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第九話 狼狽と病葉

「お、起きれた……」  あれから一週間経つ。朝四時起床。なんとか起きることができた。  バッティングセンターで打ち終えると、次の日から朝早くに目覚めて、仕事へ向かい、弟の見舞いに顔をだすという毎日に変化はない。  ミナミはがばりと体を起こし、蒲団を畳んで隅によせた。冷え冷えとした水で顔を洗って、タオルで顔を拭う。  ……なんか、身体がだるいな。  ぼんやりした顔で台所に立って、弁当片手に大根の煮物などを詰めていく。平日の夜に暇さえあれば作り置きをストックし、味はそこそこおいしいと自負している。冷凍した米も解凍して、慣れた手つきでさっと弁当を完成させた。  横目で届いた段ボールが見えたが、まだひらいてもいない。チノパンにアウターなど入っているのはわかっている。考える暇もなく、いつものセーターとジーンズを穿いて、弁当をショルダーバックに入れて、そそくさと玄関を出た。  外はすでに朝の気配が闇の中に漂い始めていた。  もう冬か……。  すっかり葉を落とした櫟や樫の木が冬の到来を思わせた。冷たい朝の空気が頬を刺して道行く人も少ない。それでも駅にはちらほらと乗客が列をなして、新聞を広げたり、携帯に視線を落としたりと下を向いている。  人身事故にあったときは地下鉄でも通えるので利便性がよいターミナル駅。すれ違うサラリーマンのゴム底の靴音を耳にしながら、そっと後ろに並んだ。ミナミはポケットから、スマホを取りだす。  あいつ、ミュートしてるのに諦めないな。 『起きたか? ちゃんと食べろよ~』、『こんどフレンチ食おうぜ♪』  前よりはひどくないが、一日に二~三通は受信している。無視しても送ってくるので、一気に既読して通知を消した。いつの間にか、ホームドアが開いて、乗客が流れるように乗り込んであとに続く。  そのままゆっくりと速度を上げて、オレンジ色の電車に揺られながら三十分ほど運ばれる。まばらな人ごみの車内で、ミナミは見えてくる白い墓石のようなビル街に視線を泳がせた。    アナウンスが電車の到着を告げると、足早に降りて駅から十分ほど歩く。  「帝都美装」という看板を掲げた五階建てのビルの自動ドアを抜け、ミナミはちいさなエレベーターに乗った。すぐにポンと鳴り響いて、行き先階のボタンを押した。  帝都美装は小規模オフィスから超高層マンションまであらゆる建物の清掃サービスをてがける清掃会社だ。創立二十年となる中堅会社だが、最近ではニーズに対応したビル管理やメンテナンスプランまで手掛けて好評を博している。  たまに突発的なスポット清掃などで忙しいが、入社してみると福利厚生も整っており、離職率も低い、隠れたホワイト企業だった。  すぐに四階につくと更衣室のノブをあけて、縦長のロッカーに囲まれた狭い隙間で手早くブルーの作業着に袖をとおす。  ――念の為、マスクはしておくか。  身だしなみを整えると、左手横にある階段を駆け足で上がり、六階の事務所に顔を出した。 「大宮くん、おはよ〜。早朝作業ってやあね。しっかし、さむいわ~!」 「田中さん、おはようございます」 「あらま、風邪? マスクなんて珍しいわね」  すぐに愛想のよい田中が声をかけてきてくれ、顔をまじまじと見やる。二人の息子が成人して、長い子育てから解放されたと同時に社員として再雇用されたベテランだ。 「あ、いや。ちょっとだるくて……」 「大丈夫? きょうの現場、結構大きなビルらしいわよ」 「そうなんですね。そこまで具合が悪いわけでもないので大丈夫です」  少ない人数で仕事をまわしているので、人が足りないときはアルバイトを呼ぶか、スポット清掃を増やして様子をみるしかない。田中はぴくりと細い眉を動かして、ふくよかな顔に笑みを浮かべた。 「そう? なにかあったら言うのよ? 遠慮しちゃダメよ」 「いえ、俺こそ心配かけてすみません」  ミナミは深々と頭を下げた。大学を中退して、身寄りがないミナミを田中は息子のように面倒を見てくれている。この会社に入社してから人間関係には恵まれており、辞める理由なんてどこにもない。 「そういえば、きょうは早朝作業だけど、お偉いさんが見回りにくるみたい。粗相のないように気をつけてね」 「わかりました。いつもありがとうございます」 「いいのよ〜! うちの息子より真面目なんだから、あんまり無理しちゃだめよ!」  田中がバンバンと背中を威勢よく叩くので、勢いで前にこけそうになった。五十後半の田中は歳に似合わず元気で優しいひとだ。  そのまま一緒に必要な洗剤や道具を確認して、すぐに現場へ向かった。  ビルに到着すると、そこには二十階以上もある摩天楼のような建物が(そび)え立っていた。入館手続きをしてセキュリティカードを翳して、決められた場所を仕様にそって、手分けしながら作業をし始めた。    早朝作業を黙々とすすめ、指定されたワックス掛けが終わり、ミナミは集合場所へ戻ろうとした、その時だ。不意に背中越しに声をかけられた。 「あれ? ミナミくん?」 「げ、長谷川さん」 「はは、そんな、虫みたいな扱いする? というか、きみ、昼も働いていたの?」  振り返ると長谷川が仕立てのよいスーツに身を包んで立っている。サイズがぴったりと合った、茶色でストライプが入ったスーツ。その下にグレーと白の細いストライプのクリケットシャツという襟と袖口が真っ白で、身頃に色柄があるものを上手く合わせて着こなしていた。 「……そうです」 「僕、ここで働いてるんだ。よろしくね」 「はぁ……」  ここといっても、複数の企業が入っている。ITからインフラまで種別は様々だ。スーツのせいか、かっちりと凛々しく、色気が漂う長谷川にミナミは怪訝な顔つきで警戒する。が、本人は特段気にするそぶりもない。 「あ、そうだ。ちょっと先だけど、お昼一緒に食べない?」 「弁当があるので、遠慮しておきます」 「残念だな。じゃあ、また今度誘うよ」  長谷川は笑みを浮かべ、背を向けてその場を去った。病院で会ったときより打って変わって、顔色がよさそうだ。それでも桃の客でもあるので、慎重にならざるを得ない。指名替えなんてされたら最悪だ。  桃、ヒート終わったのかな。  LINELINEでメッセージを送ったが、既読だけついて返信はない。普段ならスタンプもたくさん送ってくるのに珍しい。  なんにもなければ、いいんだけど。  いや、その前に通帳を記帳して、夕方からまたプラチナだ。ミナミは首を振って、気分を取り直す。昼が終わったら、夜。それが終わったら、日向の見舞い。そしてまたプラチナに仕事。その繰り返しは変わらない。 ◇◇◇◇ 「なぁ、なんかおまえ熱っぽくないか?」 「は?」  はっとして顔を上げる。気づくと、仕事を終えて、プラチナもそろそろ退勤時間がせまっていた。  ……ヤバイ、全然記憶がなかった。  ひたりと頰に手をあてられて、冷たい感触に身体がびくつく。男は自分の額にも手をあてがい体温を比べている。  仕事を終えるのを見計らったように電話がかかってきて、場所を聞かれて、待ち伏せするように改札口の前にいた。  帰宅途中の乗客の視線を集めるかのように奴はミナミを見つけると手を振る。ニット帽を目深まで被るが、黒いダウンジャケットにチャコールグレーのスラックス。:ソリッド(単一色)なダークカラーのなかに白のパーカーを合わせて、ぱっと華やかな服装は明らかに目立っていた。  改札から出てきた、げんなりしてるミナミの手を引いて、男は悠然とした足取りで華やかな服飾店へ向かった。   煌々と照明がついた個室に通され、時計、財布などの小物が次々と提示され、あれやこれやと文句を言いながら目を皿のようにして細部まで見入る男の横顔をミナミはぼうっと眺めていた。  その後は時間が迫っていたので、立ち食いそばで腹ごしらえをし、文句をいう男を尻目に麺をすすってからプラチナへ直行した。  店の入り口前で体温を測ったときは七度二分。七度五分になればアウトだが、平熱が高いミナミはさほど気にしなかった。 「やっぱ、熱あるんじゃね?」 「微熱だよ。つうか、おまえが帰れ」 「ひっど! どーせ、電車で帰ろうとするんだろ? タクシー代渡すぜ?」  男は心配そうに顔を近づけてミナミの顔を覗く。ぐっと端正な顔立ちをさらに近寄せて、薄い唇が触れそうになるのをさけた。 「必要ない」 「じゃあ、このまま終わったら一緒にかえろうぜ」 「それも必要ない。電車でかえる」  喉も痛くないし、咳もでてない。体温がほんの少し熱いだけだ。冷たい水でも飲んでいたら落ち着く。疲れているだけで、寝ればすぐに治るはずだ。 「結構、頑固だよなぁ。ま、いいけどさ。んで、きょうもあの()、来ないけど休み?」 「ああ、休み」  めったに休まない桃は一週間以上休んでいた。連絡はあったらしく、身内の不幸で遠方の実家へ帰省しているらしい。 「ふーん、長いな。さて、そろそろ終わろうかな。ミナミちゃん、チェック!」 「ああ、いま黒服をよぶ」  手を上げて、二本の指を交差させてバツを真似ると伝票を突き付けられる。ちらりと円マークに並ぶ数字がみえ、その金額は三十万だった。  きょうもキスひとつなく、酒だけ口にして、好きな食べ物と嫌いな食べ物を言い当てをしておわった。どうやらシイタケが苦手らしい。全くもって役に立たない知識だ。  カードで支払いを終えた男を出口まで見送り、ミナミはそのまませまい更衣室で袖を通しながら男のことを考えた。壁一面に張られた鏡に色気のない自分が映る。  あいつ、本当になにしに来てんだ……。  シャンパンにウーロン茶、それに同伴。顔をみた瞬間にダサい服また着てんなと怒られる始末。一緒にいても疲れてしまう。さわるわけでもなく、話すだけ。ここはキャバでもなく、セクキャバでどうしても気が引けてしまう。  溜め息をついて衣装を脱いでいると、誰かが室内に入ってくる気配を感じた。 「ねぇ、あの客、ミナミの常連?」 「は?」 「ゆずってよ」  振り返ると、ナンバーの苺だった。珍しく土曜出勤らしく、気だるそうに壁に寄りかかっている。  しまった。見られたか? いや、あいつニット帽を被っていた。  ひやりと嫌な汗が頬を伝う。同業者を客にしていることをバレたくない。ましてや、自分のお気に入りのホストだ。相手にしていると知れたら面倒だ。 「スポットの客だよ。たまたま来たんだ」 「ふーん。なら次は、僕に指名するようにいってね?」  目を細めて、苺は皮肉っぽい笑いを浮かべる。目ざとく気づいたのか、恐らくボトルを下ろしているところを見られた。金払いのいい客はどこでも引く手あまただ。  ミナミは上着を羽織って、着ていたものをカゴに投げ込んでバックを手に取った。 「……勝手にしろ。じゃ、お疲れ様」 「じゃあね、ベータくん。あ、風邪と貧乏は移さないでね?」  ミナミは舌打ちをしながら、マスクをつけて冷笑を浮かべる苺の前を通り過ぎた。  クソ! あいつのせいで絡まれるのはごめんだ! と、もう二度と会いたくないと思ったのもつかの間、ビルを出ると影が伸びてすぐに腕をつかまれた。 「ミナミ!」 「な、なんだよ!?」  無理矢理身体を引き寄せられ、横づけされていた車へ押し込まれた。 「タクシーでかえっぞ! おまえ、やっぱり身体熱すぎ。風邪だ」 「はぁ? つうか、勝手にタクシーにおしこむなっ! 拉致監禁だぞ!」 「うるせえ。熱あるくせに、黙ってろ。ほら、ポカリやっから、飲んで黙ってろ!」  ミナミの頬に冷たいレジ袋を押しつけ、男も後部座席に乗り込んだのを合図に、エンジン音が心地よく鳴動した。 「なんでおまえも乗るんだよ!」 「どうせ、すぐに降りて電車で帰るつもりだろ。おじさん、荻窪まで」 「な、なんで俺の家を知ってんだよ!」  ちっと男は舌打ちをして、ミナミに視線を落とす。 「配送票でみたんだよ」 「はあああああ?」  唖然となりながらも、タクシーは発進して絶え間なく自動車が行き交う大動脈へとスピードを増して疾走した。

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