31 / 42
7話-3 コーリング・ユー
「いやなに、そう畏 まった話じゃないから、リラックスして聞いてくれ。時に橘くん、君はまだ身を固める予定はないのかな?」
「身を固める……ですか?」
「橘くんはまだ独身だろう? E社の専務のお嬢さん、確か君と同じ年頃だったなと思ってね。もし決まった相手がいないならどうだろう、紹介してもらうってのは」
何かと思えばまたその手合いか。視界の端が暗くなっていく。足元の床ががらがらと音をたてて崩れていくような錯覚に陥る。
部長はまだ目の前で何かを喋り続けていた。知りたいなんて微塵も思っていない、他人の個人情報。俺はどこでも、そんなことを聞かされ訊かれなくてはならないのか。そもそも相手がパートナーを欲しているかも分からないのに。
黒々とした感情を部長の前でぶちまけるなんて愚は犯せない。辛 うじて喉の奥から声を押し出す。
「いえ……今のところ、そういうことは考えていませんので」
「そうかね? まあ、君と望月くんは将来の営業部を背負って立つ人材だと私は思っとるからね! そのためには守るべき家庭があった方が仕事に身が入るだろう?」
「それは」人によるのではないだろうか。
「まあまあ、もし気が向いたらいつでも声をかけてくれよ。下半期もよろしく頼むね。おおい、鈴木くん!」
口を差し挟む間もなく、どうやら俺への話はこれで終わったらしい。
失礼します、と誰にともなく頭を下げて席を立つ。先刻のテーブルに戻る気にもならず、ふらふらと足先が向かったのはトイレだった。
好意、ではあるのだろう。女性陣や望月、部長の言葉もすべて。彼らが差し出した好意の形を、その形のまま受けとめる体勢が俺にはないだけで。
彼らなりの好意を好意と受け取れない、それは欠陥だろうか。彼らが善人なら俺は悪人なのだろうか。
どうしてみんな、そんなに他人に興味があるのだろう。俺のことなど、同僚というラベルが貼られたロボット程度に捉えてくれたら楽なのに。
――そう思うのは、周囲に対する己の視線の裏返しだ、と不意に自覚してぞっとする。脇腹に音なく差し込まれたナイフのように、不完全さを如実 に突きつけられた気分だった。
胃の底がむかむかする。このままだと吐きそうだ。同じ会社の付き合いだというのに、常葉とのサシ飲みとは雲泥の差だ。
トイレのドアを開くと、そこにはちょうどハンカチで手を拭いている望月がいた。お、と同期の片眉が上がる。
「なんだお前、顔色悪いぞ。珍しく酔った? 大丈夫か?」
「平気。……たぶん」
「無理すんなよー。そういや営業部長の話って結局何だったん?」
望月はこのまま立ち話を続けるつもりらしい。水を向けられ、お見合いめいたことを勧められたと説明する。
相手は納得したように何度か頷いてみせた。
「へー、なるほどな。一回会ってみたら? 噂によるとご令嬢は美人らしいですよお。センセイのお眼鏡に敵うかは分からんけど」
「……なんでお前に指示されなきゃいけないんだ」
「いや指示じゃなくてアドバイスな? なんか機嫌悪いぞお前、何かあったのか? らしくないぜ」
「ちょっと、疲れてるだけだから」
自分らしくないのは自覚している。ほとんど無意識のうちに眉間を指で揉んだ。体を重たくさせるこの疲労感の中には、確実に望月が原因のものも何割かあるが、言ったところでこいつに伝わりはしないだろう。
「疲れてるならさあ、一発すっきりさせに行くか?」
「? すっきりって?」
「抜きだよ抜き、決まってんじゃん」
望月は爽やかな営業スマイルのままそんなことを言い放つ。台詞と表情とのどぎつい乖離 にくらくらしそうになる。店のトイレで一体何を言い出すのか。
「どうせお前のことだから店知らないだろ? 紹介するよ、俺もそろそろ行きたかったところだからさ」
「お前なあ……。子供の自慢した直後の口でよくそんなこと言えるな」
舌の根も乾かないうちからとはこのことだ。ストレートすぎる物言いにこちらは気持ちも血の気も引いているのだが、相手はまるっきりきょとんとしている。わざととぼけているわけでもないらしい。
「何怒ってんだよ。いいだろ、不倫してるわけでもあるまいし。嫁さんはいま子供優先だから相手してもらえないけどさー、溜まるもんは溜まるからな」
「……」
「そんな睨むなって。平日は確かにほとんど何もできてないけど、これでも土日は家族サービスしてるんだぜ? 時々お店行くくらいどうってことないだろ」
眩暈を起こしそうになり、床にぐっと足を押しつけ意識して立つ。土日に何かしたからといって風俗通いはチャラになるのか。それに家族相手にサービスという言葉を使うのもどうなんだ? ふつふつと疑問が沸き上がってくるが、家族どころか恋人もいない身では発言の根拠に欠ける気がして、何も言い返せない。
「それにな」望月はとっておきの秘密を開示するように声をひそめ、甘い印象を与える顔をこちらに寄せる。「女の子に口でしてもらってるときに左手で髪撫でるとほら、結婚指輪が目に入るだろ? そん時いけないことしてる気持ちになってめちゃめちゃイイんだよな。既婚者も悪くないぜ?」
「うえ……それ人生で聞きたくなかった情報ナンバーワンなんだけど」
吐き気が促進される話を聞かされて最悪な気分になる。この下衆 め、と声に出さずに罵った。
さっきある意味頼りになると一瞬でも思ったことを撤回したい。望月にも自分にも腹が立つ。
「え~? 親の夜の営みの話聞くより全然いいだろ」
「どっちも同じくらい嫌だよ!」
「そうかねえ。じゃあ誰に話せっていうのよ。こういう話を常葉にすると『それセクハラっスよ』って言われんだぜ。男同士なんだし別にいいだろって」
「そもそも誰かに言うな、そんな話。ここはお前ん家 じゃないんだから。それに俺相手だってそれはセクハラだからな」
「え? そうなん?」
望月はやや垂れ気味の目をぱちくりさせる。肉だと思って食べていたものが実は大豆ミートだったと聞かされたような、純粋な驚き顔だった。
「そりゃ初耳だわ、みんな潔癖なんですねえ。今度から気をつけるわー」
その調子のいい言葉もどれほど信頼できるか分からない。なにせ酔いが回った頭から出てきているのだから。これほど強く注意しても、個々人の性格が潔癖だから、という認識に落ち着く望月の思考回路に暗澹 とさせられる。それでも彼のような性格をしていた方が、結局世渡りには有利なのだ。
望月はようやく体をドアへ向けた。
「ま、お前だってたまには他人 にしてもらうのもいいだろ。そっちのが気持ちいいしな。その気になったらいつでも声かけろよ、紹介するから」
「だからそういうのをやめろって……」
困った同僚は俺の言葉尻を待たず出ていった。
あいつはもしかして、ところ構わずあんなことを言いふらしているのだろうか? だとしたらぞっとする。
俺はよろよろと個室に入り、服をそのままに便座に腰かけた。一人の空間はやはり落ち着くし、大人数はいつになっても苦手だ。賑やかな大きい空間には自分の座るべき席などないと思い知らされるから。マスの中では、俺の異端で異質な部分が炙り出されてしまう。
にしても、たまには他人にしてもらうのもいいだろ、か。望月だって、俺が得意先の責任者である男性に、手や口でしてもらっているなんて想像もしていないはずだ。
入谷紫音。無性に、彼に会いたい気持ちが胸を突く。
会えなくてもいい。彼の穏やかでなめらかな声が、俺の名を呼ぶのを聴きたい。いま入谷はどこにいるのだろう。まだヨーロッパか、もう帰ってきているのか。
俺は衝動的にスマートフォンを取り出し、トーク画面を呼び出して文字を打ち込んでいた。
ともだちにシェアしよう!