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一人の朝
笹森弘は熱い下半身の感覚に目が覚めた。
まだ、出てはいない。けどこんなの出したも同然だ。誰も見ていないけれど、精通した頃の様な股間の熱に居心地が悪くなる。そして、そのままではどうにもならなそうなソレにため息を吐き、仕方なしに手を伸ばす。
こんな事、したくない――。
そう思うのに身体は欲望に正直で、頭の中はさっき見た夢の続きでいっぱいになる。
夢の中で僕を抱き寄せた恋人、甘利京の逞しい身体、唇を割る舌、口の中を舐められ舌を吸い上げられて、大きな手が僕を探り、捉える。それから――。
僕、笹森弘は中学時代の恋人である甘利京を想って吐き出された手のひらのそれに、鈍く重い罪悪感を覚えた。軽く触れた唇以外を知りはしないのに、当たり前のように続きを想像する浅ましい自分に気が重くなる。
京より小さかった手も随分と大きくなった。肩も腰も太くなって、腕も足も筋が目立つようになった。身長だってあの頃の京を越してしまった。
もう、僕はあの頃と違う。
京の唇が触れていたのは、女の子と見間違えられる事もあるくらい可愛かった頃の僕だ。抱き締められたらその背中に隠れてしまう頃の僕だ。今じゃ、抱き締められても隠れもしない。隣に立って僕からキスするのだって簡単だろう。
女の子になりたいわけじゃない、けど、女の子に生まれていたらどんなに良かっただろうと考える事を止められない。
中学時代、僕は友達の甘利京に恋をしていた。当時の僕は細身で小柄、丸い女顔に色白のせいかやたらと紅く唇が目立って女の子に間違えられることが多かった。
京を好きになったのにいつからとか、何でというはっきりした理由はない。いつも少しだけ京は優しかった。落ち込んでる時は声が優しくなる、体調の悪い時は歩くのを遅くして待ってくれる。それは僕だけに向けられたものではなかったけれど、少しずつが積み重なって好意は膨らんでいった。
一度「いいな」と思ってしまえば恋に落ちるのは早い。悪ぶって不良のような振りをしているけれど粗野な振る舞いは照れ隠しで、本当は寂しがり屋。そんな所も好きで、僕より一足早く大人になろうとしている低くて甘い声も、身長一七五センチを超える中学生にしては大きな身体も、全部が魅力的に見えた。
初めて自覚した恋心は制御できなくて、飼い主を慕う子犬みたいに僕の毎日は京を中心に回ってた。
同性が好きだとカミングアウトする有名人も増えてテレビやネットの中では特別じゃなくなって来ているけど、僕らの回りでゲイの人がいるわけでもなく、ましてや自分が――なんて言えるわけもなく、それでも溢れ出る恋心は隠せなかった。
当然それは幼馴染の佐島茂をはじめ、京の友達の須田武達にも気づかれた。皮肉にもコンプレックスだった女顔のおかげで京を好きでいてもあまり違和感を持たれずに済んだという自覚はある。
中学三年の秋、僕の気持ちに気づいた友人らが僕と京の距離が縮まるようにとテストの得点を競った悪ふざけのゲームでキッカケを作ってくれた。くじ引きで決められた僕と京の罰ゲームは『電車の中でキス』。心臓が飛び出しそうな程緊張して迎えた罰ゲーム。電車の中、友達が囲んで作った壁に守られて僕は大好きな人にキスして貰った。
緊張する僕を気遣って繋いでくれた手の温かさ、一度目で失敗して歯をぶつけた痛み、すぐに触れた二度目の唇のやわらかさ、キスの後額を寄せた肩の厚み。全部が僕の宝物になった。
結果、僕と京の距離は縮まった。
キスして別れた後、ドキドキしながら送った「またしてね」のメッセージ。
京はそれに応えて時折キスしてくれた。放課後の教室、帰り道の別れ際、お互いの部屋、友達と遊んだテーマパークの物陰……。
はっきりとした言葉はなかったけれど、僕らは恋人同士だった。少なくとも、京は僕からの好意は知っていて、僕も京にとって自分は特別なんだと思っていた。
好きで、好きで、一緒にいるだけで満たされた。見ているだけで幸せだった。恐くて、大切すぎて、言葉にすることすらできなかった想い。でも、お互いに感じていたはずだった。
幼くて、未熟で、どこまでも自分勝手で傲慢な初恋。
もう一度同じ恋をするならもっと大切にする。言葉にして、逃がさないようにちゃんと抱きしめる。
だけど、あの恋はあの時だけのものだ。あんな風に好きになる事は、きっともうない。
僕はその大切な恋を、好きすぎて臆病になって手放してしまった。
幸せだった思い出は、今では苦い後悔に飲み込まれている。
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