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7話-6 コーリング・ユー
瞼の向こうに光を感じる。かと思うと、いつもと異なる肌触りや匂いが、知覚に飛び込んでくる。ここは――そうだ、昨夜は入谷の家に泊まらせてもらったのだっけ。
意識が徐々に輪郭を明瞭にしていく。ややあって目を開くと、横たわったまま深い色の瞳でこちらを凝視する家主と目がばっちり合った。
ひ、とかすれ気味の自分の喉から言葉にならない悲鳴が漏れる。
「な、何してるんですか」
「あなたの寝顔を視姦していただけですよ」
「なんですかそれ……」
視姦て。昨晩からのしっとりした雰囲気の中でも、やはり入谷は入谷だ。
目の前の青年は寝乱れた髪が額 や頬にかかっていて、かつその顔がカーテン越しのまろやかな朝日に照らされているのがやけに色っぽい。雨雲は夜のうちに去ったようだ。
出し抜けに彼の手が伸びてきて、俺の顎をさわさわと触る。
「わ、じょりじょりですね」という声はなぜか嬉しげだった。
毎朝剃っているのだから己にとっては当然の現象なのだが、そういえば入谷の顎や口回りはつるりとしている。
「そりゃ、勝手に伸びますから。……入谷さんはつるつるなんですね」
「そうですね、髭は三日に一度程度剃れば充分です」
「へええ、羨ましいなあ……」
心の底から感嘆を漏らしてしまう。同じ男なのにこれほど違うのか。
入谷はさて、といった風にむくりと身を起こす。その拍子にパジャマの深い襟ぐりから胸元が覗き、見てはいけないものを見てしまったかのような罪悪感に襲われる。
「僕は朝食の用意をしますね。橘さん、お嫌いなものやアレルギーはありますか?」
「いえ、特には」
「そうですか、分かりました。もうしばらく寝ていても大丈夫ですし、洗面所やタオルも自由に使って下さって構いませんので」
「……ありがとうございます」
家主が寝室を出ていく後ろ姿を何とはなしに見つめた後、上半身を起こして部屋を見回してみる。朝の陽射しに照らされた部屋はどこまでも健康的で、かつてここでいかがわしい行為をしたことが今は信じがたい。
リビングへ出て時計を見ると9時を回っている。寝たのは0時過ぎだからずいぶんたっぷり寝てしまった。そのおかげで脳は台風一過の空ほどにすっきりしている。
キッチンで作業している入谷に「何か手伝いましょうか」と声をかけるもやんわりと断られた。顔を洗って歯を磨き、またリビングに舞い戻って仕事用の携帯をチェックするが急用の連絡はない。私用のスマートフォンでニュースサイトをざっとチェックしているうち、じゅうじゅうという音とともに、甘さと香ばしさが混じった美味しそうな薫りが漂ってきた。ぐう、と意図せず腹が鳴る。
「お待たせしました」
入谷が運んできたトレイには皿とマグカップがふたつずつ。皿にはトーストよりずっと黄味が強い食パンが二等分されて乗っている。
フレンチトーストだ。
卵の優しい甘い香りと、こんがりとした焦げ目。表面には粉砂糖さえ振ってある。目にも鼻にも美味しそうだ。思わずごくりと唾を飲みこんでしまう。
「お口に合えばいいのですが。フレンチトースト、お嫌いじゃないですか?」
「ええまあ……多分。すみません、あまりちゃんと食べた記憶がないもので」
「では、これが橘さんの初めてのフレンチトーストの記憶になるんですね。光栄です」
冗談めかして入谷が言う。
家主が一人がけのソファに座り、やや距離がある状態でいただきます、と揃って軽く手を合わせる。どうやって食べるのか、とちらと入谷を窺うと、躊躇なくフォークを刺してそのまま齧っていた。それでいいのか、とほっとして自分も湯気の立つそれを頬張ってみる。
外側はかりっとしていて、中はふわふわかつしっとりしている。卵の旨味、牛乳の風味、バターの香りが順に鼻を抜けていく。思わず笑いが口元に浮いてくるほどに美味しかった。
「美味いですね、これ」
「それは良かった。飲み物も冷めないうちにどうぞ」
にこやかに促され、ドット柄のマグカップを手に取る。
カップの中身はホットミルクだった。表面に粉っぽいものが浮いているのできな粉かなと思ったらシナモンだそうだ。独特の甘い芳香があるシナモンミルクと、甘さ控えめのフレンチトーストの相性は抜群に良かった。
「入谷さん、いつも朝からこんなにお洒落なものを食べてるんですか?」
「いえ、今日はたまたまです。お洒落と言ってもこれは、パンを夜のうちに卵液に放り込んでおけば朝は焼くだけなので。簡単ですよ」
「へえ~、そうなんですか……」
「いつもはもっと簡単にトーストとバナナとかです」
「あ、バナナは俺も毎朝食いますよ」
「ふふ。似た者同士ですね」
朗らかな微笑を交わしながら朝食を食べ進める。
どこまでも和やかな空気感に包まれてはいるが、俺には――俺たちには、遠巻きにして触れずにいる話題がある。
言及しないで自然と避けていた中心に、俺は今から、正面切って踏み込もうとしているのだ。
食後すぐに食器を片付け終えた入谷に、「今日は休日ですか?」と訊くと、相手は俺の顔色から何か察したようだった。
「午後から取材が入っていますが、まだ時間はありますよ」
「そうですか……入谷さん。折り入ってお話ししたいことがあるので、少しお時間を頂けないでしょうか」
居ずまいを正して申し入れると、ただでさえ姿勢のいい入谷の背がぴしりと伸びた。
入谷は一人掛けのソファ、俺は二人掛けのソファに再び腰を下ろす。90度角度のついた距離感で、笑みの失せた入谷の顔を見つめる。腿の上で握りこんだ掌がじっとり湿ってきて、自分が思ったより緊張していることに気づく。位置が隣だったり、正面だったりしたらもっと気後 れしていただろう。
怖 じ気づく前に、踏み込んだ。
「お話というのは、俺たちの関係性についてです。俺は……入谷さんとの名前のつかない関係をやめたいと思っています。曖昧なのは、嫌なんです」
語尾まで強く言い切る。言葉に、形にしてしまった。緊張が続き指先が小刻みに震えているが、これが偽らざる本心だ。入谷との爛 れた関係を終わらせる。昨日、疾走しながら出した結論だった。
対する入谷は、ふ、と淡く笑んだ。結末を知っている映画を観る時のような、寂しい笑みだった。
「そうですよね。最初から分かってはいたのです。こんな胡乱 な関係、長続きしないと」
「ええ、だから」勢いこんで言葉を重ねる。「俺たち、ちゃんと――付き合えませんか」
その時の入谷の表情は初めて見るものだった。目を見開き、時間が止まったかのように全身を硬直させている。動揺、困惑、驚き。見たことはないが、鳩が豆鉄砲を食らった顔という表現が脳裏を過った。
そのままたっぷり十秒は経っただろうか。入谷は長い睫毛をぱちぱちさせ、ええと……、と言葉を探す。
「……橘さん」
「はい」
「齟齬 があるかもしれないので確認したいのですが、それは……僕と恋人になりたい、という意味で受け取ってよろしいんですか?」
「そうです」
大きく頷き返すと、またもや入谷は絶句してしまった。いつも余裕のある態度は鳴りを潜め、視線もうろうろと左右に泳ぎ、頬は紅潮して目に見えて焦っている。彼にそんな顔をさせることに罪悪感があったが、俺も引くわけにいかなかった。
「その……僕は」
「返事は少し、待って頂けませんか」申し訳なさを覚えながら相手を遮る。「その前に聞いてほしい話がありまして」
「話……ですか?」相手が目を瞬かせる。
「すみません、これは俺のわがままでしかないんですが。返事を貰う前に、俺自身について話したいんです。それを聞いてから可否を判断してもらえないかと……お許し頂ける、でしょうか」
まだ混乱しているだろう入谷はそれでも、こくりと深く首肯してくれた。
彼の忍耐強さに感謝しながら、俺は口を開く。
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