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7話-4 コーリング・ユー

 "いま何してますか"  指は迷いなく送信ボタンをタップする。彼がヨーロッパにいるなら向こうは何時だろう。そんなことをぼんやり考えていると、既読はすぐについた。1分と経っていない。  "どうかされました?"  早々と返ってきた文面に、心臓の周りがじわりと熱を持つ。ああ、これは――短い文章でも分かる、入谷の言葉だ。  "あなたに会いたい"  そう打ち込みかけてから、すんでのところで理性を取り戻し、入力した文字を消去する。少し冷静になれ、自分。いまなんと送ろうとした? 相手がどこにいるかも分からないのに、迷惑以外の何物でもないだろう。  突然、手の中の端末が震えだした。振動と共に着信画面が表れ、びっくりしすぎて取り落としそうになる。表示された名は、入谷紫音。 「も、もしもし」焦りながら通話状態にすると、スピーカーの向こうの声は硬く切迫していた。 「橘さん、いかがされました? 緊急事態かと思いまして電話を。通報が必要ですか? 救急、または警察」 「い、いや、違います」性急な声の調子に慌てる。勘違いさせてしまったようだ。「(まぎ)らわしくてすみません。ただ、その……急に入谷さんの声が聞きたくなって。それだけです」  スピーカー越しに息を飲む気配がする。それではっと正気に返った。俺は何をほざいているんだ。酔って声が聞きたくなるなんて、まるでカップルじゃないか。  (にわか)に羞恥が襲ってきて頬が熱を持つ。ひと月前、あんな別れ方をしたのにこの人は何を言っているんだ、と不審がられているに違いない。 「ええ、と。それだけです。突然失礼しました、それでは」 「お待ち下さい。橘さん、今からこちらにいらっしゃいませんか。……あなたさえ良ければ」  通話を切ろうとしたところを遮られ、さらに予想外なことを言われて目を瞬かせる。  ――来い、と。言わなかったか、今。 「え……入谷さん、いまどこにいらっしゃるんですか?」 「日本の自宅に戻ってきていますよ。どうなさいますか? こちらから迎えに行くのは難しいのですが、来て頂く分にはまったく問題ありません」 「日本に……」  スマートフォンを握る手に力が入る。今夜、入谷に会える。俺がすぐに向かえば、1時間もかからないうちに。  先刻はよろめいていた両脚にエネルギーが(みなぎ)ってくる。勢いよく立ち上がり、あれこれ考える前に「これから行きます」と強く宣言していた。 「ええ、お待ちしていますね」  軽やかな響きが胸に満ちる。顔は見えないが、入谷が柔らかくほほえんでいるだろうことが、俺には不思議と確信できた。  ドアを開けるのももどかしく、ホールとトイレを繋ぐ短い廊下へ身を躍らせたところで、前からやって来る人影とぶつかりそうになった。 「すみませ……」相手の顔を見れば、目を見開いた常葉がそこにいる。「ごめん、常葉くん」 「いえ……」と言いながら、勘の鋭い後輩は俺の()いた様子を見て、色々と察するところがあったようだ。 「橘さん、行くところができたんスね?」 「……うん」 「じゃあ、みんなには俺から伝えときますよ。店の会計のところに先に行ってて下さい、俺が橘さんの鞄取ってきますんで」  常葉はきりりと引き締まった表情で簡潔に伝えてくる。どうしてそこまでしてくれるのか、と尋ねる暇はなさそうだ。後輩に甘えるのも情けないが、会を抜け出すことを自分の口からあの面々に説明せずに済むと思うとほっとする。会費は事前に会社内で集めていたからその点は安心だ。  店の出口付近で鞄を受け取り、相手の目をしっかり見て言う。 「常葉くん、ありがとうね」 「別にいいっスよ。今度コーヒーでも奢ってくれれば」 「そのくらいならいくらでも」  いたずらっぽく口元を緩める常葉に微笑を返す。じゃ、お疲れ様でした、とあっさり背中を向けて去っていく後輩の、行き先すら訊いてこないさっぱりしたスタンスがとてもありがたかった。  一歩ビルの外に出ると、さああと音をたてて細かい雨が降りしきっていた。曇天はついに腹に抱えた水蒸気を支えきれなくなったらしい。鞄に折り畳み傘が入ってはいるが、この程度の小雨なら、傘を差す(わずら)わしさよりも先を急ぎたい気持ちが勝つ。  最寄り駅へと駆け出しながら、俺らしくないことをしているな、とどこか俯瞰するように思う。今日だけじゃない。入谷に出合ってから、昨日と同じ日常を愛していた俺の思考は、矛盾だらけになってしまったとも言える。  以前と違う自分自身に戸惑いながらも、どこかうきうきしている自分も確かにいて。  居心地の悪い飲み会から抜け出て、自分の心が休まる人の元へ走る。一般的に見ればこの選択は逃げなのかもしれない。多くの人の好意をそのまま受け取れず、マイナスに捉えてしまうこの性質も、欠陥なのかもしれない。  入谷だったら「逃げでも欠陥でもないと思いますよ。それはただ、感性に個人差があるというだけで」とでも言ってくれるのだろう。彼の海のような優しさと理性的な洞察力は俺には得がたい美点だ。  でも。これが逃げでも、自分の中に欠陥があるとしても、構うものかといま俺は思っている。周囲の期待に感性を合わせるつもりのない悪人として、これまでもこれからも生きていく。意固地になっていると後ろ指を指されたっていい。自分以外の全員が俺を否定しても、俺自身は自らを至らないままに肯定してやりたい。  ずっとなんとなく流れに任せて生きてきた。けれど、入谷の家へと続くこの道は、流されて受動的に選んだのではなく、自分が己の意思で選択した道だから。  不可思議な高揚感を内に()いたまま、ちょうど滑りこんできた電車に飛び乗る。まだ終電には早く、ホームにも車内にもそれほど人は多くない。いつもはなんとなく過ぎる乗車時間も、一駅一駅の区間が長く感じられた。  目的の駅で電車を降り、速歩きで構内を移動してからは自然と駆け足になり、ついには全力の疾走になる。駅へ向かうまばらな人の流れに逆らい、俺は入谷がいる場所へと一歩一歩確実に近づいていく。住宅街は霧雨(きりさめ)の向こうでうっすらとけぶって見えた。雨の匂いに包まれ、水の中を走っている錯覚に陥る。全速力を出すなんていつぶりだろう。もしかすると高校生以来――10年以上ぶりかもしれない。  足元が悪く、その上革靴だからという事実を抜きにしても、時を経て俺の足は確実に遅くなっていた。気持ちはもうずっと先へ行っているのに、体が置いていかれているようで無性にもどかしい。  息が上がり、苦しくなってきた呼吸のまま、入谷と顔を合わせたらまず何を言うべきだろう、と考える。彼に謝らなくてはならないことがたくさんある。遅い時間に連絡したこと。いきなり脈絡のないメッセージを送ったこと。突然夜分に押しかける展開になったこと。  総じて、1ヶ月前に入谷を拒絶しながら、図々しい行動をしていること、だ。  電話口では穏やかな様子だったが、面と向かったら怒られるかもしれない。俺が悪いのだから、そうなったとしてももちろん受け入れよう。  白い外観の入谷のオフィスが見えてくる。住居部分にだけ家主の在宅を示す明かりが灯っていた。道端で膝に手をつき呼吸を整えようとするものの、上がった息はすぐには治まらず、時間惜しさにそのまま門戸を叩く。  階段を上がってインターホンを鳴らすと、ややあってドアががちゃりと開いた。柔らかい光を後ろに背負った入谷は、既に深緑色の寝間着に着替えている。 「お久しぶりです。お元気でしたか?」  青年写真家はほんのりと優しく笑む。つややかな長めの黒髪、切れ長で一重の両目、右目の泣きぼくろ、なめらかな白い頬、細く尖った鼻梁、薄い唇。記憶の中と同じ入谷がそこにいる。会わなかった期間がたった1ヶ月とは思えないほど、深く強い感慨が体中を駆け巡った。  再会したら真っ先に言う内容を思案していたのに、それらはすべて毒気を抜かれたようにどこかへ霧散してしまって、無駄に口をぱくぱくさせてしまう。言いたいことはたくさんあるはずなのに、感情と言葉とがうまく結びついてくれない。 「……すみません、こんな時間に押しかけて。……ご迷惑でしたよね」  結局、肩で息をしながら言えたのは、そんな当たり障りのない台詞だけだった。

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