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第十四話 さすれば恋煩い

「いっで!」 「時間だ。会計して帰れ」 「……延長する」  肩にひりひりとした疼痛を覚えながらも、小さな声で呟くとミナミは冷ややかな敵意のある目つきを向けて席を立とうとした。照明が淡黄色(たんこういろ)の優しい色合いへかわり、ユージは慌ててミナミの手首を掴むがじろりと睨まれてしまう。 「あっそ。なら勝手にしろ。俺は仕事があるから終わりなんだ。じゃあな」 「ま、まてよ! おまえを延長すんだよ!」  無理やり手首を引き寄せて座らせるが、ミナミは眉をよせて不愉快そうな表情を浮かべた。周囲では嬢が席を離れたり、会話に花が咲きグラスの音がぶつかったりと酔客がさんざめく。 「だめだ。明日七時には仕事へ向かわなければならないし、おまえのママゴトにはつき合ってられないんだ」 「なら、一緒に帰る。会計するからチェックすればいいんだろ」 「……そうしてくれ」  濡れた唇の間から深々とため息をつかれ、ユージは弾かれたように支払いを済ませた。その日は初めて一番安い金額となった。 ◇◇  鋼鉄色(はがねいろ)の空が沈むなか、二人はタクシーに揺られ、ほどなくしてマンションへ到着した。玄関を抜けると、ミナミはすぐさまシャワーを浴びに上がり込んだ。まだ酔いが覚めないユージは寝室へ歩を運び、上着をベッドの横に脱ぎ捨てて長い脚を投げだしてスプリングを軋ませながら横たわる。  オレ、なんでキスしたんだろ……。  寝室は温かみある緋醒色(ひさめいろ)に灯され、窓から南東の空なのか、オリオン座の四角形の左上で赤く輝いている星「ベテルギウス」がちらりと浮かんでいた。ユージの思考がチカチカと点滅を繰り返してはみえない線を引いていく。  唇、やっぱり柔らかかったな。いや、まて。柔らかいってなんだよ。相手はミナミだぜ?  下唇の形が網膜に浮かぶと、意味もなく心臓の鼓動が激しさを増す。ドキドキってなんなんだよっと突っ込むが、これが恋というものなのだろうか。そんなわけあるはずがない。  それでも、あの唇が脳裏にはりついて忘れられない。小刻みに震えて、甘い吐息が鼻にかかり肩を噛まれたのに嫌な気持ちがしない。  いやいやいや、仕事だし。あいつはああいう風に体で稼いでいるんだ。  オメガのようなフェロモンもない、さらに華奢でもない。ベータだ。平凡でどこにでも存在するおとこ。好きとかない。いや、ない。ないないない 「ありえない」 「あ?」 「うお! いたのかよ!」 「飲みすぎだ、アホ」  頬に冷えたペットボトルがひやりと当たる。タオルを首にまいたミナミが仁王のようなしかめっ面をして傍らに立っていた。 「……水かよ」 「どうした、なんかあったか?」 「べつに……」  ミナミの肌に艶やかな光がみえ、湯上りの石鹸の匂いが漂う。  かわ……。  ユージは上半身を起こすが、すぐさま視線をそらすように俯いてしまう。フェロモンなんてないのに、ミナミが真綿のように柔らかな匂いを放ち、目が熱っぽい輝きを帯びてみえた。  かわいいと言えず、誤魔化したツケがいまさらとなって白い湯気となってゆらゆらと立ちのぼりそうだった。なんだよ、この気持ちはと横にかぶりを振る自分に薄笑いが響いた。 「はは、犬かよ。首なんて振って」 「……あのさ、おまえ、嫌じゃねぇの?」 「は?」 「……仕事」 「……」  しまった。つい、禁句を口にしてしまった。誰もが好きで夜の街へ働くわけがない。そんなものは百も承知だ。言葉を慎重に選ぶべきだった。    やばい、怒らせたと瞬時にユージは顔を上げた。ミナミは怒りをあらわにすることもなく、鮫が描かれた豆茶がら色のスウェットを着て、タオルで濡れた髪の毛をごしごしと拭いて嘲笑を口辺に浮かべていた。 「……ごめ」 「慣れた。なんならソープでもいいと思ってるよ」  ソープなら本番ありだが、ベータは使い捨て同然だ。時給もオメガより低く、後孔が濡れないので予めほぐしてからローションを注入してプラグをいれるという笑い話を耳にしたことがある。 「そ、それはだめだ。おまえ、なんでそこまで働こうとするんだよ」 「カネだよ。前にも言ったろ? 弟の体調がかんばしくないんだ」 「……そんなにやべぇのかよ」  ミナミは首を横に振って、タオルを椅子に掛け、口の端を少しあげる。 「よかったら働いてない。そもそもお前みたいな奴と一緒に住んでいない」  おまえという言葉にカッと胸が熱くなった。 「じゃあ、オレとつき合えっていったらおまえはそうするのかよ」 「はは、カネさえ払ってくれたらそうするかもな」  乾いた笑いが口からでて消える。  ユージはペットボトルのキャップをまわして、一口含んで喉を湿らせた。金さえあればコイツはなんでもするのだろうか。ほとんど怒りといっていいほどの苛立ちがぐつぐつと煮えて、手にした容器が凹んだ。 「……じゃあつき合えよ」 「は?」 「オレとつき合って欲しい」 「なに言ってんだよ、アホ。酔ってしゃべるな」 「酔いなんて()めた。十万だすからつき合えよ」  勢いだった。頭からそのまま言葉をだしている感覚がした。 「ベータならその値段ってわけか。俺はもう寝る。おまえもシャワー浴びてねろ」 「なら月百万出す。それなら文句言わないだろ!」 「勝手にしろ。おやすみ」  ミナミは手を振って、すたすたと目の前を歩いてどかりとベッドへ背を向けて横になってすぐに寝息を立て始めた。相手にもしてくれない。そんな態度だった。だが、アルコールと眠気で判断が鈍くなった頭でユージは思った。  つき合った!  勝手にしろよ、という一言でやる気に満ちてしまっていた。 ◇◇ 「ぼけっとして、どうした?」  ユージの箸からぽろりとシャケが落ちた。次の日、二日酔いのユージは慌てて飛び起きて、ミナミと朝食をとった。首を傾げながら、初めてのパートナーが心配そうにのぞいてくる。 「な、なんでもねぇよ。もう行くのか?」 「ああ、弁当は冷蔵庫にいれたからそれ食べてくれ。たっく飲み過ぎてんなら、寝ていろよ……」  ミナミはぶつぶつと愚痴をこぼしながらも、食器を片付けた。  ユージは慌てて白米をかき込んで、胃の底へ押しこむ。 「きょう百万用意しておく」 「ヒャクマン? なんだそれ。あ、そうだ、もう店にくるなよ」 「は? いくし」 「やめてくれ、ホスラバにもおまえのことが書かれてたぞ。見とけよ、そのぐらい。じゃ、俺は歯を磨いたら行くから。後片付けよろしく」  重ねた皿をシンクへ運ぶ背中を追うようにユージは立ち上がる。洗面所で歯磨きをするミナミの横に並んで、電動歯ブラシのスイッチを押して歯にあてていく。口腔をゆすいで、ミナミが口元を拭こうとしたとき、手首をしっかりと握って動きを止めた。 「キスしたい」 「は?」 「つき合ったんだから、朝のキスがしたい」 「つきあった? おまえ頭でも打ったのか?」  口をぽかんと開けて、ミナミは目を丸くしてユージを見上げた。 「ミナミ、勝手にしろっつったよな? カネだしたら、つき合うって。だからキスしようぜ」 「悪い、話が読めない。仕事に行きたいんだ。離せ」 「キスしたら、離す」 「……」  殴られると思ったが、逃さないようにぎりぎりと力をこめた。ミナミは無言でつま先立ちになりチュッと当たるような口づけを落とした。唇が離れたあとに口を腕で拭われムッとしてしまう。 「ちがう、ちゃんとしたヤツだ。じゃないと行かせない」 「……くそだな」  深いため息のあとミナミは(かかと)をあげて目線を合わせ、もう一度唇を重ねた。舌からはしみ入る甘味がして、滑らかな動きで舌先を歯裏に押しつけられる。濃厚なキスは歯磨き粉の味がひろがり、ユージの口は雨蛙のようにぽっかりと開いた。 「……く、クリスマスは一緒にいたい。や、休めよ」 「ラストまであるからムリだ。おまえもそうだろ。どけ、俺は仕事にいく」 「ヒャク」 「金はいらない。口にするな。聞きたくない。そして二度と店には来るな。そしたらつき合ってやる。クリスマスも前の日なら時間とってやるよ。そのかわり、俺のいうことはちゃんと聞け」  ミナミは犬を躾けるような眼差しでユージを睨み、つかまれた手首を振り払った。 「……わかった。絶対だからな。あと毎朝チューするからな!」 「……頭おかしくなったのかよ、クソホスト。帰りは遅くなるから連絡すんなよ。病院にいるんだ、電源は落としてるからな」  舌打ちをして、ユージから逃げるように離れるとバタバタと音を残して玄関を出て行った。ユージはくたびれたようにリビングに戻って、へたへたとソファへ腰を落として沈む。  ミナミがコイビト……。  うつらうつらとした霧がかった意識で、近くにあったスマホを手にとり、きょうの出勤を確認した。夕方から同伴して、いつも通りの時間に上がる予定だ。念の為、ホスラバにも目を通す。 『今日いくのやめた』 『枕ありがとう♡』 『最近エースおちめ?』  支離滅裂な言葉が乱雑に流れて、すでにコメントが限度である千を超える勢いで濁流のようにおとされていく。見覚えのある店名が視界に入り、指がしなやかに反って画面を止めた。 『きのうって店休み?バイアスのユージを弥勒(みろく)通りでまたみちゃった。たぶん、八重樫(やえがし)ビルの店じゃない?』 『おっぱぶかしかないでしょ』 『まさかプラチナw』 『相手ダレ?』 『あの果物の名前のヤツww』  本営、本カノ、エースなどの情報が錯綜し、呟きと語り合いが繰り返されて、夜の街を執念ぶかく徘徊するように探り合っている。売上を落としてくれる客はエースと呼ばれ、ユージも数人いるが深い繋がりまで発展したものはいない。ただ、本カノとなると営業や売上に大きく影響してくるため、存在は基本的に表にださず秘密裏に心を通い合わせなければならない。  もういかねぇし、バレねぇだろ。  ユージは端末を投げて、ごろりとひっくり返ってネイビーのクッションに顔を埋めた。  やべぇ、初日から同棲かよ。クリスマスじゃん。どのレストランを予約するか早いうちに決めねぇと……。  まったくもって能天気なユージ。すっかり当初の目的である探しモノと煌々と輝く夜の妖気じみた嫉妬を忘れていた。

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