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8話-1 スタート・ポイント
こんなにも真摯に、誰かと向き合ったのはいつぶりだろう。
間近にいる入谷の真剣な顔は、俺が浮かべているであろう表情の、きっと鏡写しだ。
言いたいこと、言わなくてはいけないこと。それらを頭の中で整理しつつ、相手の喉元あたりを見ながら言葉を継いでいく。
自分自身の話。これまで誰にも言ってこなかった事実。俺が本当は心底冷たい人間なのだと知ったら、入谷は自分と関わりを持ちたくなくなるかもしれない。それでも、伝えるべきだ。
「付き合ってほしいと言った手前、矛盾していると思われるかもしれませんが……俺は誰かを大切にできない人間なんです。――少なくとも、最近まで自分のことをそう思っていました」
冷ややかな視線を残して去っていった女性たち。未だ胸の底に沈殿している彼女らの言葉。
この歳になって自分語りとは気恥ずかしいが、入谷は黙したまま、続きを促すように適度に小さく頷く。静かに耳を傾けていてくれるのが、何よりありがたかった。
「過去に女性と付き合っていたこともあったんですが、結局よく分からなかったんですよね。好きとか、相手を特別大切にするとか。例えばコンビニの店員さん相手にだって、ある程度は愛想よくするじゃないですか。俺は一事が万事、そんな感じでした。一人だけを特別扱いするのがどうしてもできなくて、それで相手とすれ違って、酷い別れ方になって……」
腿の上の拳に我知らず力がこもる。欠落だと思っている自身の性質を口にするのは、決意しても苦いものだった。
水を向けるように入谷が口を開く。
「でも、最近までということは……僕には特別な感情がある、ということですか?」
彼の切れ長の目を見る。目線をしっかり合わせながら、深く首肯した。
「きっと、そういうことなんだと思います。俺はあなたに好意を持っています」
断言すると、いつも余裕のある目が不規則に揺れる。
「それは――かなり、熱烈な台詞を仰っていると感じるのですが」
「熱烈……いやでも、事実ですから」
入谷に触れられるたびに体が熱くなる。それを抜きにしても、孤独を感じたときに声を聞きたくなったり、隣で眠ることに落ち着きを感じたりする。相手を好ましいと感じていなければあり得ない距離感。何とも思っていない相手と距離を詰めたいなんて思わない、そういう人間だと自分が何より理解している。
好意は確かだが、それでも懸念は残っている。
ただ、と顎を引いて続けた。
「また発言が矛盾するようですが、この気持ちが恋愛感情なのかどうか判断がつかなくて。自分で付き合ってほしいと言い出しておきながら曖昧ですみません。こういう気持ちになるのは初めてでして。自分でも名前を付けられない感情が、あなたに対して生まれているんです」
「橘さん、それはちょっと……あまりにも……」
無意識のうちに勢いこんで口調も熱っぽく早口になっていた。相手は俺からふいと顔を逸らす。あまりの勢いに呆れさせてしまっただろうか。黒髪のあわいから覗く耳はうっすら赤く染まっている。
「すみません。話を聞いてとお願いしておいて、自分でも気持ちが分からないなんて。でも返事をしてもらう前に、正直に話しておきたかったんです。あなたとの関係を大切にしたいから」
トランプで手の内のカードを全て明かすのに似た気分だった。入谷はいま、俺の本当に近い姿を知っただろう。後は彼の返事に委ねられている。
こちらに向き直った入谷はなおも目を伏せたままだ。何かを抑えようとするみたいに、両掌を俺の方に差し向けている。
「橘さんのお気持ちは分かりました。よく分かりました。それ以上続けられると心臓がどうにかなってしまいそうです」
「心臓が……? 大丈夫ですか」
「大丈夫ですかって、あなたの言葉が原因なんですけどね。まあ、それはいいです。――橘さん。今度は僕の話も聞いて頂けますか。話というか、告解を」
「入谷さんの?」
思わず目をぱちぱちと瞬かせてしまう。彼からの話とは何だろう。こちらに当然否やはないが、告解とはなんだか穏やかではない。
身をかなり乗り出してしまっていたのに思い至り、身を引いてソファにしっかり座ってから返事をする。
「それは、はい。もちろん」
首肯を受け、おほん、と仕切り直すように入谷が咳払いした。なんとなく、緊張感が漂ってくる。
青年は薄い唇を舌で湿らせてから、始めた。
「あなたが腹を割ってお話しして下さったので、僕も隠していたことをお伝えします。言ったところで、幻滅されるだけかもしれませんが」
幻滅?「……なんでしょう」
「橘さんもお気づきだったと思いますが、僕はあなたに『好きだ』と言っておきながら、それ以上のことは申しませんでした。あなたがストレート――異性愛者だと分かっていたから、恋人になりたいだなんて高望みだと思っていたんです。あなたの心を端 から諦めていた僕は、あなたをなんとか体で繋ぎ留められないか。そう考えました」
「……! それは」
告げられた心の内。少なからず衝撃もあったが、そう言われると腑に落ちる点も多い。事ある毎にセックスまで誘導しようとしていた入谷の、あの陶然とした表情。余裕ある態度の裏で、彼は本当は何を考えていたのか。
目が伏せられ、視線の先で長い指が組まれる。
「初めてあなたと出会った夜から、僕はあなたのことばかり考えるようになりました。心が手に入らないのなら、橘さんの体だけでもいい。それが本音でした」
「……」
「気持ちいいことをし続けていれば、少なくともその間は僕から離れないでいてくれるのではないか、と短絡的に思ったわけです。最後まで持ち込めば、僕から離れられないようになるのではないか、とも。そんな後ろ暗い気持ちを抱えて僕は、毎回あなたと会っていたんですよ」
入谷は顔を上げ、俺の目をまっすぐ見てくる。その瞳の奥にちらつくのは、罪悪感だろうか。自己嫌悪だろうか。
「思い返せばそれらはすべて、極めて不誠実な行動でした。あなたが離れていくのが怖くても、僕は気持ちを誠実に打ち明けるべきだった。あなたのように」
いつも纏 っている軽やかな風を自ら剥ぎ取った入谷の声は、どこまでも真剣でまっすぐで。矢のごとくこちらの心へ飛びこんでくる言葉に俺は気圧 された。彼が怖いと思っていたなんて分からなかった。全然、分からなかった。
俺に据えられた、見慣れた瞳の深い黒色。それは見慣れぬ濡れたような光を放っている。
「……僕と初めてお会いしたときの事、覚えておられますか?」
急に飛んだ話題にも、もちろんと返す。
偶然訪れたギャラリー。静謐な風景写真で熱くなる体。熱く濡れた舌の蠢き。忘れたくてもあんな強烈な体験、忘れられるものではない。忘れたいなんて考えてもいないけれど。
件 の青年写真家はふ、とひとつ息を吐く。
「以前僕は、生き物をうまく撮ってあげられないと言いましたね。写真――この場合はポートレートと言った方がいいですが、それは大抵の場合、被写体の良さを引き出すものです。けれど僕の写真は、完全に自己表現の手段となってしまう。風景写真を通して、僕という個人を表現しているんです。自分の分身と言い換えてもいい。だから、僕の写真を見て感じていたあなたの姿に、僕が心惹かれるのは必然でした。生身の僕よりも真に僕らしいものを見て興奮していたあなたは、胸を衝 くくらい可愛らしかった。だから手に入れたくなってしまったんです」
実に熱っぽく言う。あまりの温度にこちらの頬が熱くなるほどだ。彼の好意の源泉を聞いたのは初めてだった。何が琴線に触れたのか不明だったが、そういうわけがあったのか。
「そう、だったんですか。いや、俺は可愛くはないと思うけど」
やんわり否定すると、入谷は口元を緩ませた。そこに浮くのは、どこか空虚な笑み。
「お分かりになったでしょう? 僕は利己的で打算的で、そのうえ浅ましい人間です。恋人に、というお話はもちろん嬉しいです。でも、僕にはあなたの熱意を受け入れる資格がありません。前言を撤回なさりたくなったんじゃありませんか?」
こんなに近くにいるのに距離を感じ、寂しいな、と思う。積極的なようでいて、実際はずっと一歩引いて俺と接触していたわけだ。それは、この瞬間も変わらない。
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