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第六話 毒気を当てられる

「は……」  なんと声をかければいいのか浮かばない。そんな世界に足を突っ込んではいるが、自分とは遥か遠い場所だと思っていた。 「は?」 「……やっぱりなんでもない」 「なんだよ、いえよ」  ミナミはゆっくりと首を横に振った。これ以上このホストと関わりを持ちたくない。他の指名客の名前なんて出したら、駄目だ。それに嬢の死は多いが、嬢に入れ込んで自殺するホストなんて聞いたことがない。気を許しても、馬鹿をみるのは自分だ。 「悪い。おれ、帰るわ」 「ちっ、終電かよ。なぁ、教えろよ」 「おしえる? なにを?」  立ち上がろうとすると手首を掴まれ、ミナミは動きを封じ込められる。好意のこもった微笑を向けられるが、ミナミの顔が引きつった。 「番号だよ」 「いやだ」  さも当然という誘いを謝絶すると、男は怪訝そうな表情を浮かべた。 「は? なんで? 別にいいだろ」 「おまえとは、これ以上付き合いたくない」  声を尖らすと、男は闇討ちを食ったような眼をする。いままで言われたことがないという顔だ。相手には困っていないという余裕すら感じられ、むかむかと腹が立った。 「へぇ、おまえ面白いな。直接、そんなこと言うやつなんて、初めて見たわ。色気もねぇし、喋らねぇし、イイダチになれそうだ」 「ダチ?」  その言葉にミナミの眉がぴくりと動く。 「そう、友達(ダチ)。仲良くしようぜ」 「断る。勝手に決めるな。おまえ、髪の毛も長いし目立つんだよ」  打てば響くような返答に、不機嫌きわまりない声で答える。不愉快を通り越して、憤りすら覚えてしまう態度だ。  くそっ! はやく帰りたい。  目の前の壁時計に目を向けると終電の二十分前だ。思いっきり手を払おうとしたが、頑として離そうとしない。 「嫌なら、店に通っておまえをラストまで指名する」 「い、やだ。そんなやつ出禁にする」 「それは困るな。でもオレ、金持ってるから太客になれるぜ?」  そんなの友達でもないだろ……! と怒鳴りつけようとしたときだ。 「お客さん……、あのね、喧嘩ならヨソ行ってくれる?」  萎びたおっさんが機嫌悪そうに背後から声をかけてきた。見上げると周囲にいた客の視線までもこちらへ注いでいる。 「……すみません」  ミナミは腕を掴まれまま、口をすぼめるようにして謝った。店員は不愉快そうに眉をひそめて去っていった。 「ほーら怒られた。でも、連絡先を教えるまで離さないからな」 「……っ、くそがっ!」  呻くように呟いて、ミナミはスマホを取り出した。    ◇◇◇◇  終電に飛び込んで、最寄り駅から徒歩二十分。ごちゃごちゃと住宅が密集するなかで、木造の小さなアパートが見えた。  マッチ箱を積み上げたような部屋の家賃は五万五千円。一階左端に位置する六畳一間。築二十五年でユニットバスつき。エアコンは壊れて、五千円ほど値引きしてもらっている。  母親が亡くなってから住んでいた県営住宅を出て、なんとか見つけた。ずっとここで一人わびしく、慎ましい生活を続けている。勿論、弟の日向は一度もここに訪れたことはない。 「建て替え?」  郵便受けから白い紙をみつけて、ミナミは目を疑った。よりにもよって、マンションへ建て替えをするようだ。期限は半年後。立ち退き料が家賃六か月分支払うという文面が含まれている。  保証人もいないのに、新しいアパートを見つけるのは口で言うほど簡単ではない。かといって、あがいてもしょうがない。新しいところを探さないといけない。  最悪だ。  力なく玄関の扉をひらくと、部屋には闇が落ちて、朝起きたばかりの蒲団が目に入る。家具は蒲団とちゃぶ台、本棚だけだ。さびついたシンクの中には散らばった皿が重ねられ、蛇口から「ポタポタ」と水滴が落ちていた。  アッシュグレイのバックを玄関ともいえる場所へ下ろして、靴を脱いで右手のハンガーラックに上着を掛けた。  疲れすぎて、何も考えられない。出口の見えない悩みが疲労のせいで雲散霧消していく。嵩んでいく医療費。肺腑(はいふ)を抉らるような仕事。部屋だって敷金礼金が必要になる。自分の生活だってろくに賄える気がしない。ただ毎日を浮草のように流れていくだけだ。  ぼんやりと汚れた壁を眺めると、ぶるぶるとズボンのポケットが振動した。スマホを取ると、知らない番号が表示されていた。 「……はい」 『着いたか?』 「……」 『オレだよ。オレ。明日、どこ食いに行く?』  新手の詐欺のような意味不明の会話にミナミの顔がみるみるうちに歪んだ。 「は?」  ……あの銀髪野郎かよ。何言ってんだ、このアホは。  このまま電話を切って、はやくシャワーを浴びたい。そして蒲団にくるまって眠りたい。 『同伴頼むっていったろ?』 「同伴? ……もう来るなよ」  男の舌打ちが聞こえ、後ろで脳天を叩くような五月蝿い音楽が聞こえる。どうやらまだ帰ってないようだ。 『オレの勝手だろ』 「おまえの勝手なんて知るか。切るぞ」 『まてまて、あいつが来るかもしれないだろ。日曜だしバレやしねぇよ。とにかく、なに食いたいのか考えとけよ。じゃあな』 「……っ!」  言い返そうとして、瞬く間に電話が切れた。うやむやにしてなんとか誤魔化してなかったことにしたい。 (すっぽかせば何とかなるだろう……)  そう思った途端、ぱっと通知が光った。四角いメッセ画面が脅しのように映る。 『伊勢島屋の前でまってろ。時間は午後五時。逃げんなよ。逃げたら直接店に行って大声でおまえを指名してやる』  スマホの画面片手にミナミは溜息を洩らす。まったくもって変な奴に目をつけられた。 「一体なんなんだよ。くそがっ……!」  通知を消さずに敷きっぱなしの平べったい蒲団に投げつけた。  なんなんだ、あいつ!  多頭飼いなんて、存在するわけがない。馬鹿馬鹿しい。絶対に色恋営業の一環に過ぎない。ホストの方が心理的に上になり、客を支配しようとする「オラオラ営業」の一種だ。お店に誘うのもお願いではなく、いつしか命令になってくる。時に強い言葉で、時に優しくといったテクニックで翻弄してくるはずだ。  すぐになにもないことに気づいて、他の店に移るだろう。その為にも餌食にならないように用心に用心を重ねた方がいい。夜の仕事は大流行したウィルスのせいでどの店も閑古鳥が鳴く。生き馬の目を抜く競争のなか、あの手この手で客を集客しているのはどこも変わらない。  ミナミはのろのろと重たい足取りで浴室にいく。汗ばんだ下着を脱いで、熱いシャワーを勢いよく出した。とにかく面倒事は避けたい。ホストなんてもってのほかだ。ありえない。  ガシガシと石鹸を泡立てて、はたと容姿が鏡に映った。可もなく不可もないベータの身体。胸には筋肉とキラリとピアスがあるだけ。  色恋はまずないな。  相手はホスト。頭の中は金しかない同類だ。  ミナミは頭から湯をかぶり、うだつが上がらない夜をざっと洗い流した。

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