下で拳をぐっと握りこむ。何をしてるんだ、馬鹿か、俺は。こんなところで正論を吐いて何になる? いつもだったら適当にいなして無難に切り抜けるのに、要らないことを口にして空気を悪くさせるなんて、らしくないじゃないか。  居心地悪い沈黙が続いたのはたった数秒だった。場を取りなすような、不自然なほど明るい望月の声音が静寂を破る。 「それはそれとしてさあ、そう言う橘はどうなんだよ」 「……どう、って?」 「いま彼女はいないんだろ。結婚願望とかないのか?」 「そうだな……今のところない、かな」 「ま、独り身の方が気が楽なのは分かるけどな。どうせお前のことだからアレだろ、理想が高すぎるんだろ~」  望月が隣から肘で小突いてくる。さっきの失言で凍った空気がまた温まりつつあるのはいいのだが、これ以上俺自身について掘り下げられると困る。もう踏みこまないでくれ、という淡い願いはすぐに打ち砕かれた。女性陣の目に輝きが戻っている。 「橘くんて全然浮いた話聞かないもんね」「確かに~」「どういう人が好みなんですか?」  これまでそういう話題を意識的に遠ざけてきたからか、あからさまに興味を持たれ、俺は愛想笑いを保つので必死だ。 「うーん、タイプで考えたことがないので……ちょっと分かりません」 「それって好きになった人がタイプってやつか? 相手に困ってない男が大体それ言うんだよな。皆さん、こいつ絶対裏でモテてますよー!」  何人かが声を上げて笑う。そんなわけがないと否定する(いとま)もない。女性社員のひとり――以前常葉と俺の飲みについていきたいと言っていた――が興味津々を具現化したような視線をこちらに向けてくる。 「じゃあじゃあ、もしも社内で選ぶとしたら誰ですか?」 「え……」 「あ、それすごい聞いてみたーい」  急にぶわっと冷や汗が出てくる。男からそんな話題を出したら確実に問題になるだろうに、どうして誰も止めないんだ。  片手では足らないほどの目線が俺に注がれている。喉が急激な渇きを訴えてくる。なんと答えたらいいんだ? みんなのお姉さん的な立ち位置の既婚女性の名を挙げるのが無難だろうか。しかし、不意に眼前の光景に入谷の不敵な顔が重なり、胃のあたりがきゅっと痛む。  嘘をつきたくない。他ならぬ入谷を差し置いて。 「それは、ちょっと……回答は差し控えさせて頂こうかと」 「何じゃそりゃ! 政治家かよ」  絞り出した苦しい答えに望月が間髪入れず突っ込み、(つど)った面々がどっと笑う。  ひとまず空気を壊さず切り抜けられたらしいことに安堵する。既に話題を次へ移している望月をちらりと盗み見た。訊かなくていいことばかりを訊いてくる厄介な同期ではあるが、場を的確に盛り上げる才能だけは頼りになる男だ。  そこで通話を終えたらしい常葉が席に戻ってきて、橘さん、と名指しで声をかけられる。 「あっちで営業部長が呼んでましたよ」 「部長が?」  にわかに体がこわばる。自分の実質的な上司は営業一課の課長なので、営業部長とは普段個別に言葉を交わす場面はほとんどない。個人として認識されているのがまず驚きだ。  さっと脳裏を(よぎ)ったのは、何かやらかしてしまっただろうか、という不安だ。 「お、なんだなんだ? 昇進の話か?」 「そんなわけないだろ」  能天気に行ってらっしゃーいと手をひらひらさせる望月に、ため息ひとつついてから席を立つ。  それにしても、この面々の渦中に常葉を残して行くのはかなり気が引ける。申し訳ない気持ちで後輩に目配せすると、彼は口の端で苦笑しながら小さく頷いてみせた。心配するなということか。であれば、俺は自分自身の心配だけをしよう。  やや緊張しつつ部長の元へ馳せ参じる。恰幅(かっぷく)が良く、髪は半分以上が白いがエネルギッシュな印象を受けるその人は、俺を見るなり目尻に笑い皺を寄せて破顔した。 「おお、橘くんか。こっちに座りなさい」 「何か、私にお話があると伺いましたが」  誰かが移動して空席になった手近な椅子に、ビール瓶を掴みながら腰を下ろす。グラスに琥珀色の液体を()がれながら、部長はからからと快笑した。

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