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8話-4 スタート・ポイント

 言葉を失った俺を不審に思ったか、深い色の視線がこちらの上から下まで舐めるように往復する。 「す、すみません。もっとちゃんとした格好で来るべきでしたね」 「そんなことはないですよ。柾之さんも格好いいです。僕は少し気合いを入れすぎたかも」  くすりと笑い声を漏らす彼は、いつになく蠱惑的だ。よくそんな歯の浮くような台詞をさらりと口にできるものだと思う。心臓の早鐘が落ち着かない。今からこんな調子では途中でどうにかなってしまうんじゃないか。 「それでは、行きましょうか」  甘く囁いた入谷の腕が腰に回ってきてぎくりとする。反射的に相手を見れば、いたずらっ子にも似た微笑が口元にある。ちょっと、と何か言う前に、腕はわずかな感触を残してすぐに離れていった。  自意識過剰かもしれないが、エレベーターホールに向かう我々の背中に、居合わせた人々の視線が突き刺さっている気がする。あの二人はどういう関係なんだろう、という無言の問い。  (かた)や普通の会社勤めのサラリーマンで、片や海外にも名の売れたフォトグラファー。初見でも雰囲気の差は一目瞭然だろう。一体何がどうしてこうなったのか、来し方を思うと自分でも混乱しそうになる。  レストランはホテルの最上階だ。金属を多用した重厚な造りのエレベーターに乗ったのは俺たち二人だけだった。重々しい扉が閉まった途端、隣にいる入谷が両手で顔面(かおおもて)を覆い、はああと深く嘆息したものだからぎょっとしてしまう。 「ど、どうかしました?」 「黒のハイネックなんて破壊力が強すぎます。お召しになるなら事前に仰って頂きませんと……心臓が持ちません」 「そんなに……?」 「あなたは僕にとても好かれている、という自覚をお持ちになった方がよろしいでしょう」 「ええと……善処します」  大真面目に告げられた言葉に頬が緩む。以前は何を考えているのか推し量れない部分が多かった入谷だが、名前のある関係になってからは俺への気持ちを隠さなくなったと感じる。ハイネックの破壊力とやらはよく分からないが、何でもない顔の裏でそんなことを思っていたなんて。なんだ、彼も俺と同じじゃないか、とほっこりした気分になった。  階数表示が順調に昇っていく中、入谷が身をすり寄せてくる。 「ここでキスしてもいいですか」 「えっ」しみじみしていたところへとんでもない要求が来た。狼狽もあらわに天井の隅あたりに視線をやる。「でも、その、エレベーターって監視カメラがあるんじゃ」 「僕は誰に見られても構いません」  動揺する俺に迫る双眸の、炯々(けいけい)とした輝き。まるで獲物を前にした肉食獣のようだ。その目がちらりと上方に振られ、 「この角度なら、おそらく見えませんから」  囁かれて有無を言わさず唇を奪われる。その行動は衝動的なのか理性的なのか、分からない。口では難色を示していても体は正直なもので、口づけされると目の奥あたり、脳に近い場所が一気に燃え上がるみたいに熱くなる。俺はこんなシチュエーションで興奮する人間じゃなかった、はずなのに。  別の生き物にも思える指先が、上着とハイネックのあいだに侵入してくる。カメラに隠れた場所で指が蠢き、背中から腰にかけてをまさぐった。腰椎の周りが痺れ、そこから砕けそうになる気配を感じ、慌てて脚に力をこめる。  いよいよ最上階は目前だ。このままの体勢でドアが開いてしまったらどうなるのだろう。秘め事をカメラの死角に隠匿したのも水泡に帰し、居合わせた人皆に痴態を晒すことになったら。  思考が熱に冒されぼうっとしてきたタイミングで、入谷の体が離れる。 「さて、これ以上は危険ですね」 「あ……」 「まったく物足りないですが、これは前菜ということにしておきましょうか。ね? 柾之さん」  俺の目を覗きこみながら、濡れた唇を舌先でぺろりと舐める。その仕草も、ほんの一時(いっとき)の閉鎖空間も、この先の長い夜の気配も、何もかもが淫靡だった。  チン、とレトロな音を響かせ、エレベーターが停止する。入谷が俺から離れてから、ほんの数秒後の出来事だった。  到着したレストランはスペースを広々と使っていて、華美すぎず、落ち着いた大人のための空間といった印象だった。暖色の照明は輝度を絞ってあり、他の客の顔立ちをさりげなく隠している。高い天井まで届くガラス窓からは、藍色の帳の中へ光を放つビル群が整列しているのが見えた。都市の夜景なんてただの景観としか思っていなかったのに、なぜだろう、こうして眺めるととても美しく価値のあるものに思える。  席へつきながら、俺の心はどこなくざわざわと浮き足立っていた。案内してくれたギャルソンが、同行者を見てわずかに目を(みは)るのに気づいてしまったからだ。場数を踏んだ百戦錬磨のホテルのギャルソンが、少しでも顔色を変えるなんてよほどの事態だろう。やはり客観的に見ても、今宵の入谷の美しさは群を抜いているのだ。  平常心、平常心、と念じながら渡されたメニュー表に目を通す。ディナーのコースは前菜やメインの選択肢がそれぞれいくつかあるプリフィックススタイルだった。パンの籠を運んできたギャルソンにお互い要望を伝える。籠の中の何種類かのパンから、食欲をそそるバターと香ばしい小麦の匂いが立ち昇ってきた。  テーブルの上には本物の火がついたキャンドルがあり、白いテーブルクロスの上に炎の影がゆらめいている。ちらちらとした光に照らされる入谷の姿と相対しながら、まずはスパークリングワインで乾杯という流れになった。 「では、改めて今後ともよろしくお願いします、ということで。乾杯」 「乾杯」  アルコールは納会以来で、つまりあれからたった一日しか経っていない。己の心境も、我々の関係も、何もかもが塗り替えられてしまった。その事実に驚きつつ、芳醇だがさっぱりとした口当たりを味わう。 「それにしても、すごく素敵なところなので驚きました。よく当日で予約取れましたね」 「そういうのは野暮というものですよ、柾之さん」  苦笑しながら肩を竦める入谷に指摘され、初っ端から要らないことを言ってしまったと頬が熱を持つ。 「……ですよね、すみません」 「いえ、そんな。意外と当日はキャンセルが出がちなので、いくつか当たってみたんです。予約が取れる確約はできないので、昼間は曖昧な伝え方になってしまいましたが」 「ありがとうございます、わざわざ……」  前菜の皿が来る。彩り鮮やかな種々の野菜に、白身魚のカルパッチョが合わさっていた。初めて味わうような深みのあるソースがかかっている。白い皿の余白がソースで飾られているのも洒落ていて、目にも楽しい。  ただ、俺は料理よりもむしろ入谷の食べる姿に意識を奪われていた。背筋がぴんと伸び、ナイフとフォークを繰る動作も淀みなく流麗で、何かのお手本を見ているよう。フォークが口元に運ばれるたびに、白い歯と赤い舌先がちらりと覗く。  視線の熱さに勘づいたか、相手がふっと目線を上げる。 「どうかしましたか? あまり食が進んでおられないようですね。お口に合わなかったでしょうか」 「あ、いや……紫音くんの所作が綺麗だから、見とれてしまって」  ぽうっとしていたせいか、恥ずかしい本音がほろりと漏れる。入谷は呆れるでもなく、少し照れた顔で蕾がほころぶみたいにはにかんだ。 「また、そんなことを。酔うにはまだ早いのでは?」 「そうですね……。お酒じゃなくて、紫音くんに酔ったのかも」  相手が目を見開いて、それで自分が何を言ったのか遅れて自覚する。素面(しらふ)では出てきそうもない台詞に我が事ながら驚いた。ナイフを置いた右手で恥じ入るように口元を覆い、顔を逸らす入谷の白皙の頬は、ほの暗い照明の中でもはっきり分かるほど赤らんでいる。 「な……突然何を言い出すのですか。驚かせないで下さい……」  常になく語尾がすぼまっていく。その一連の様子は可愛らしかった。そっと心の中のフォトギャラリーに想像上の写真を収める。胸がさざめくのに温かくもなる、こんな気持ちは初めてだ。  その後すぐに入谷は調子を持ち直し、次のパスタの皿が運ばれてくる頃には完璧で余裕のある振舞いを取り戻していたが。

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