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どうして?
新学年が始まって一か月が経とうとしている大型連休初日、3月に虹也を見送る為に立った駅のホームに弘は立った。あの時は肌寒くて薄手のコートを着ていたのに、一か月程ですっかり季節は変わって、今は西日に照らされると薄手のシャツすら暑くて袖を折っている。連休ということもあり駅は混雑し、ホームに立つ人達は親子もカップルも心なしか楽しそうに見える。
虹也が上京してからも電話やSNSでのやり取りは頻繁にしていたけれど、弘は直接話がしたくて連休を利用して会いに行くことにした。京の事を話したかったし、今回は密かにエッチな指南を仰ごうという目的もあった。
性的な事に関しては弘は奥手だった。経験と言えば、京との唇を合わせただけのキスのみ。「もっと」と思う事もあったけれど、あの時はそれで満足していたのだろう。触れる京を想像して自信を慰めてもそれはどこか絵空事のようだった。触れ合いたいという思いも、実感を伴った欲望として感じたのはここ一か月、京と再会してからだ。
この先、京とどうにかなる事は無いだろうと思う。けれど一方で抱かれたい余りに後ろを使った自慰を覚え、一人で京を想って慰める事に嵌っているのも事実だった。身体は快感には貪欲で、より強い刺激を求めて疼く。けれど奥手だった弘にはネットに氾濫する情報は怖くて中々手を出せない。だったら、冗談だとしても「教えてあげる」と言われた事もあるし、虹也に聞けば安心だ。
けど、どう聞けばいいだろう? と考えて弘はもぞりとする。そして、昼日中にそんな事を考えている自分に気が付いて、恥ずかしさを誤魔化すようにキョロキョロと辺りを見渡した。
あれ?
向かいのホームに電車が入る直前、一瞬だけ京によく似た姿を見つけてドキリとする。けれど確認をする間もなく電車に視界が遮られた。こちらには気付かなかったし見間違いかも知れない、と思いながらもつい電車が行った後も姿を探す。しかし当然のように京の姿は見つけられず、弘はがっかりした。
京ははっきり言わなかったけれど、今頃は彼女とデートのはずだ。弘は知らずにため息を吐いて自嘲した。
姿を見ても恋しいだけなのに、それでも見たいとか――。
自分を誤魔化すようにスマホを取り出して時間を確認すると、すぐにホームに上りの特急電車が入ってくる。賑やかく到着した電車から楽し気にはしゃぐ親子が降りるのを待って乗り込もうとすると、不意に後ろに腕が引かれた。
びっくりして振り向くと京が弘の腕を掴んで立っている。
「弘!」
切羽詰まった様に呼び掛けられて腕を引かれる。驚いて目を白黒させる弘を強引に乗り口から引き離す。
「何、どうしたの?」
「どこ行くんだよ?」
「どこって、先輩の所だけど……」
「先輩って、恋人の? これから?」
「そう、だけど、……」
「あっちに着いたら夜だろ? それで、一人暮らしの恋人の部屋に休みの間中泊まるって?」
「ずっとじゃなくて……」
「仲いいんだな」
「先輩とはそんなんじゃ……」
虹也が恋人だと言ってある手前否定するのもおかしい。けれど、弘の言葉を聞かずに怒った様に詰め寄る京に言い訳せずにはいられない。ホームで揉める二人に周りの人も何事かと様子を伺っている。弘はそれに気付いて電車に乗ろうとするけれど、一向に構わずに弘を引き留める京の手は、ぴくりともしない。
「ね、離して、電車乗らないと……」
「ダメ」
「京……?!」
「離したら行くんだろ?」
「当たり前だろ? もう乗らないと……」
ドアの締まるベルが鳴り弘が激しく抵抗すると両腕を掴まれて羽交い絞めにされた。
「離して!」
「行かせねぇ!」
攻防するうちに、弘の抵抗も虚しく音を立てて扉が閉まる。遠くから車掌の笛の音が響いてゆっくりと電車が走り出し、車窓に映る休暇に向かう楽し気な人たちを呆然と見送る。
「バカ! もう、何なの……。行っちゃったじゃん……」
諦めてため息を吐くと、横抱きに羽交い絞めにされて密着している身体と掴まれたままの腕が急に気になる。昔みたいに包み込まれない代わりに、すぐ近くに京の顔があって弘はアタフタした。
「痛いよ、離して」
思い出した様にドキドキと鳴りだす心臓に気付かれないよう、わざとぶっきらぼうに告げると「わりぃ」と京が力を緩めた。動いた京の身体からフワリとまだ新しいボディソープの匂いが香って弘はドキリとする。慌てて身体を離すけれど、京は掴んだままの腕は離してくれない。
「腕も、離してよ」
「離したら、どっか行くだろ」
機嫌が悪そうな京に弘はどうしていいか判らず途方に暮れる。
「それ、特急券、払い戻し出来るの?」
「どうだろう? やった事ない……」
と言うか、特急に一人で乗ること自体が初めてだったんだけど。
「多分、乗ってないから大丈夫だろ」
そう言うと、弘の腕を引いたまま流れに乗って改札に向かう。京の行動が訳わからなくて弘は混乱したまま後を付いていく。
「……切符、払い戻ししたら、手離すから……」
ぼそりと京が言って、弘は反射的に「このままでもいいんだけど」と心の中で続けた。
掴まれた腕が、痛くて熱い。前を行く京に掴まれた腕だけが妙に説得力があって、ざわざわと賑やかな駅の人込みもなんだか遠い。
さっき、羽交い絞めにされた時、抱き締められたみたいで一瞬時が止まった。抗う振りして「離して」と言いながら、大した抵抗さえ出来ずに電車を見送った。何だか訳が分からなかったけれど、京はもしかして『恋人の所に行く』のを止めてくれたんだろうか。虹也の事を恋人だと言ったから嫉妬してくれたんだろうか。
だったら嬉しい。
少しでも、僕に対する独占欲みたいなものがあるなら、それだけで嬉しかった。
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