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8話-3 スタート・ポイント

 入谷のオフィスを辞し、一日ぶりに自宅へ向かう。道路の端に昨夜の雨の名残は残っていたが、空は気持ちのよい秋晴れだった。涼しさと秋の匂いを含んだ微風が頬に心地好い。  土曜の中途半端な時間の電車はそれなりに空いていた。車内はカップルや友達同士、家族連れがほとんどで、自分のようなスーツ姿の人間は数えるほどだ。周りからどう見られているのかは、努めて考えないことにする。  席の端に腰かけ、人心地ついたところで私用のスマホの画面を何気なく見、何件か着信が入っているのに気づく。相手の名前を確認した途端に嫌な予感が脳裏を走った。変な胸騒ぎを覚えつつ、自宅の最寄り駅へと滑りこんだ電車から急いで飛び降りる。  マンションの自室まで小走りで向かうと、果たしてドアの前には着信の相手がいて、インターホンを鳴らしまくっていた。やめてくれ、恥ずかしい。  俺の足音に気づいたらしい人影がこちらを振り向く。 「あ、まーくん。電話にも出ないし家にもいなさそうだからどうしたのかと思った」  我が姉のつぼみはあっけらかんと(のたま)う。不在だと察しているのなら呼び鈴連打をしないでほしい。 「そっちこそ突然なに? また旦那……義兄(にい)さんと喧嘩?」 「違うってえ、さすがにこんな短期間で喧嘩はしないよ。こっち方面の友達と会うからさ、まーくんにも手土産のお裾分けをと思って。はい」  落ち着いた色合いのワンピースを着た姉が紙袋を差し出してくる。そんなことでわざわざ押しかけるなよ、とぼやきながらもそれを受け取る。中身は何だろう、おそらく食べ物だが。  そこで俺をまともに正面から見たらしいつぼみが、顔や全身をまじまじと見つめてきた。頭から足先まで三度くらい往復しただろうか、はたと何かに気づいた面持ちになる。ああ、まずい。厄介なことになったぞ。  なにせ休日の昼日中だというのに、今の格好は僅かによれたスーツ、顔面の下半分には無精髭と来ている。何か察するのに十分な情報量を、俺自身が発してしまっているのだから。  つぼみがぱっちりした目を、猫みたいににんまりと笑ませる。 「ていうかまーくん、朝帰りなの? へえ~そう~」  頬がひきつる。身内に一番晒したくない姿を思いきり提示してしまい、忸怩(じくじ)たる気持ちになった。肉親のしたり顔なんて見られたものではない。別に、と弁解する自分の声は思ったより拗ねた響きになった。 「そういうんじゃなくて……飲み会の後に友達の家に泊まっただけだから」 「ふーん、じゃあそういうことにしといてあげよっかな」  つぼみはにまにま品のない笑みを貼りつけたまま。納得していないのが丸分かりだ。  今しがたの言い訳は全然的外れというわけでもない。飲み会があったのは事実だし、入谷とは昨夜の時点ではまだ恋人ではなかった。でも、友達という言葉が咄嗟に口を突いて出たとき、心が確かにつきりと痛んだ。本当は彼のことをただの友達だなんて説明したくはないのだ。心の中で手を合わせて詫びる。  ひととおり弟をからかった姉は満足したようで、そのまま回れ右をする。 「じゃあね、まーくん。たまには実家に顔出しなさいよ、そんなに遠くないんだし。うちのだってまーくんとお酒飲みたがってるよ」  実家か。最後に帰ったのはいつだったか。両親も親戚付き合いも煩わしくて、もう一年以上帰省していない。気分が上向いていたのに、深いため息が出そうになる。 「だったら母さんたちに、結婚の話題とか出すなってつぼみから言っといてくれよ。そしたら帰ってもいいから」 「結婚だってそんなに悪いものじゃないよ」  諫められるかと思ったのに、つぼみのその返答は存外穏やかで真面目な調子だった。  別に悪いものだと思っているわけじゃない。時たま喧嘩しながらも、人生を一緒に積み上げている姉夫婦の姿は好ましいと思える。  ただ、入谷と気持ちを打ち明け合ったこのタイミングで、結婚の話を聞かされてはどうしても気持ちが濁る。 「……まあ、どうしても嫌ってわけじゃないから。そのうち顔出すよ」 「はいよー、期待しないで待ってるから。またね」  つぼみは無造作に掌を振り、さっさと踵を返した。  その後ろ姿を少しだけ見送って自室に入ると、見慣れた光景がどことなく違ったものに見えた。おそらく、変わったのは自分の心境だ。  上着をハンガーにかけ、いつものようにふわふわ泳いでいるクラゲたちに餌をやる。流されてばっかりで呑気なもんだな、と当てつけみたいに考えている自分に苦笑する。流れに逆らうのを決めたのは俺自身だというのに。  シャツとスラックス姿のまま、体に馴れきった己のベッドに身を投げ出す。昨日から色々なことがあって、嬉しいのと同時に少々気疲れがあるのかもしれない。髭も剃らねば、夜は入谷と会うのだから身綺麗にせねば、と思うのだがなかなか体が動かない。  瞼を閉じているうちに、いつしか寝落ちしてしまったようだ。覚醒の瞬間、起き抜けに遅刻を察知したときの嫌な予感が脳裏を走る。掛け布団の上に放り出されていたスマホを確認すると、午後三時過ぎ。昼食も摂らずに眠りこけてしまったが、入谷からの連絡はまだ入っていなかったため、ひとまず胸を撫で下ろす。今のうちに髭を剃って軽く何か食べておこう。  姉に押しつけられた袋の中身を確認するとやはり食べ物で、さくさくとした軽い食感とナッツの豊かな香りが特徴の焼き菓子だった。変な時間にがっつり食べるのも躊躇われるし、腹ごしらえに丁度いいかもしれない。ほろほろ崩れるそれを半分ばかり食べ終わった頃、待ちかねていたメッセージが届いた。寝過ごさないで本当に良かった、と冷や汗が滲む気持ちでスマホに表示された文面を読む。  "ご連絡が遅くなってすみません。  こちらのレストランを予約しました。"  その下にリンクが載せられている。タップして確認してみると、なんとなく耳馴染みのあるホテルの最上階に位置するレストランだった。  "待ち合わせは18時半に現地集合でと考えております。  こちらで大丈夫という場合でも、都合が悪くなった場合でも、お返事を頂ければと思います。  どうぞよろしくお願いします。"  まるでビジネスメールめいた文章に思わず笑みがこぼれる。入谷らしいと言えばそうだが、彼の丁寧な口調が砕けたのを殆ど聞いた覚えがない。これからもっと親しくなったら、あの丁寧さが崩れることはあるのだろうか。 『ほら、触って僕に見せて。柾之』  不意に、いつか彼に命令口調で呼び捨てにされたのが耳に甦り、背中と腰のあたりがぞくりとする。あのときの入谷がもしまた顔を出したら――体が熱くなりそうで、慌てて想像を断ち切る。考えるべき事柄は他に色々とあるのだから。  問題ない、楽しみにしている旨を返信してから、さて、とリビングの椅子の上で腕を組む。目下一番の懸念は服装である。  検索して見た会場の雰囲気から察するに、それほど厳しいドレスコードがありそうな感じではなかったが、あまりにラフな格好で乗り込むわけにもいかないだろう。決して豊富とは言えない手持ちの服を引っ張り出して検討した結果、ノーカラージャケットに薄手のハイネックニットを合わせることにする。  ジャケットは抑えた艶のあるネイビー、ハイネックは黒、パンツはダーツの入ったダークグレーだ。無難も無難だが、入谷の隣に立つのだから彼に恥をかかせないことを最優先にすべきだろう。  髪型はいつものままでいいのかとか、服に変な匂いが染みついていないかとか、靴の表面を磨いておかないととか、気にかける点が無数に出てきて(せわ)しない。結局、余裕を持って家を出るはずが、どこかで迷ったら遅刻しかねない時刻になってしまった。最後に玄関の鏡で全身をチェックしてから出発する。  日が落ちた後の夜気はからりと乾燥して冷たい。乗った電車は着々とホテルに近づきつつあり、手すりを持つ手にぐっと力がこもる。特別に誂えられた空間へと向かうときの、言い知れない高揚感と幾ばくかの不安。こんな気持ちになったのは何年ぶりだろう。気持ちが不安定に揺れ動くのを、社会人になってからは特に厭わしく思ってきたはずだった。しかし今はほどよい緊張感がかえって快いものに感じる。  向かう先にいるのが、入谷だからだろう。  現地にはほぼ約束の時間ちょうどに到着した。先方の性格を考えると既に到着しているはずだ。スマホを見るとやはり、十分ほど前に"ラウンジでお待ちしていますね"との連絡が入っている。  手入れが行き届きライトアップされた庭や洗練されたホテルの外観、瀟洒なエントランスを堪能する暇もないまま、急ぎ足で入り口のホールから地続きのラウンジへ向かい、かの人の姿を探す。  居心地良さそうなそちらへつかつかと近づいていくと、並べられた布張りのソファからすっと立ち上がった影があった。見ると、それが入谷である。彼の格好を認めて、俺の脚は無意識のうちに動きを止めた。 「……お待たせして、申し訳ない」 「いえ。ぴったり約束の時間ですから、どうかお気になさらず」  如才ないほほえみがいつもより眩しく見え、目が離せなくなった。いつもふわふわしている黒髪は整髪料でまとめられ、すっきりとした額が照明の下に晒されている。服装は紫紺色の上着とベストにスラックス、ぴしりと隙のないスリーピースだ。艶のある生地には全体的にうっすらとダマスク柄が浮いている。そこに黒シャツを合わせ、柔らかなクリーム色の細めのネクタイをきっちり首元まで締めていた。小脇に抱えているクラッチバッグは艶消しの黒のシンプルなものだ。  頭から爪先まで格調高い統一感をまとった立ち姿は、まるで絵画から抜け出てきた絵姿そのもの。街の猥雑(わいざつ)さから隔絶されたホテルのラウンジにあってなお、周囲に放たれる美しさはほとんど別次元で、くらくらと眩暈がするようだった。  この人と俺が付き合っているのか。急に現実が信じがたい気持ちになり、生唾を飲み込む。

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