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8話-2 スタート・ポイント

 だが相手は見誤っている。打算を打ち明けられたくらいで、今の自分は意を(ひるがえ)すような人間ではないのだ。  すぐそば、腿の上で握られていた入谷の拳を、手を伸ばして掌で包み込む。自分から彼の手を取ったのはこれが初めてかもしれない。はっと身を固くするのが伝わってくる。  いつもより努めてゆっくりと話す。 「そんなこと、しませんよ。資格がないとも思わない。だって、もう好きになってしまったから。俺の気持ちは変わりません」 「……」 「後は、入谷さん……紫音くんの返事次第です」  顔を覗きこむと、(つか)()瞳が戸惑うように揺れる。 「いいんでしょうか。こんな僕でも」 「もちろんです。そんな君を好きになったんだから。というか、紫音くん以外の他の誰でも駄目なので」  切れ長の瞳が見開かれる。いつもの余裕が失せたその表情が、俺の目には少し愛らしく映っていることを、彼には知らせない方がいいだろう。  そっと、入谷の手の上にある俺の指先に、もう片方の彼の掌が覆い被さってくる。さらりとした、少し冷ややかな温度が心地好い。 「ありがとうございます。とても、嬉しいです」 「じゃあ」 「はい。これからよろしくお願いします」 「こちらこそ、よろしく」  お互い顔を見合わせて、ふふっと微笑を交わした。これで俺たちはついに、晴れて恋人同士というわけだ。あまりにこそばゆく慣れない雰囲気に、もじもじとしそうになる。  俺の掌を、入谷が不意に持ち上げた。そのまま口元まで運んでいって、指先に唇を落とす。洋画でしか見ないような仕草も実に(さま)になっていて息を飲む。黒髪のあわいから垣間見える、伏せられた睫毛と引き結ばれた口元に、心臓のあたりがざわりと波打った。  騎士そのものの口づけを終えた入谷が、眉尻を下げてこちらを見つめる。 「柾之さん。改めて謝らせて下さい。あなたを体で繋ぎ止めようとしていたこと、それを黙っていたこと、申し訳ありませんでした」 「謝らなくていいですって。別に、気にしてませんから」  それは嘘偽らざる本音だったのだが、相手は少しだけ眉をひそめ、 「僕が気にします」 「まあその、なんだ」思わず苦笑しながら頬を掻く。「結果的に上手くいったんだし、結果オーライってことでいいんじゃないですか」 「……そう言って頂けると、少し心が軽くなりますが。本当にそれでよろしいんですか?」 「いいですよ。もう全部、水に流して下さい」 「……やっぱりあなたは、お人好しです。そういうところも好きですが」  入谷が自然な笑みを浮かべると、部屋にはしばし沈黙が満ちた。  触れ合ったままだった指がおもむろにほどかれる。彼は一旦立ちあがってテーブルを迂回し、俺の隣に腰を下ろした。近い。太腿が密着して、そこから相手の体温がじんわりと伝わってくる。  やおら周囲の空気が緊張感を孕む。張り詰めた空気に背を押されるように横を見れば、長い睫毛に縁取られた入谷の澄んだ瞳と目線がかち合った。  ばちり、と音が出なかったのが不思議なほどに熱い視線。その奥に宿る、炎に似た期待の気配。  俺でも分かる。これは、キスする流れだと。  どちらともなく腕が伸びて、互いの顎に添えられる。まさに今、気持ちが通じた相手のなめらかな肌に触れているのだ。気持ちの高まりに従い、唇を重ね合わせた。口づけははじめ表層をなぞるように、徐々に粘膜の境目をなくすように深まっていく。  互いの奥深くまで求め、与え合う。ややあって焦れったそうに入谷が膝に乗ってきた。脚に感じる重量感がそのまま想いの重さにも感じられる。  彼の腕は俺の頭の後ろに、俺の腕は入谷の腰に。腕も脚も絡んだ体勢でのキスは、これまでのどこか激しく急いたそれと違って、何かを与え合うような、二人で分かち合うような、緩やかでねちっこく息の長いキスになる。  まだまだ、足りない。入谷が足りない。  甘く感じる舌を味わいながら、跨がっている体の表面を腰から腿へと辿り、パジャマの裾から両手を差し入れる。体のぴくりとした震えが、触れ合った脚からダイレクトに伝わる。脇腹の凹凸をなぞり上げ、親指の腹で胸の頂点を刺激すると、至近にある肩が跳ねた。  相手の鼻から漏れ出る吐息は、もう甘く爛れてとろけきっている。俺の呼吸もきっと、同じ温度だ。 「んっ、ふ……。んぅ……」  熱に浮かされたあえかな声が鼓膜を震わせる。ぷっくりと形を主張した胸の尖りを指先で挟み、弾き、指の腹で撫で、()ねて、愛撫する。下半身には既に辛いくらいの熱が溜まっていた。相手もそうだといいなとぼんやり思う。  この先を予想して、無意識のうちに腰が揺れる。入谷の腰から下も誘うようにゆらゆら上下左右に揺らめいていて、布を隔ててセックスしているみたいだった。  ――そうだ、セックスはこれが初めてなのだから、ベッドへ移動してちゃんとしたい。  口を離してそう切り出すか切り出さないかのうちに。  突然、入谷の上体がぱっと離れた。  え、と間抜けな声が漏れそうになる。ジェットコースターの頂点で、いきなり虚空に放り出されたみたいに、没入感が一瞬で霧散した。 「ああ、いけない」彼の視線は壁掛け時計の方を向く。「そろそろ取材の準備をしなければなりません」 「あ、えっと」状況から置いてきぼりを食らって呆けてしまう。取材、準備。そういえば、午後からの予定がそうだと先刻聞いたような。じゃあまさか、ここでお預け? そんなことって。  眉を下とす目の前の表情はばつが悪そうでもあり、どこかいたずらっぽくもあり。つまり、目の前にいるのは完全にいつもの入谷であった。 「すみません、柾之さん。そういうことで、よろしいですか」 「それは、ええ……はい。もちろん」  よろしくない。などと俺に言う権利はない。膝から降りててきぱきと行動し始めた入谷は、もう本来の調子を取り戻していた。確かな実績に裏打ちされた自信や余裕に満ちた彼の立ち居振舞いは、美しく眩しい。唐突な中断で宙ぶらりんになった体の(ほとぼ)りは、阿呆みたいに彼の様子を眺めやる俺の中から、潮が引くのに似たスピードで遠退(とおの)いていった。  パジャマのボタンに手をかけた格好の入谷が、何かを思いついたように振り返って、内心少しぎくりとする。 「時に柾之さん、今夜は何かご予定はありますか」 「今夜? いえ、特にありませんが……」 「でしたら、そのまま空けておいて頂けますか。場所はまだ確約できませんが、夕食をご一緒できたらと思います。決まったら後ほどご連絡しますので」 「……分かりました。連絡、お待ちしてます」  (うけが)うと、家主は満足そうな微笑を残してリビングから出ていった。  俺はしばらくそのままソファの上で色々なものを噛み締めていた。あの口振りからすると、おそらく食事は店で摂るのだろう。恋人になってから初めての外食。そう考えると面映(おもは)ゆく全身がむずむずするが、心が弾むような期待も同時に感じる。  それにしても、去り際に見せたほほえみから想像するに、彼はまた何かを(くわだ)てていそうだった。先ほどはしおらしい姿を見せていたけれど、関係が一段深まっても俺はやはり、入谷に翻弄され続ける運命らしい。それもまた、悪くはないだろう。  彼の企みは(やぶさ)かではないどころか、むしろ楽しみですらある――なんて呑気に構えていたら、華麗な体さばきで軽々と足を(すく)われそうだけれど。  なるべくお手柔らかにしてほしいものだ、と思いつつ、自分も着替えるためにソファから腰を浮かせた。

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