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3 大学編 2 初夏‐②

 すっかり夜だ。最後に観覧車に乗る。ジェットコースターのレールの一番高いところ、よりももっと高いところまで行けるやつだ。瑞季は怖がったが、ジェットコースターとは種類が違うから全然怖くないよと押し切ってしまった。実際怖い乗り物ではないし、乗ってしまえば案外瑞季も楽しんでいるようだった。窓からの風景を熱心に眺める。   「すごい。夜でも眩しいな」 「この辺はビルが多いし、車通りも多いからな」 「あそこ、おれ達がさっきまでいたところか? あの揺れてるのは、船の乗り物かな」 「バイキングっていうんだぜ」 「ここからでも動きがよくわかる。激しいんだな。……あっちの赤い塔は何だ?」    足元に向いていた視線を水平方向に移して言う。   「東京タワーだよ。俺、階段で登ったことあるんだぜ」 「? 登ると何かあるのか?」 「えー? これ言うと大概驚かれるんだけどな。だって東京タワーだぞ。結構高いし、普通みんなエレベーターで上がっちゃうからさ」    説明しても、よくわかっていないらしい。   「あ、なぁなぁ、向こうにはスカイツリーが見えるぞ」 「すかいつりー?」 「世界一高い電波塔だよ。全体が光ってるからわかりやすい」 「それも登ったのか?」 「うん。すっげぇ高くて景色も綺麗でさ。さすがに階段じゃなくてエレベーターで行ったけど」    まもなく頂上に到着します、とアナウンスが入る。もう半分来たのか。確かに視界が開けている。   「地上百メートルだって。やっぱり高いな」 「どれくらい高い?」 「うーん、三十階建てのビルくらい」 「例えがよくわからな――」    その時、強風が吹いてゴンドラが揺れた。立って窓の外を眺めていた瑞季は、足をもつれさせて俺の隣に尻餅をつく。その衝撃でまた揺れる。片側の座席に重心が偏ったせいで、心なしかゴンドラが傾いている。   「あっ、い、いま、ゆれ……」 「大丈夫だよ。もう揺れてないから」 「で、でも……」    揺れはすぐに収まったし、そもそも大して揺れたわけでもなかったのだが、瑞季はすっかり怯え切って俺の胸に縋り付く。まるで子供が母親にするみたいに、正面から抱きついてくる。   「ちょ、そんなくっつかれたら……」 「だって……お、落っこちたらどうするんだ」 「絶対に落ちないから、だからちょっと、近いから……」    軽く押し返すが、瑞季は頑として離れない。   「や、は、離れないで、このままでいてくれ」    俺の胸にぴったり張り付いて、泣きそうな顔で見上げてくる。    ち、近い。近い近い、近すぎる。ほとんどゼロ距離じゃないか。とにかく顔が近い。っていうか瑞季ってこんなかわいかったけ。いやかわいいのは知ってるけど、それにしてもこんな、大きい瞳がうるうるして、く、唇が……唇が、艶々で……唇が……唇……    自然と体が動いていた。唇に柔らかい感触があり、薄目を開けると瑞季の真っ赤な顔が飛び込んでくる。心臓が飛び出るほど驚いて、弾かれたように唇を離してしまった。ああ、もったいない。記念すべきファーストキスが、たった一秒で終わってしまった。    瑞季は真っ赤な顔のまま、ロボットみたいにぎこちない動作で席に座り直す。お互い何も言わない。顔も見られない。気まずいような照れくさいような、尻がむずむずして居心地の悪いような。でも確かに嬉しくて、幸せで、胸がぽかぽか温かい。ほんの数秒だったけど、瑞季の唇の柔らかさ、潤い、温もりを、色鮮やかに思い返すことができる。    うつむきがちな横顔。ライトに照らされ、くっきりと陰影が浮かぶ。あの唇。今は引き締まっているあの唇に、さっき俺は触れたのだ。しかも己の唇で。生憎味はわからなかった。甘いとか甘酸っぱいとかよく言うけど、実際どうなのだろう。もう一回してみれば、わかるだろうか。    そっと髪に触れた。瑞季はピクッと肩を跳ねさせ、おずおずとこちらを見る。俺の意図を察したのか、きゅっと目を閉じて唇を尖らす。もう一回、してもいいってことだよな。今度はもっと長く、十秒くらいは繋がっていたい。そうしたら味もわかるんじゃないだろうか。    ゆっくりゆっくり、永遠とも思える時間をかけて唇を寄せる。心臓の鼓動がうるさい。全身が熱い。汗が噴き出す。緊張で頭がくらくらする。残りあと数センチ。もうすぐ重なってしまう。艶々の唇にもう一度触れてしまう。そう思った瞬間、   「はぁーい、おつかれさまでした! 足元に気を付けてお降りくださいねー」    ゴンドラの扉が開き、係のお姉さんが顔を覗かせる。他意のない笑顔で、中での様子を見られていたのかいないのかわからなかった。   「お客さーん? どうかしましたか?」 「あっ、いえ、すいません、すぐ降りるんで! ほら、さっさと行くぞ」    瑞季の手を掴み、引っ張って、逃げるようにその場を立ち去った。    掴んだ手を放すタイミングを逃し、手を繋いだまま駅まで来てしまった。改札を通り、電車に乗って、二人掛けのシートに座っても、手は繋いだままだった。だんだん汗ばんでくるけど、放せない。空いている方の手で、瑞季が自身の唇にそっと触れる。どうしようもなく胸を掻き乱される。きつく手を握りしめた。    駅に着き、電車を降りる。普段は改札を出てすぐ別れるけど、今日はそうしなかった。瑞季の手を引きながら駐輪場へ向かう。   「柊也?」    困惑したような声で瑞季が言った。   「どうしたんだ? この後、またどこか行くのか……?」 「いや、もう帰るよ。でも遠回りして帰る」    俺は自転車を出し、荷台を叩く。   「乗って」    瑞季はきょとんとしていたが、大人しく荷台にまたがった。   「こうか?」 「そう。足、そこの出っ張りに置いて。タイヤに引っ掛けないようにな」 「それで、どこ行くんだ?」 「お前ン家」    ガタンと自転車を漕ぎ出す。瑞季は慌てた様子で俺の背中にしがみつく。   「ゆっくり行くけど、しっかり掴まってろよ」 「うん……」    体に腕を回され、ぴたっと密着する。背中から直に体温が伝わる。心臓の鼓動が伝わる。甘い匂いがする。ドキドキするやらムラムラするやらで内心は大変なことだったが、運転に集中して邪念を振り払った。    こうして見れば、今夜はとても良い夜だ。晴れた空。瞬く星。空気は澄んで、若葉が香る。大丈夫、家まで送ったからって何かしようってわけじゃない。ただ少し離れ難くて、もうちょっとだけ一緒にいたかったってだけだ。無事送り届けたらさっさと帰るし。だから大丈夫。   「――柊、柊也、停まれってば」    瑞季の声がし、急ブレーキを掛けた。ぼんやりして、アパートを通り過ぎてしまった。   「ご、ごめん」 「大丈夫か? おれ、重かったか? 疲れた?」 「違うんだ。全然軽かったよ。考え事して、ぼーっとしてたから」 「やっぱり疲れてるんだろう」    来た道を歩いて戻る。どうにも格好が付かない。   「ありがとうな。ここまででいいよ」    瑞季が言ったそこはまだ門扉の前で、俺としてはせめて部屋の玄関まで行きたいのだけど、あまりがっつきすぎだと思われるのも恥ずかしく、うなずくしかなかった。   「元気がないな」 「別に、元気だよ」 「そうか?」 「ああ」 「……遊園地、楽しかったな」 「俺も。また行きたい」 「また連れてってくれ。遊園地じゃなくても、他の場所でもいい」 「水族館とか動物園とか? 他の遊園地に行くのもいいけど……」    他愛のない会話。今ここでする必要のない会話。どうせなら道中話せばよかったのに、なぜか今になって言葉が次々出てくる。   「じゃあ、えっと……気を付けて帰れよ」 「ああ。お前もな」    違う。本当に言いたいのはそんなことじゃない。胸が切なくてたまらないんだ。切なくて苦しくてたまらない。まだ帰りたくない。お前にそばにいてほしい。なのにお前はもうこちらに背を向けて、門をくぐろうとしている。   「っ、待って」    咄嗟に呼び止め、抱き寄せる。顎に手を添えて上を向かせ、優しい口づけをした。瑞季は一瞬目を見開いた。大きな瞳に灯りが映って揺れた。しかしすぐに目を閉じ、キスを受け入れた。    どれくらいの間そうしていたのだろう。数秒か、数十秒か、あるいは数分経っていたかもしれない。唇を軽く押し当て、わずかに遠ざけてはまた押し当てる。互いの唇を確かめ合うように、何度も何度も。    舌を入れたい。閉じた唇をこじ開けて、もっと奥まで入りたい。瑞季のことを深く知りたい。だけどここは一応外で、これ以上したらそれこそ我慢できなくなってしまうのはわかっている。それに、最初からディープキスなんてのは情趣がない。    そんなことを思いながら、だけど尋常でないくらい高ぶっているのもまた事実で、どきどきは最高潮であった。このまま行こうか行くまいか、行ってしまっても誰も咎めやしないだろう、などと低俗なせめぎ合いを内心で繰り広げていた時。    いきなり辺り一面が明るくなって、反射的に顔を上げた。タクシーのヘッドライトに照らされたのだ。無意識に瑞季を抱きしめ、ライトから隠れるように壁際へ押しやる。タクシーが走り去ってから改めて腕の中を見てみると、瑞季がぼんやりとこちらを見上げていた。   「ごめん、嫌だった? 急だったし、ここ外だし……」    俺が言うと瑞季ははっとして、ふるふると首を振る。   「びっくりしたけど……なんかすごく、どきどきして、し、幸せなような感じだ」    はにかんで笑い、髪の毛をくるくる弄る。   「すごく、好きだ。今のやつ……」 「……俺もだよ。すごく好き」 「ふふ、おれ達おんなじだな。……ねぇ、もう一回……」    俺の首に腕を回し、キスをねだる。愛しさが込み上げてきて胸がいっぱいになり、ここが外だとか誰かに見られるかもしれないとか関係なく、再度優しい口づけを落とした。      明日もまた来るよ、と約束を交わし、ようやく帰路に就いた。自転車で夜風を切りながら、俺は幸福な温かさに包まれていた。デートは楽しかったし、初めてキスできたのが何より嬉しい。瑞季との関係が一歩前進した。夜はまだ涼しいのに、体がぽかぽかして仕方ない。    瑞季の唇の感触を思い出す。柔らかさも温もりも思い出せるけど、結局味はよくわからなかった。強いて言うなら唾液の味なのだろうか。甘くも酸っぱくもない、レモン味でもなければイチゴミルクの味でもない。ただ、きっとあれが瑞季の味なんだろうなと思って、一人で赤くなった。これで、しばらくはおかずに困らないな……。

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