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8話-5 スタート・ポイント

 対面に(きょう)されたパスタは肉厚のパンチェッタがごろごろ入ったアマトリチャーナで、俺のは牛肉と赤ワインの香りが豊かなボロネーゼだ。皿の真ん中に高く小さく盛られた太めのパスタをフォークで巻き上げる。形の残った肉の旨味に、アクセントとなる香草の風味。それらがしっかりした小麦の味と渾然一体になっている。  場の空気にあてられた緊張もお酒で喉を潤すうちに少しずつほぐれ、だんだんと口が滑らかになっていく。入谷とのとりとめもない雑談がとても心地好い。 「紫音くんはいつもこんなところでお食事を?」 「まさか。クライアントとの顔合わせはこういった場所が確かに多いですが、僕は本当は和食の方が好きなんです。ここを予約しておきながらおかしな話ですけれど」 「ああ、和菓子も好きなんだもんね。でもやっぱり、業界によって傾向はありそうだよねえ。うちの会社では大抵、接待は小料理屋とか料亭みたいなところでやるから」  そこでカトラリーを置いた相手が少しだけ身を乗り出す。 「もし良かったら、今度おすすめのお店に連れていって下さいませんか。和食が好きな割に、そちはの飲食店には疎くて。柾之さんがお好きなお店や料理も知りたいです」 「うん。もちろん」  楽しげな様子の入谷にほほえみ返す。次の機会には行きつけの居酒屋に二人で行ってみようか。彼相手に案内するには庶民的すぎるだろうか。  そこではたと気づく。そうか、俺の知らない世界を入谷が知っているように、俺が知っていて入谷が知らない事柄もこの世にはあるのだ、と。その当然の事実になんとなく、くすぐったさに近い嬉さを覚える。 「和食の中でも好きな料理とか食材はあるの? 逆に、苦手なものとかアレルギーとか」 「食べられないものは基本的にありません。一番の好物は……そうですね。柾之さん、あなたです」 「は……」 「早く頂きたいものです。待ちきれませんね」 「ちょっ、それは」  出し抜けの爆弾発言に絶句する俺の前で、目元を弓形(ゆみなり)にした恋人はにやりと笑う。危うく口の中のものを噴き出してしまうところだった。どんな空気感のどんな場所でも、入谷は入谷だ。 「紫音くん……いきなりそういうジャブを打ってくるの、やめない?」 「やめません」 「ですよね……」  つんと澄ましたにべもない返事に、なぜだか笑ってしまう。釣られて笑みをこぼした相手の表情が眩しくて愛おしく、柄にもなく胸の中がきゅっと切なくなった。  パスタの後に来たメインデッシュ――入谷は子牛のステーキで、俺は白身魚のソテーだった――にも舌鼓を打ち、料理の合間にたっぷりバターを塗ったパンをつまみ、赤や白のワインを飲み、デザートにティラミスを平らげる。最後に少量出されたリモンチェッロの爽やかな後味が、フルコースを軽やかにまとめてくれていた。  和やかな二人だけの歓談、どれを取っても美味しい料理、きっとこの気持ちの暖かさが幸福感というものなのだろう。こんなゆったりとした充実の時間を、他でもない入谷紫音という人と一緒に過ごせて本当に良かったと思う。  家を出た時点では空腹に近かったのに、もうすっかり満腹だ。細身のどこに入ったのか、入谷は涼しい顔で平然と会計をしている。自分の分は払うと主張したのだが、ふんわりと(しかし有無を言わさない様子で)(かわ)されてしまったので、次は自分が奢ろうと決意した。  先にレストランの出入口に出ていた俺の下へ、入谷が歩み寄ってくる。今日はご馳走様です、と会釈するとゆるゆると頭が振られる。  俺たちのあいだには腕を伸ばしても届かないくらいの距離があって、その空隙を周囲の人々のざわめきが埋めているようだった。時刻は21時過ぎ。どこか物寂しい雰囲気に無意味に焦ってしまう。何も聞かされていないが、今日はこれでお開きなのだろうか。良い意味での夢見心地のまま、この可惜夜(あたらよ)を二人どこかで過ごしたい。  ざわめきがふと遠くなり、途切れた。周囲が一瞬無人になったタイミングで、入谷が懐まで身を寄せてくる。彼の動きに合わせ、整髪料と香水とお酒の匂いがほのかに香った。  恋人になったばかりの青年が、柾之さん、とことさら息を含ませて低く囁く。 「今夜、ここのホテルの部屋を予約してあります。いかが致しましょうか」  すり、と手の甲同士が触れ合う。そこに確かな熱が灯るのを感じる。にわかに心拍数が上がっていく。  ともすれば掠れそうになる喉に力を入れ、間近に迫る深い色の眸を見つめながら返事をする。 「紫音くんと、二人で過ごしたいな」 「良かった。それでは、共に参りましょうか」  入谷が目尻をとろかす。伸ばされた彼の熱い指先が、俺の頬をつうとなぞった。長い夜の始まりの予感。畏れにも似た興奮が体中を駆け巡る。  俺たち二人は一旦一階へと戻った。  上着を腕にかけ、フロントでチェックインを済ませる恋人の後ろ姿を、3メートルほど後方からぼんやりと見る。ベストが体のラインにぴったり沿っているから、オーダーメイドのスーツなのかもしれない。きゅっとすぼまった腰のラインに、 突然抱きつきたい衝動に駆られた。  体を密着させてあの肉体を感じたい。入谷にも俺を感じてほしい――なんて、思考が恐ろしい方向に暴走していく。アルコールで理性の箍が飛んでいてブレーキが利かない。駄目だ、と自分を叱咤する。二人きりになるまで我慢しろ。話はそれからだろう。 「なんだか目が据わっておられますが、大丈夫ですか? では、行きましょう」  こちらの煩悶を知ってか知らずか、入谷はエレベーターホールへと涼やかに促す。  食事に向かう前と違い、エレベーター内では何の会話もなかった。二人して無為に階数表示の遷移を見上げているだけだ。沈黙が緊張をいやが上にも助長していく。  横目で盗み見る先の横顔は、体温や飲酒の影響を感じさせないほどに悠揚としていて、淡い光を白々と放っているようだった。折り込んだ掌がじっとり手汗で湿るほど緊張しているのは、きっと俺だけなのだろう。  毛足の長い絨毯が敷かれた廊下を進み、木目調のドアを開けた先に現れた部屋は、ベッドがふたつあるツインルームだった。  光量が絞られた室内を見て少しだけ気が抜ける。なんだ、ダブルルームじゃないのか。そう思ってしまったのだ。  その一室はレストランより少しカジュアルな雰囲気で、部屋全体が木製の調度品で統一されており、ややクラシカルな空気感が居心地良さそうだった。間接照明は柔らかなオレンジイエローで、それが洗練されすぎないムードを演出しているとも言える。  ドアの前で棒立ちになっている俺をよそに、入谷はきびきびと行動を始めていた。アンティーク調のコーヒーセットが置かれたテーブルにバッグを置き、クローゼットを探してスーツの上着をかける。柾之さんもどうぞ、と手招きされて我に返り、ジャケットの袖を抜きながら彼の隣へと歩み寄る。ぎこちない動きをする自分に、笑みを含んだ目が「どうかしましたか?」と問うてくる。そのミステリアスな表情の、なんと艶かしく魅惑的なことか。 「あの……」高まった緊張で声が上擦る。なんだか久しぶりに声を発した気がした。 「会ったときに言えなかったけど、今日の紫音くんの格好、すごく素敵だった」 「ふふ、本当ですか? ありがとうございます」  入谷が破顔する様は、可憐な花みたいに俺の視線を惹きつける。突き上げてくる衝動に背中を押され、恋人の腰を抱き寄せた。  唇が触れ、交わり、次いで熱い吐息が交わる。アルコールの残り香に、脳も足元もくらくらするようだ。 「柾之さん……」 「……ッ、紫音くん……」  名前を息混じりに呼び合いながら、キスは互いを貪るほどに深まっていく。無意識のうちに、熱く昂ったものを布地越しに擦り合わせていた。細い指先に後頭部を撫でられ、背筋をぞわりと快感が駆け上る。負けじとすべすべした布の上から尻たぶを掴み、指先に力をこめると、薄いのに弾力がある肉に沈みこむのが分かった。  本能が理性を駆逐していくのに任せ、ベストの細かいボタンを外そうと手を伸ばしたところで、当の本人にやんわりと押し返される。苦笑気味に笑みをたたえる入谷の唇は、ほの暗い照明に照らされててらてらと光っていた。 「紫音くん……?」 「あなたに求められるのは光栄ですし、積極的で嬉しいのですが……その前にシャワーは浴びないといけないのでは」  確かにそれはそうだ。勢いで「それじゃ、一緒に……」と口走ってしまい、目と鼻の先にある両眼が丸くなる。 「……お誘いは嬉しく思いますが、僕は色々と準備がありまして。その姿を見られるのはまだ、少し恥ずかしいです」 「あ、そうか。いや……ごめん」  恋人に困ったような笑い顔をさせてしまったことを恥じ入った。入谷が何をどうしているのは具体的には知らないが、湯煙の中で受け入れる準備をするしなやかな肢体を想像してしまい、頬が熱くなる。  そんな姿を直接目の当たりにしたら簡単に理性が吹っ飛びそうだ。彼の準備もゴムも不十分なまま、そんな風に勢いで最後まで雪崩れこみたいわけじゃない。

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