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3 大学編 1 仲春‐②

 四月はずっと忙しかった。特に式後の一週間は毎日のようにオリエンテーションがあり、健康診断があり、学生主催の新歓イベントがあり、サークルの勧誘も止まなかった。    履修を組むにも時間と労力が削られた。慣れていないので結構悩んだ。必修でほぼ埋まってしまうが、選択科目は先輩の意見を参考にしたりクラスの友人と相談したり、もちろん瑞季とも話し合ったりして時間割を組んだ。    そんなある日。金曜の夜だった。学科の二年生が企画した食事会、もとい飲み会に参加した。といっても一年生はそんなに飲まない。料理はおいしかった。サークルの新歓は行かないけど、学科の催しは良い。先輩に色々話を聞けるし、友達も増える。二次会もあったが、俺と瑞季は一次会で帰った。他にも帰る一年生はいた。    一旦繁華街を抜けてしまうと、街は静かだった。人気のない暗い夜道に二人きり。一駅分歩こうと瑞季が言うので、最寄り駅とは反対方向へと歩いた。    神田川の川岸に夜桜が咲き誇る。対岸にも桜が咲いていて、その後ろを電車が横切り、その奥に高層ビルが建ち並んでいる。明かりに照らされた夜桜が淡く光って幻想的。桜色が川面に映ってかすかに揺れる。花びらが一枚ひらひらと舞い落ち、瑞季の前髪を飾った。   「ぽかぽかする」    不意に瑞季が言った。   「暑いの?」 「うん。ここは涼しいな」 「俺はちょっと寒いけど。お前酒飲んだだろ」 「ああ。でもそんなにおいしくなかった」 「味わかるのか?」 「清酒だけ。他は知らない」    髪に引っ掛かった花びらを取ってやろうかどうしようか悩んだ。このままでもいいような、花びらにかこつけて触れたいような、感情の狭間で揺れていた。   「お前、今日どうだった」 「どうって?」 「普通に。俺が行こうって誘ったのに、席離れちゃったからさ。友達できた?」    瑞季は小首を傾げる。   「さぁ? あんまり喋らなかったし。同じクラスの人間が近くにいて、そいつが親切だった。隣に座ってた二年生が、おれのことを酒が強いとか言ってた」 「そんなに飲んだのかよ」 「そうでもない。うまくはなかったし」 「でもクラスに友達できたんだな、よかった。連絡先交換したりした? ラインの使い方、この前教えただろ」    実は瑞季は春休みにスマホデビューを果たした。大学からのお知らせがメールで来たりするし、ウェブ掲示板とかあるし、履修登録もネットからだし、何よりコミュニケーションツールとして必要だろうと思って購入を勧めた。SIMフリーの安いやつだけど、持ってないよりはマシだろう。   「なんか、ぐるーぷとかいうのに参加させられた。よくわからない」    やっぱりまだ使いこなせていない。俺にもいまだに家電から電話かけてくるし。ネットサーフィンなんて一度もしたことなさそうだ。   「そんなんで大丈夫か? クラス違っちゃったから心配だぜ、俺は」 「大丈夫、そのうち慣れる。クラスの人間はみんななかなか親切だ。それに――」    くるりと振り返って微笑む。無垢な笑顔だった。髪に引っ掛かっていた桜の花びらがひらりと舞い落ちる。   「おれは、お前さえいればそれでいいんだ」    桜吹雪が月明かりに照らされて白銀に光る。今夜は月夜だったのだと、今更ながら知った。    もしかしなくても、これは物凄く良い雰囲気なのでは? 最高にロマンチックじゃないか。恋人っぽいことをするには絶好の機会だ。そもそも、人気のない暗い夜道に二人きりって時点でロケーションとしては申し分なしだ。夜桜と月夜が加わってさらに完璧である。    瑞季はすぐに前に向き直って歩き始めたが、俺はもう思い切って、瑞季の手を取った。手を取って、握りしめたが、指を絡めるまではできなかった。緊張で足が震えるし、顔も見れない。手汗がやばい気がするけど手を放せない。    瑞季、今どんな顔してる? 何考えてる? 何を感じてる? 俺は過去最高にどきどきしてる。どきどきしすぎて沸騰しそう。繋いだ手から瑞季の体温を直に感じ取る。歩く度に腕や肩が触れ合う。これが恋人同士の距離か。なんて素晴らしい。    何も言わず、瑞季がぎゅっと指を絡めてくる。さっきよりも距離が縮まった。喜びで手が震えそうになり、俺もぎゅっと握り返した。俺のそれぞれの指の隙間に、瑞季のそれぞれの指が入り込む。瞬間接着剤でくっつけたみたいにぴったり密着して、たとえ放そうとしても永遠に離れないように思われた。    歩く度手指が擦れ合う。くすぐったいような気持ちいいような感覚。どきどきして、ぞくぞくする。自分の体温かそれとも瑞季のものなのかわからないけど、手が熱くてたまらない。体まで熱くなってくる。    時間よ、今こそ止まってくれ。いつまでも駅に着かないままでいい。ずっとこうして二人きり、手を繋いでいたかった。      俺の願いが聞き入れられるわけもなく、駅に近付くとおのずと通行人は増えてきて、そうすれば繋いだ手は放すしかない。    電車に乗ってからも瑞季の顔を見られず、口も利けなかった。否が応でも、さっき初めて知った瑞季の手の感触を思い出してしまう。柔らかさ、潤い、温もりを思い出し、胸が切なくなる。もう一度知りたい。感じたい。だけど今はだめだ。人に見られる。    暗い窓越しに瑞季と目が合った。鏡の中で、瑞季がそっと俺の手を触る。現実、手に瑞季の温もりを感じる。手を繋ぐなんて大したものじゃなく、指先をほんの少し重ねるだけの仕草。どきっと心臓が跳ね、頬が熱くなる。    電車内はそれほど混んでいるわけではないが、がらがらというわけでもない。乗車率八十%程度で、座席はぽつぽつ空いているけど立っている人も多い。そんな感じなので、今ここで男同士で手を繋ぐなんて悪目立ちするんじゃないかと冷や冷やする。    だけど、窓越しに瑞季が嬉しそうに笑いかけてくるから、そんな細かいことはどうでもいいやって気分になる。そうだ、どうでもいい。今ここにいるサラリーマンと今後関わりがあるわけじゃなし。大学での知り合いに見られなければ、他の人なんてどうだっていいや。    そんなことより、今は瑞季の手の感触をしっかり覚えておかなくては。一瞬一瞬を大切に味わわなければ。窓越しに俺が笑い返すと、瑞季は照れたように目を伏せた。それでも、重なった指先は離れていかない。    時間よ、今度こそ止まってくれ。いつまでも駅に着かないままでいい。乗っているのが環状線ならよかったのに。      しかし永遠なんてないのだ。電車を降りる時、自然と手は離れた。駅を出たら、すぐに別れの時が来る。瑞季は相変わらずバスではなく、徒歩でアパートまで帰るという。   「もう遅いし、送ってこうか」 「ううん。お前、遠回りになるだろ」 「俺は大丈夫だよ」 「おれだって大丈夫だ。一人で帰れる」  結局駅前で別れた。    誰もいない夜道。たった一人で自転車を漕ぎながら、俺は自分の掌をそっと鼻先に持っていく。俺の手、こんな匂いだったかな。わざわざ嗅いだことないからわからない。でも少なからず瑞季の匂いが残っているはずだと思うと飽きなかった。    玄関を開けると犬が真っ先に出迎えてくれ、左手は隠して右手だけでわしゃわしゃ撫で回した。父さんと母さんにただいまを言い、お風呂が沸いてるとか何とか言われたけど後で入るからと言って断り、手も洗わず自室に引っ込んだ。    もう一度、落ち着いて掌の匂いを嗅ぐ。瑞季に触れていたのは一貫して左手だ。匂いを嗅いでいるだけで瑞季の手の感触を思い出す。あの手に触れていた時の緊張感と高揚感まで思い出す。そうこうしているうちムラムラっときて、どうしても我慢できなくなって、自慰行為に勤しんだ。もちろん左手を使った。    その後風呂に入ったが、裸になったせいかお湯で温まったせいか知らないが、またムラムラきてしまったのでもう一発抜いた。左手でするのは慣れておらず、普段とは全く違う感覚だった。まるで誰かにされているように錯覚した。

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