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8話-6 スタート・ポイント

「あなたが謝られることではありませんよ。それでは、手早く済ませてしまいますね。お先にお風呂お借りします」 「うん……」  備え付けの寝間着を手に取り、入谷は浴室へと歩み去っていった。一人になって深く息をつき、堂々とした大きさのベッドの片方に腰を下ろす。あああ、と前髪をくしゃくしゃに掻き回して呻き、唸る。  食事を終えてから、自分は完全に舞い上がってしまっている。本来は年上がリードすべきなのに、と内心では呆れられているのかもしれない。落ち着き払った彼の立ち居振る舞いを見ていると、無闇に焦ってしまうのだ。本当に俺が好きなんだよな?と。 気持ちが通じ合ったばかりのはずなのに、足先からじわじわと不安が這いのぼってくる。  悶々としているうちに、ドアが開いて湯上がりの入谷が帰ってきた。水分を含んだ前髪が額を覆い、備え付けの寝間着を纏った彼はがらりと雰囲気が変わっていて、年齢よりあどけなく見えた。言うなれば、パブリックからプライベートへの変貌。今、この姿の入谷を見ているのは俺だけだと思うと、いっそう脈が速くなるのを止められない。 「柾之さんもどうぞ」  ごく簡潔に勧められるのに従い、自分もそそくさと浴室へ赴く。当然使った直後ゆえに温もりがそのままで、それだけで落ち着かない気持ちにさせられる。備品の歯ブラシで歯を磨き、服を脱いで温かい湯を浴びる。ボディソープもシャンプーも、いやに奥深い香りがしてよそよそしかった。一度抜いた方がいいかと悩んで、結局やめにする。必要以上に待たせるのは本意ではない。  歯磨きもそうだが、いつもより念入りに体を洗っている自分が可笑しくて滑稽に思える。でも、地に足がつかないのは仕方ない。これから入谷とセックスするのだ。本当に好きだと思える人との、初めてのセックス。  口から飛び出しそうな心臓を抱えて寝室に戻る。そこは静かで、フットライト以外は消えていて。  恋人は、既にベッドの中に潜り込んでいた。  え? と驚きすぎて声も出ない。そろりとベッドとベッドのあいだに近づいて耳を済ますと、規則正しい呼吸がかすかに聞こえてくる。もう寝ている、のか。  どっと全身が脱力してベッドに座りこんだ。はは、と乾いた笑いがこみ上げてくる。そうだよな、思い返せば相手は一言もセックスをするとは言っていない。準備をすると言ったときも、何のとは明言していなかった。やはり、俺だけが舞台に上がって、独り不器用に踊っていただけだったのか。  どこからもスポットライトが当たっていないのに気づかないで。  それならまあ、仕方ない。問題は、溜まりに溜まった体の熱をどうすべきか、ということだ。セックスするつもりでいたからこのままでは眠れる気がしない。入谷が寝ている横でこそこそ慰めるわけにもいかないし、トイレか浴室に戻って抜くしかないだろう。うん、そうするより他にない。  気持ちを固めて立ち上がろうとしたとき。隣のベッドからくつくつと忍び笑いがした。 「ちょっ、紫音くん……! 起きてるんでしょう?」  思わず大きい声が出る。視線の先で、掛け布団の端からひょっこりと頭が出てくる。いたずらっ子みたいな顔で眉尻を下げていた。 「すみません、あなたがあんまり可愛かったのでつい意地悪しました。怒りましたか?」 「いや、怒りはしないけど……はー、良かった……」  悪戯だと分かって気が抜け、我知らずベッドの上に大の字になってしまいそうになった。でも、ほっとした。このまま隣に彼の存在を感じたまま一人で眠るなんてできそうになく、おそらく明日になったらかなり落ち込むに違いなかったから。  入谷が上半身を起こし、こめかみに垂れた髪を耳にかけながら言う。 「そちらに行っていいですか?」 「もちろん。……えっ、ちょっと待って」  もぞもぞとベッドから降りてきた姿に瞠目する。彼は寝間着の下を身につけていなかった。裾が長いから大事な場所は隠れているが、太腿の際どいところまで見えていることには変わりがない。淡い光に脚の白さを晒しながら、淀みなく近づいてくる。 「紫音くん、し、下――何も穿いてないの!?」 「どうでしょう?」  楽しげに小首を傾げつつ、俺をベッドに押し倒す入谷。そのまま腹の上に馬乗りになってくるが、下半身はやはり見えそうで見えない。もどかしさに情欲が煽られる。 「別にどちらでもよいのでは? いずれにしても今から全部脱ぐんですから。ね」 「それは……。……ッ」  たおやかな指先が寝間着のボタンをぷつ、ぷつ、と焦らすように外していく。しずしずとした仕草に、穏やかな微笑を伴っているのに、目だけがぎらぎらと輝いている。先刻も見た、獲物を前にした肉食獣の目だ。  腹にひんやりとした空気が触れる。寝間着の前を寛げきった俺を見下ろしながら、は、と感慨をたっぷり含んだ吐息を入谷が漏らす。 「好きです。柾之さん。……とても、好き」  それは、聞いていて切なくなるほどに張り詰めていて、ひたむきな響きを持っていて。痛みすら覚えるくらいの甘酸っぱい気持ちが湧き上がってくる。  不意に目頭が熱くなり、目の前が滲む。嘘だろう、と慌てて両手で顔を覆った。 「柾之さん? 大丈夫ですか」 「いやちょっと、安心しちゃって、それで」 「安心?」  上にいる入谷の困惑が伝わってくる。俺だって自分が三十路(みそじ)も過ぎて、こんなシチュエーションで泣くなんて思わなかった。年甲斐もなくみっともない。みっともないけれど、きっと彼は馬鹿になんてしないと信じられるから、正直な気持ちを言葉にできる。 「実は……さっきからずっと不安に思ってて。紫音くんは二人きりのときも何でもない顔をしてるし、俺ばっかり舞い上がってる気がしてたから。今も本当に先に寝たのかと思ったし……。でも今、好きって言ってくれてすごく安心したし、嬉しい」  そろそろと掌をどかすと、入谷はやはり、慈愛に満ちた目をこちらに向けていた。ぎりぎり滴にはならずに(まなじり)へ溜まっていた涙を、指先が愛しげにそっと拭う。 「すみませんでした。あなたをそんなに不安にさせていたなんて思わなくて。きっと、僕の顔色が変わらないせいですよね。でも僕も――いえ、僕の方が緊張していたと思いますよ」  絹ほどになめらかな声は、この夜の静かな空気に調和している。 「ずっとどきどきしていたんです。ここに到着して、あなたと会う前から」  入谷が俺の左手首を掴み、自分の左側の胸の上へと押し当てる。意図を理解してはっとした。肋骨の内側を、心臓が激しく叩いているのがはっきりと分かる。今の俺よりももっと速いスピードで。  顔を見返しても、そんな緊張など微塵も窺えない。彼はどれほどの思いを内に押し込めてきたのだろう。いつも涼しい面立ちを見せながら。  腕を離した入谷がふふ、と自らに呆れるように笑う。 「分かりにくくてすみません。家を出る前も、お誘いした方が遅れては示しがつかないと焦ってしまいまして。待ち合わせ場所には三十分も前についていたんですよ」 「そう、だったんだ……」 「いつも気持ちが上手く伝えられなくてもどかしいです。今夜はその分、たっぷり伝えさせて下さい」  といっても僕は童貞で処女なので、下手かもしれませんけどね。と続けられた言葉に笑ってしまう。そんなの関係ないくらいの巧者だということを、俺は身をもって知っている。 「俺も同性相手は初めてだから……どうかお手柔らかに」  少し弛緩した空気の中、目を合わせて笑みを交わす。そのうちに相手が覆い被さってきて、(ついば)むようなキスの雨を降らせた。と同時に、下を掌でゆるゆると刺激される。何回もお預けを食らっていたそこはもう、はち切れんばかりに膨らんでいた。気を抜いたらすぐにでも達してしまいそうだ。  入谷が身を起こし、ベッドの上にあるバッグ(いつ持ってきたのか全然分からない)からゴムのパッケージを取り出す。用意がいいことだ。 「汚したらいけませんからね」と淡々と言いつつ俺の昂りにゴムを被せる。その刺激だけでかなり辛いものがある。  彼が自身の股間に手を伸ばすと、服の裾の合間からしっかり大きくなったものが現れる。やはり何も穿いていなかったのか。そこがごく薄い膜で覆われるのを、固唾を飲む気持ちで見つめてしまう。 「そんなに熱い視線で見つめられると、照れてしまいますよ」  見上げる先で、入谷はうっそりとほほえんだ。そう言われても、我慢しろという方が無理だ。彼が少し体勢を変えただけで繋がってしまえるのだから。  以前彼の中を指でかき混ぜた記憶が蘇り、衝動的に尻に昂りを擦りつける。途端に細身の体が跳ね、んん、と悩ましげな吐息が漏れた。 「もう……柾之さん、挿れたいんですか?」 「……うん、挿れたい」 「欲しがりさんですね」  口の端が婀娜(あだ)っぽく引き上げられる。

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