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7話-5 コーリング・ユー

 入谷は優雅な仕草で俺を室内に招き入れる。怒るどころか、柔和なほほえみを崩さないまま。 「ご迷惑だなんて。あなたが来てくれるのなら、僕はいつでも歓迎ですから」 「入谷さん……」 「飲み会だったのですね? お酒の匂いがします。そんなに急がずとも僕は逃げませんのに。……おや、髪が濡れているじゃありませんか」  少々お待ち下さい、とリビングで棒立ちになったままの俺を残し、入谷は奥からタオルを取って戻ってくる。そのままいとけない子供にするように、正面に立って俺の頭をわしゃわしゃと拭くものだから、面映(おもは)ゆくて苦笑いが湧いてきてしまう。 「自分で、できますから」 「そうですか? でもそのままでは体が冷えてしまうでしょう。ひとまずシャワーを浴びてはいかがですか? 積もる話は、その後ということで」 「……そうします」 「着替えも僕ので良ければ用意しますので。下着も橘さんが置いていったものをお出ししますね」  時間も距離も(へだ)たっていたのが幻であったみたいに、入谷はすらすらと淀みなく言葉を紡ぐ。そこまでしてもらっていい立場ではない俺は恐縮するばかりだ。 「すみません、急に来たのに何から何まで」 「気にしないで下さい。僕はあれこれと他人の世話を焼くのが好きな性分なんです」  慈愛めいた視線で見られ、自分の方が年上なのに幼くなった気分になる。彼には格好のつかない姿ばかり見せてしまっている。  スーツをかけるハンガーを借りてから、脱衣場で湿ったシャツやスラックスを脱いで風呂場に入った。自覚しないうちに全身が冷えていたようで、熱い湯が体にも心にも沁みる。こそこそと背後のガラス戸、の向こうにある脱衣場を窺うが、今夜は入谷がやってくる気配はない――当然といえば当然だが。  ランドリーラックに着替えとして用意されていたのは、入谷と色違いの紺色のパジャマだった。うっすら光沢のある柔らかな生地、これはシルクではなかろうか。普段適当なスウェットやTシャツで寝ている自分が袖を通すのも(はばか)られるが、これ以外に乾いた服がないのだから仕方ない。  そろりとリビングに戻ると、カーディガンを羽織った入谷が急須と茶碗でお茶の用意をしていた。香ばしい匂い。ほうじ茶だ。  青年はちらりと俺を見たあと、ぷいと顔を背けて二、三秒ぷるぷると背中を震わせた。もしかして笑われている? 確かに俺にはシルクの服など不相応だろうから、ちぐはぐで似合ってはいないだろう。  お茶を受け取ってソファに座らせてもらう。入谷はいつもの冷静な調子を取り戻して、「あなたから連絡を頂くとは思いませんでした」となめらかな声で切り出す。 「いや……本当にすみません。アルコールが入っててどうかしてました」 「いえ、驚きはしましたけど嬉しかったですよ。まさかあんなに熱烈な台詞を聞くことになるとは思いませんでしたが。声を聞きたかった、だなんて」 「あれは、その……」  相手の声にはからかうような響きが混じっていて、自分の大胆さに時間差で居たたまれなくなり、気まずさで顔がじわりと熱を持つ。だが、本心から出た発言なので否定もできない。  対する入谷は、話題を振っておきながらほのかに頬を朱に染めていた。 「あなたにそんなに赤くなられると、僕まで照れてしまいます……」 「……申し訳ない」 「いえ……」  互いに続ける言葉を失ってしまい、茶を啜る音だけが部屋に響く。その沈黙もどこか心地好く感じているのは、俺だけなんだろうか。 「……そういえば、入谷さんはいつ帰国されたんですか」 「ああ、それが」入谷はやや面白がるように口元を弓形(ゆみなり)にした。「ちょうど昨日帰ってきたところなんですよ。まだ荷物の整理なりでばたばたしていましたので、ご連絡するのを延ばしていました。思えばすごいタイミングでしたね」 「そんな時にすみません、時差ボケとかもまだ残ってますよね」  そんなことは、と否定しかけた入谷が折しも、くぁ、と小さくあくびをこぼした。浮き上がってきたそれをこらえる暇もなかったらしい、無防備な姿が可愛らしく映り、心臓がどくりと強く脈打つ。  壁にかかっているアナログ時計を見れば、もうすぐ日付が変わるところだ。酒の影響か、俺もだんだん眠たくなってきている。 「……すみません、お見苦しいところを。やはりまだ体内時計が治りきっていないようです。橘さん、今夜は泊まっていかれるのでしょう?」  それは問いかけではなく、意思の確認だった。  この家へ走りながら、顔を見たらすぐ帰ろうと考えていた。しかしシャワーを借りパジャマに着替え腰を落ち着けたいま、いやこれから帰ります、とは言えそうもない。  ――それは理屈っぽい言い訳で、玄関に現れた入谷の寝間着姿を見た瞬間から、俺はこの夜を彼と一緒に過ごすつもりになっていたのだと思う。  勢いだけで突っ走り、後先を考慮していなかったのは事実だ。茶碗を置いて(こうべ)を垂れる。 「すみません、一晩だけお世話になります。寝るのはソファでも床でもどこでもいいので」 「ソファでも床でも? 一緒にベッドで寝ればいいでしょう」 「えっ」  相手はきょとんとして小首を(かし)げている。  それは……まずくないだろうか。何度もそういうことをした相手と一緒の寝床なんて――想像しただけで脈拍が忙しなくテンポを上げる。 「い、いや……でも、それは」 「どこでもいいならベッドでもいいでしょう? セミダブルですから狭くはないかと」 「広さは特に、心配していないのですが」  しどろもどろに答えていると、入谷はああ、と得心したように微笑した。 「大丈夫、何もしませんから」  どこか距離を感じる笑みを向けられ、ちくりと刺されたような痛みが走る。  どちらかというとその台詞は俺が言うものではないだろうか。とはいえ、そこまで言われては寝所を共にするほかない。俺はぐっと覚悟を固めた。  ちなみに寝る前に新品の歯ブラシも貰ってしまった。まさに至れり尽くせりだ。  今夜は入谷のベッドで共寝をする。現実感がなくて足元がふわふわした。明かりを落とした寝室に招かれ、とうとうベッドに入る段階に至ると、独特の緊張感が総身を覆っていく。 「……お邪魔します」 「ふふ、どうぞ」  先にベッドの片側に寝そべっている入谷の傍らにおずおずと潜りこむ。  寝台は同じくらいの体格の男二人が悠々と横並びになれるだけのスペースがあった。身を横たえると、寝具にもほのかにお香の匂いが移っているのが分かる。こんな状況で眠れるのかと数分前は胸が騒いでいたが、隣に入谷がいることに妙な安心感を抱き始めていた。  入谷は既に瞳を閉じている。俺も重くなった瞼を下ろして入眠を待っていると、もぞもぞと毛布がの衣擦(きぬず)れがして、入谷の手がそうっと指に絡んできた。  目を開けて首をひねる。そこには遠いものを見つめるような入谷の濡れた双眸があった。 「何もしないって、言ったじゃないですか……」 「これくらいは許して下さい。せっかく初めて一緒に眠るんですから」  俺たちはベッドに寝転んだまま掌を重ねて見つめ合う。  初めて。確かにそうだ。それがこんなに穏やかな形で我々に訪れるなんて、想像もしていなかった――表面上の平穏、という(ただ)し書きつきではあるものの。  触れられた肌のどこかから、とく、とく、とやや速い拍動が伝わる。そのリズムの持ち主は果たしてどちらだったのか。 「おやすみなさい、柾之(まさゆき)さん」 「……おやすみ、紫音くん」  俺たちはとうとう完全に両目を閉じた。  朝になったら入谷と話をしなければいけない。自分の中の思いを、きちんと形ある言葉にするのだ。  隣に体温があることで、染み入るほど安心する夜もあるのだと、俺はその日に初めて知った。

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