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第四話 黄昏と銀流し

「なぁ、まてって!」  執拗に喰いさがり、背が高くがっしりとした身体つきの男の太い声がミナミの背中に絡みついた。緋色や橙色の軒灯がともる酒場を横目にくぐり抜けて、追いつかれないよう足早で通いなれた道を歩く。 「アフターはしない!」 「少しでいいから、頼むって!」 「いやだ!」  街中の喧騒のなか、人目もはばからないで声を張り上げた。足の長さが違うためなのか、あっという間に追いつかれそうで、ミナミは急ぎ足で駅方面へ向かう。  あれから延長三十分ほどで桃の客、長谷川は携帯を手にして早々と帰ってしまった。桃は名残惜しげに見つめて、出入口まで長谷川を見送ると、ミナミもすぐにニット帽男から解放されてそのまま仕事を終えられた。  着替えもそこそこに店を出ると、さきほどの客が瓶の底のような分厚い眼鏡をかけて、おもむろに正体を現したのだ。  送迎はラストのメンバーだけに限られ、早上がりのミナミは電車で帰ろうとしていた矢先だった。後ろで忙しく働く店長や黒服の手を煩わせるのも心苦しく、不審な男の前を悠然と横切り、無視して歩いて、今に至る。  狭い路地に入り、汚れた色濃いブラウンのスニーカーに煙草の吸殻が食い込み、ミナミの凛々しい眉根が歪む。誰もいないことを確かめると緩慢な動きで、ぴたりと濃い影のなかで足を止めた。 「おい、話ぐらい聞けってば」 「いやだっつってんだろ! 他の奴にしろよ!」  思わず怒鳴ってから刺されてしまうと頭に浮かんだが、夕方から溜め込んでいた鬱憤のせいで吹き飛んでしまう。  はっとして踵を返し逃げようと前のめりに歩きだすが、男がフードを容赦なく掴んで成人男性であるミナミを事も無げに引っ張り上げる。  後ろに倒れ込むように宙を仰ぎ、甘い香水の匂いが鼻腔をくすぐった。頭を打つと思った瞬間、後ろから抱き支えられ、挑むような薄笑いで男が見下ろす。  眩く落ちるネオンが視界に入り、クラクションや酔っ払いの言い争いが耳を通って灰色の夜空が遠くにみえた。  ――夕方からついてない。 「聞きたいことがあるんだよ。奢ってやるから一杯だけ付き合え」  言葉のでない不幸の巡り合わせに笑いそうになった。まるで自分だけが貧乏くじをひいているような気がする。 「……一杯だけだ」 ◇◇ 「で、このオレ様がラーメン?」 「いやなら食べるな」  なにが俺様だよ、ふざけんな。  ミナミは手前に出されたラーメンの匂いに鼻を鳴らして嗅ぐ。やわらかな湯気が顔を包んで、凍ばった頬が緩んでしまう。  店は路地裏にある『来々軒』。店主が一人で営んで、五席ほどのカウンターチェアの後ろにはテーブルが二つほどある。内装は薄汚れて、壁紙は所々煙草のやにと食用油の匂いが染みついた、こじんまりとした店だ。不衛生にみえるが、味は裏切らない隠れた名店である。  客は捌けて誰もおらず、テレビの音が店内に響いて、二人は椅子が四脚ある奥のテーブル越しに向き合い座った。 「おまえ、おもしろいな。普通、どっかのバーとかに行くだろ」 「終電があるんだよ。それより要件を手短に話してくれないか?」  象牙色(ぞうげいろ)のレンゲで黄色と山吹色(やまぶきいろ)が溶け合うように澄んだスープを一口すくい、ミナミは頬が落ちそうになって目を細めた。新鮮な丸鶏を使用して魚介類を組み合わせた出汁は、空っぽの胃にしみ渡るように美味しくて舌鼓を打ってしまいそうだった。 「あのオメガの客、よく来るのか?」 (なんだ、また桃の熱狂的ファンか)  ミナミ経由で桃のプライベートを探ろうとする客はたまにいる。  男を尻目にレンゲを傾けて、ミナミはささやかな幸せを噛みしめた。 「客のことは無理。俺は喋らない」 「は? 別にいいだろ」 「だめだ。知りたかったら店に通えよ」 「なんだよ。使えねぇな」  男はガシガシと黒のニット帽をかいて、それでも苛立ちが抑えられないのか帽子をぬいで隣の空席へ投げた。 「……美味しい」  ちぢれ麺を箸で持ち上げ、一気にすする。男の様子など余所にして、数か月ぶりのラーメンの味は僥倖(ぎょうこう)が身の上に降りかかるようだ。 「ぶはっ! おまえ、ラーメン好きすぎだろ」 「そうだよ、久しぶりなんだ」 「はは、ラーメンぐらい大袈裟だな」  男が笑った瞬間、銀の髪がさらさらと揺れ動く。  アイスグリーンの碧眼に銀髪。  間違いない、あのホストだ。 「あのさ、やっぱり余計なお世話だけど、同業に顔だすなよ」 「同業でもいいだろ?」 「いや、だめだろ。おまえ、ホストだろ? 雑誌でみた」 「土日は客なんてこねぇよ」  男は不満そうな顔で小さく呟く。  大抵金曜日、仕事終わりのキャバ嬢やソープ嬢が飲んでくるのだろう。土曜日の朝まで飲んで帰り、始発で帰ると苺達が話していたのを思い出した。  つい目がいってしまうが、正直ホストに興味などない。  嵌れば金が泡のように消えてなくなり、破滅もいいところだ。銀髪に端正整った甘い顔立ち、極上の美貌。苺達がうるさいのもわかる気もしたが、いまの自分はラーメンを啜るのがこの上なく似合っている。  ミナミも彼女はいた。母親が交通事故で亡くなる大学生一年の夏まで、半年ほど付き合っていた過去がある。そんな彼女も突然の退学とともに連絡も途絶え、いまは親しい友人など誰一人残っていない。  他者への思いやりが深くとも、そんな儚い人間関係にも慣れて期待もしなくなった。とにかく働いて、金を稼ぐのに頭が一杯なのだ。それはいまでも変わらない。ホストなど遠い存在だ。 「帽子なんて被ってるけど、目立つからやめろよ。あと店にはもう来ない方がいい」 「はぁ? 客だぜ? ひどくね?」 「忠告だよ」  伸びやかな四肢を曲げ、斜め横に惜しげなく組んでいる脚をみると、あの薄暗い店でも目立つ。バレたら、苺達のいい餌食だ。 「あんた、食べないの?」 「オレは必要ない。酒飲んだし、腹一杯」  まるで王様のような態度にミナミは興味が失せた表情にかわる。  羨ましいご身分だ。こっちはおにぎり一つだけしか食べてないうえに、シャンパンの泡で胃が鉛のように重くて気持ち悪い。  酒が強くないミナミはほとんどアルコールが飲めない。指名客も細客なので、ドリンクは込みの焼酎が多く、別で注文する客などほとんどいない。  そのせいか、下支えしている売上は伸びずに、バックの給与も少ない。いつまでこの夜の仕事を続けられるのか、そんな不安が頭の隅をよぎるが、もって三年、いや二年とわかっていた。  夜の春はせいぜい二十五歳まで。それ以上は運と実力に頼るしかない。 「ご馳走様」  悶々と考えながらも、あっという間にラーメンを食べ終えた。 「はえな。ちゃんと噛んでるのかよ?」 「話が終わったんだろ? 俺は帰る」 「は? まだ時間あるだろ」  汚れた壁時計に視線を泳がせると二十二時半。ラーメンは五分で食べ終わり、終電までまだ時間があった。が、早く帰りたい。明日は日曜なので、昼の仕事はないが日向の見舞いと、夕方からまたプラチナがある。  家に帰って寝たい。土曜の夜はシャワーを浴びたら、眠りの沼にずぶすぶと沈んで昼前に目覚めるのがミナミの唯一の楽しみなのだ。  面倒くさい。とにかく、へんな奴に捕まってしまった。  顔はいいが、自分より荒れた言葉遣いと人を見下すような態度が気に食わない。ミナミは席を立ち、無造作に置かれた伝票を手にとった。 「おまえみたいに暇じゃないんだ。じゃあな」  そう言いかけて、青白い紙を掴んだ手首を掴まれた。強い力で握られ、手首に食い込んだ指先から小さな痛みが走る。 「オレが払う」 「いいよ、俺が払う」 「じゃあ、もうちょっと付き合えよ」  頑として離そうとしない男に、眉間に深い縦皺を刻んで睨みつけたが効果はなかった。  ここで絡まれて、変な噂が立つのも面倒くさい。しかも相手はホスト。揉めたら顔の知らない客にも恨まれ、光の速さで拡散されて歪んだ噂は波紋のように街へひろがる。 「いやだ。いい加減、帰りたいんだ」 「はぁ? 五分しかたってねぇのに?」 「電車がある」 「終電があるだろ?」  悪気のない声。いままで思い通りに生きてきて、人の気持ちなんて考えたことなどないのだろう。何から何まで気に入らない。  はたと気づくと、ラーメン屋の店主も訝しげな表情で突っ立ったままの二人を見ていた。呆れた顔で眺めて、争いごとは勘弁してくれという暗黙のメッセージが含まれている。 「……じゃあ場所は俺に指定させろ」  ミナミは不貞腐れた態度で諦めたように呟いた。  店を出ると、寒風極まる冷たさが漂って、薄手のジャケット越しに冷気がはいる。温まった身体もすぐに震えそうになって、長身を少し前屈みにしながら、ぼそりと並んだ男が冷めたように口をひらいた。 「さみぃな。どこいくんだ?」 「好きな場所(とこ)だよ」  看板の灯りが花のように煌めき、宝石が光彩を放って輝き浮かぶホテル街の裏へ、ミナミは足を運んだ。

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