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第十一話 快男児の混乱
濡れた唇をはなすと、ちいさく開いた口の端から一雫の水が流れ落ちた。チュッと音を出して吸いとってやると、ピクンと微かに身体が動いて、赤い灯影が心細げに揺れる。
「ん……」
低くこもった声に、ユージは弾かれたように体を離した。
……しまった、病人だった。
驚くほど柔らかな感触の唇になにをしようとしたのか、一瞬我を忘れてしまっていた。ユージはわけが分からず狼狽える。ペットボトルを一口飲んで、そのまま横になり、腕を組んで瞼を閉じて何とか気持ちを落ち着かせようとした。
……気のせいだ。絶対そうにきまってる。けど……。
ミナミの横顔に視線がちらちらと動いてしまい、もどかしさに背中がムズムズしてしまう。
くそ、寝れねぇじゃねぇか!
時計の針がチクタクと時を矢のように進んで、耳の奥に響いてくる。静かで落ち着いた寝室のなか、ユージは居心地悪そうにそわそわと眠りが訪れるのを待った。
◇◇◇◇
「……おい、くそホスト」
「いっでぇっ!!」
「どういうことか、説明しろ」
ユージが目を覚ますと同時に、額をつよく指で弾かれて叩き起こされた。
あまりの痛さに顔をしかめたが、ミナミはじろりと噛みつきそうな目でこちらを睨んで見下ろしている。その顔は普段みる憮然たる面持ちへ戻っていた。ずきずきと脈打つ痛みを抑えながら、まぶしげに目を細める。
しばらく目が冴えて寝つけなかったが、いつの間にかうとうとと夢路に入っていた。普段でも眠りは浅いほうなのに、睡気が穏やかにやってきて、深い闇に沈んでいた感覚だった。
カーテンを閉じているせいか、まだあたりは仄暗く、橙色の灯りがミナミの顔の輪郭をくっきりと照らす。
「説明って。もう熱はないか?」
のんびりした動作で額に手をあてようと伸ばすと、間髪入れずにパンと風船が弾けたような音を響かせる。ミナミは唇をしっかりと結んで閉じて、眉を寄せながら睨んでいた。
「熱は下がった。それより、ここはどこだ? 意識のないままホテルに連れ込むなんてクソだな」
「ホテルじゃねぇよ、おれのいえ。晴天白日だ」
「は?」
「セイテンハクジツ。後ろめたいことはしてねぇよ」
赤くなった手の甲をひらひらと振って、ユージはのそりと身体を起こした。ミナミの顔色は幾分かよく、着替えさせたシャツはサイズが大きいのか、右肩がズレてむき出しになっている。キラリと光るものがみえて、視線をさっと横へそらした。ぶつかった先に置き時計が時を刻んでいたが、まだ午前五時。普段ならまだ寝ているか、帰宅している時間だ。
「ここ、オレのマンション。おまえのアパートまでタクシーで行ったんだけど、暖房もねぇし、ガタガタ震えるし、医者よんで薬を飲ましたんだよ」
「……っ、ほんとかよ」
ミナミは苦渋に満ちた表情で、あたりをきょろきょろと見回す。薬とペットボトルが目に入ったのかぴたりと動きを止めた。
「ほんとだよ。地味で平凡なおまえを看病してやっただけでも感謝しろ。あと、部屋、どうすんだ」
「……ヘヤ?」
「立ち退きだよ。アパートの知らせを見たんだけど」
溜息まじりにいうと、みるみるうちにミナミは赤くなり、顔を歪ませて嫌なものをみる目つきにかわった。昨夜はしおらしい顔をしていたくせに、なんて変わりようなのだと、きつく奥歯を噛みしめてしまう。
「……ギリギリまで考える」
「はぁ? 通知書がきたんだぜ? 弁護士を紹介してやるから、立ち退き料ぐらいすぐに交渉しろよ。行くところないんなら、助けてやろうか?」
「たすける?」
「そう。提案なんだけど、ここに住んだらどうだ?」
「……ここにすむ? はっ、馬鹿も休み休み言え」
ミナミは苦虫を嚙み潰したような顔で吐き捨てた。その顔にむっとして、ユージは鋭い口調で話を続ける。
「馬鹿じゃねぇよ。どっちみち出なきゃいけねぇんだ。早く出て、新しいところ見つければいいじゃねぇか」
「出来るなら、そうしているよ」
「つまり、できないんだろ? どのみち、おまえは弟の医療費で大変なんだ。手なんてださねぇし、へんなプライドなんて捨てて、素直に従ったらどうだ」
一瞬、昨夜の情事が目に浮かび上がったが、薬を飲ませただけと胸の奥へと押し込んだ。
「断る」
「は?」
「……おまえの世話になりたくない」
ミナミは首を横に振った。嬉しそうな顔をするかと思ったが、にべもなく断られてしまった。こんなの初めてだ。家に行きたいという客や友人は大勢いるのに、手厳しく退けられるなんて……。ユージは腑に落ちない顔で問い直す。
「ここに住めば家賃代は浮くだろ? いまアパートを出たら、三十万ぐらいは入ってくるんだぜ?」
まっとうな正論な吐いたつもりだった。しかも手元に現金がはいってくる。
「でも、いやだ」
「強情だな。なら食費代三万払うから、メシ作ってよ。朝、昼だけでもいいぜ」
「……サンマン」
その数字にミナミの喉がごくりと動いたのをユージは見逃さなかった。どっちみち金に困っているのは知っている。
「食材は別で用意させるし、お前のは賄いとしてつける。メシもついてカネもでて、光熱費もナシ。どうだ、いいだろ?」
「……カネでつろうとするな」
「あー、おまえ、ほんっとう頭が固いな! カネの為にカラダを売っている奴がよくいうよ!」
ぶっきらぼうな物言いに、つい意地悪く言い返してしまった。慌てて目を向けると、ミナミは拳をぎゅっと丸めて、怒りにふるえる唇を血が出そうなほど噛みしめていた。
ヤバイ。
はっとユージは我に返った。そんな顔をさせたいわけじゃない。
「……っ」
「わり……」
「やっぱりクソだな。……そうだな、そこまで言うなら住んでやるよ。金も貰う。ただし、おまえとはこれ以上仲を深めるつもりはない。部屋を見つけたら、すぐに出て行く。軽蔑するならすればいい」
ミナミは顔面を紅潮させて、全身をわななかせてちいさく呟いた。
「……ふーん、なら決まりだな。ミナミちゃん、約束にキスしてくんない?」
「は?」
「キスだよ。キス。さっき殴られた分と助けたお返し。それぐらい何度も店でやってるだろ?」
ついつい、馬鹿にした言い方をしてしまう。絶対に乗らないだろうと高を括っていた。ミナミは少し考えような表情を浮かべて、天井に視線を泳がせ、
「……わかった」
と言って、ユージの頭を掴んで引き寄せた。下唇を舐めて湿らせて、甘噛みされたかとおもうと吸われ、柔らかな舌が侵入して甘さが溶けていく。
「んっ……」
くぐもった声がユージの鼻から抜けると、ぐぐっとさらに濃厚なものへと鋭敏な舌先を深めてくる。互いの舌を絡ませて、水音がぴちゃぴちゃと耳を打った。ぴくりと頭が動くと、ミナミはにやりと薄ら笑いを浮かべた。
「……ホストもかわいい声をだすんだな」
「っ、な、なッ…………!」
ちゅっと音を立てながら口の端を吸われ、身体を離された。するりと長躯から抜け出され、ユージはベッドにへなへなと沈んだ。心臓はばくばくと破裂しそうなぐらい波打ち、痺れるような舌づかいと唇のせいで、下半身は熱く反応してしまっていた。
「じゃあな」
「……っ、どこ行くんだよ!」
「仕事に決まってるだろ」
ミナミはそう言い残し、べっと舌をだして中指を立てた。そのまま部屋を出ようとするので、急いで腕をつかんで引き止める。
「仕事は休め」
「指図するな。仕事は行く」
「目にクマがまだあるだろうが! 今日は休んで、寝てろ。なんなら、荷物はオレが取りに行くから鍵をかせ!」
なんだかんだ問答を繰り返して、兄の一久に連絡して問き伏せてもらい、ミナミを休ませることに成功した。
◇◇
「ケンジ、部屋の片付けなんて急に悪かったな」
「気にしないで下さい、引越しとか慣れてるんで」
大学の後輩であり、ユージはおなじクラブで働く木戸 健司 に連絡を取った。健司はミナミと同じベータだ。
背も高く、愛想もよく、顔も丁寧なつくりをして客からの気受けもよい。一つ年下なので、酒を飲まずに週一で働いて、昼のバイトを両立しながら、母親と一緒に幼い弟妹の為に家計を支えているらしい。よくユージに懐いてくれ、連絡するとすぐに二つ返事で承知してくれた。ちなみに源氏名は苗字がない「ケン」で通っている。
二人はミナミの部屋を空にして、掃除をしていた。置いている物は少なく、窓は汚れてみすぼらしいカーテンは捨てて、健司の提案でちゃぶ台などの家具はレンタルルームに一先ず預けておくことにした。
「それで、お願いしていた件どうですか?」
「わりぃ。全然だめだ。店までは掴んだんだけど、会ってない」
「……そうですか」
健司はしゅんと体を丸ませて、疲れたような眼差しで天井をみた。身近なベータは少なく、いつも健司と一緒なので初めてミナミと出会ったときに思わず舌打ちをしてしまった記憶が蘇る。
「探すのはやめてねぇから、続けるよ」
「いや、もういいです。諦めます」
「店のやつに知り合いができたから、おまえが探している幼馴染の情報が入ったらすぐに伝えるよ。そう気落ちすんなって、元気だせよ」
健司の背中を軽く叩くが、困った顔で返された。背後には必要なくなった汚れた絨毯などが丸められてまとめられている。
「……先輩、なんだか嬉しそうですね」
「え!? あ!? そ、そうか!?」
「ええ、分かります。会ったときから浮足だっているなって思ってました。それに早く帰りたそうだったし……。あとは俺がやっておきますから、もう帰っていいですよ。あ、そうそう、最近ユージさん、ホスラバで本カノができたんじゃないかって書かれてたんで、気をつけてくださいね。あと、夕方から同伴入ってますから、遅刻しないでください」
「へいへい、わぁってるよ」
健司は憂いを帯びた表情をむけるが、ユージはそんな心配をよそに手を振ってアパートを後にした。
……あいつ、アイスとか食べるのか? あと食べもんなんか買っていくか。
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