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第十五話 薫陶の賜物
「ん……」
玄関の床へ水音が溶けて落ちて、扉に抑えつけられた手先が細かに動く。
「……っ」
なめて湿らせた唇をゆっくりと動かし、ちゅっと音を鳴らすと、吐息が心臓の鼓動のように規則正しく伝わった。
その束の間、ピピピッという耳をつんざくようなアラーム音が鳴りわたる。
「おわりだ、どけ」
手の甲で口を拭い、ミナミは腕を伸ばして相手の身体を押しのけた。
「ひでぇ、ぬぐうなよ! しかも一分間ってなんだよ、おかしいじゃねぇか」
「キンキン、うるさい。おまえが朝のクソ忙しいときに何度も何度もちょっかいかけてくるからだろ。その分を凝縮してやってんだから、かまってるだけでもありがたいと思えよ。ほら、もういけ。じゃあな」
「ちくしょう! せっかくのクリスマスだぜ? 朝から一緒にいてぇのになんなんだよ。ミナミ、すぐに帰ってくるからちゃんとここで待っていろよ!」
「クリスマスは三日後だろ……。いいから早く出てけよ。俺は寝たいんだ」
フードパーカーにデニム、スニーカーという超定番な組み合わせをこなれた佇まいで着こなしている部屋主にいらいらした声で怒鳴りそうになるのを堪えた。頬を膨らませて、不満そうなユージに侮蔑の視線を注いで押しだすと、後ろ髪を引かれるように振り返りながら出ていった。せっかく休みを取ったミナミに対し、久々に大学に行くようで朝からひっついて離れず、うるさくて蹴り飛ばしそうになるのを我慢していた。
どうしてこうなった? 意味がわからない。
ミナミは音もなく閉まる扉に深々とため息を洩らした。そしてキッチンに歩を回 らし、冷蔵庫から新鮮な有機野菜、ぷりっとした弾力ある地鶏を取りだす。
くそ! まるで俺までクリスマス気分だな。
考えれば考えるほど癪に障る。しかしながら、これからする仕込みは普段よりもひときわ華やかで豪華だ。耳が腐るほどお願いされている品目は骨付きチキン、オニオングラタンスープ、バーニャカウダ、カクテルプリンというなんとも定番メニューともいえるものだった。
まずは鶏肉の骨にそって包丁の切り込みを入れて、皮目に数ヶ所穴をフォークであけ、調味料を加えて揉み込んで漬けようとする。
包丁を手にしながら、ミナミは先ほどの記憶がよみがえり、苛立ちを含んだ眼差しを投げつけて、だんという音を立てた。気づくと肉をぶつ切りしてしまう。
なんなんだ! 惚れねぇからって近づいてきたくせに! 絶対面白がってるだけだ、最低だなあいつ! しかも、なんで朝っぱらから客の相手をしなきゃいけないんだ!
ホストの遊びにつき合ってられないんだよ、クソアルファ!
……それより金だ。
日向の病状がまた悪化したのだ。風邪をこじらせ、なんとか回復したが薬代が重なり、月ごとにまとめられた医療費のせいで立ち退き料は煙のように消え失せた。蓄えはもうない。
そんな状況なのに同居人はやかましく、やれ連絡はもっとしろ、どこにいるか教えて欲しい、バッティングには行くなと縛りつけるように命令してくる。
何様なんだ、あのクソ野郎。いや、三万貰っているのがだめだな。こっちはちゃんと料理を仕込んでやっているつもりだったのに……。
あの日、店に訪れてから関係がおかしくなり崩れてしまった。まさか男が迫ってくるとは夢にも思わず、肩を噛んでしまう失態まで犯してしまった。クレームにもなりそうな事案なのに男は平然として会計を済ませたが、内心は穏やかではなかった。
そして、帰り際に店長にホスラバに書かれていることを指摘され、その場を繕うようになんとか誤魔化してきた。火の粉をかぶるのは勘弁したい。なんでもない風に装っていたが、男は自分のことは棚に上げて、仕事について口を出してくる始末だ。
なんだよ、つき合うって、理解ができない。
とにかく、なんでも金で解決しようとしてムカつく。
男とはつき合ったことはない。つき合いたいと口にしてから、べったりと張りついてくる。なにか裏があって、騙そうとしているのではないかと疑いもしたが、だらしなく抜けた表情にその思いも消えてしまう。
「……いてっ」
包丁の刃先が人さし指まで届いて、血がたらりと垂れた。
勝手にしろと言い放ったが、文字通りの行動をするので心身ともに重い疲労が積もる。朝食と弁当の仕込み、昼の仕事、夜のバイト、終わったらスマホで賃貸情報をチェック。
それを知らずに男は喜々として帰ってきて、後ろから肩越しにのぞき込んで、塵労でしんどい自分のそばでずっと喋っている。
そもそも、家がないのがだめだな。まるでヒモだ。しかも家事までする優秀なヤツ。
部屋を見つけようとするが、保証会社を通すものは家賃が高いか、都心から離れた場所しかなかった。朝早くから集合することも多いので、始発で間に合う圏内は限られる。
ちなみに皮肉なことに、男のマンションは地下鉄で十分もしない通勤に至便の場所にある。
くそ! なにもかも上手くいかない。とりあえず、仕込みが終わったら、横になって少し寝よう。そして、はやくこの部屋からでないと……。
胸にそう言い聞かせて、シンクに置かれたボールを片付けていると呼び鈴よりも玄関がひらく音が耳を打った。
◇
「あなた、誰かしら?」
うんざりした顔で玄関へ顔をだすと、柘榴のように艶めいたルブタンがみえた。十センチのピンヒールをとば口の中央に行儀よく置いて、八頭身という長身に小さくも迫力ある美人が憮然とした視線をむけている。
「……同居人です」
「そう。悪いけど、コーヒーを淹れてくださる?」
開口一番に鋭い口調で言い放って、名前もろくに訊かずに女はミナミを素通りした。すれ違いざまに柑橘系の香りが匂い立つように香る。
ミナミは疲れた五体をキッチンに運びながらも、手慣れた手つきでハリオV60のドリッパーを手前にだした。ペーパーフィルターをひろげると円錐状になっており、えぐみが出にくく透明感あるスッキリとした味わいになるらしい。珈琲にうるさい同居人のせいで、ミルの種類や性能まで詳しくなった。
ふつふつと湯を沸かして十分ほど沸騰させ、バランスが整っているブレンドの粉末を選んで、対面キッチンから視線を泳がせる。
女はリビングにあるソファにどかりと腰を下ろして、肘をついて考えごとをしていた。目鼻のつくりがこの部屋の主にそっくりにみえた。
……あいつと顔が似ているな。
ペーパーフィルターをセットし、少量の湯をまわしいれて、紙の雑味をとりながら無言の圧迫をやり過ごす。サーバーに溜まった湯は捨てて、粉をサーバーに置いてデジタルスケールの上に置いて目盛りをゼロにセットして、時計回りにゆっくりと湯を注いでその光景に意識を集中した。
ヘーゼルナッツのようなフレーバーを鼻先で感じ、散々文句を言われた努力の跡が見られたような気がした。
出来上がった珈琲を沈黙が流れているテーブルへと運んで、ミナミは静かにとんとカップを置いた。
「どうぞ」
「ありがとう」
「……」
チェリーピンクのネイルがのった指を取っ手へ滑り込ませて、女は珈琲を口に含んだ。鮮やかな真紅色のルージュを塗った唇がカップについて、艶のある黒髪が揺れた。
「やだ、美味しいじゃない。あなた、最高ね」
「はあ……」
「あの子、元気? ちゃんとやっているのかしら?」
ソーサーにカップを音もなくのせて、長くて細い脚を組み換えたと思うと、女は途端に口を開きだした。朝のせいか、真っ赤なワンピースは燃えるように映る。
「元気です。きょうは大学で遅くなるので、帰宅しませんよ」
「そう……、ちゃんと通っているのね。ホストなんてやめて真面目に勉学に励んでほしいんだけど、言っても聞かないのよね。まったく、やめろって言っているのに聞く耳も持たないんだから。しょうがないものね……」
女は不満そうな言葉を並べながらも、頬を膨らませて硬かった表情を崩して微笑んだ。その笑顔が男にそっくりだった。
「あの、お邪魔でしたら俺どこかに出かけますけど……」
「必要ないわ。これ、頼まれたものって渡してくれない? 私はもう帰るから」
「……はぁ」
女はフレンチに施された爪で一枚の封筒をミナミの前に差しだした。
「いやだ、自己紹介まだだったわね。私、姉の鷹取 美代 よ。よろしく。あの子が同居人なんて初めてじゃない? 昔は従順だったのに、思春期に入った途端に汚い言葉を使うようになって頭を悩ませたわ。いまでも直ってないでしょ? まったく、困ったものよね。ああ、ごめんなさい。あなたのお名前は?」
「……同居人の大宮南です。よろしくお願い致します」
口をひらいて喋るが、声が沈んでしまう。自信満々な美代を前にして、ミナミは先ほどまですぐに出て行こうという考えてたのに、それが乱れてしまう。
「失礼だけど、あなたベータ?」
「……そうです」
力なく頷いた。
「もしかして、あの子とつき合ってる?」
「……」
否定したかったが、射るような視線をむけられて喉元が渇いて声がでなかった。
「……ふふ、違ってもいいのよ。私も夫もアルファなの。子供は二歳にやっとなったわ。アルファの女は着床率が極めて低くてね、子供を妊娠しても生まれたらすぐに死んじゃうのよ。ご存じかしら?」
「……知っています」
「うちの子も未熟児でもう無理だと思ったけど、それでも諦めずに頑張って、なんとか授かってここまでやってきたわけ。でも、あのババァじゃなくて、義母がね、夫にオメガと再婚させようとしようとして色々大変だったわ。いまはもう落ち着いたけどね。ま、そういうこともあって、あの子が選んだパートナーは反対しないし、バースだけで判断はしないわ。それに見る目だけはあるってわかった」
「……俺はそんなんじゃないです」
「あら、そう? あの子と一緒に住むなんて史上初よ? それにうち好みの美味しい珈琲なんて初めてだわ。ごめんなさいね、私ってブラコンなの。単純でかわいいでしょ? 馬鹿だし。ああ、そうだ、これを貴方へあげる。嫌なことがあれば見せるといいわ。あとなにかあったら、連絡してちょうだい。じゃ、私はこれで。珈琲ご馳走さま」
美代は牛革で仕上げた財布からひらりと一枚の古びた写真をだして、ペンでさらさらと番号を書くとミナミへ手渡して颯爽と出ていった。
なんだよ、これ……。女の子か?
視線を落とすと、プラチナブロンドを二つに編んで、フリルをあしらった花模様のワンピースを着た子どもが泣きべそをかいていた。
◇
「げ、姉貴来てたんかよ!」
「……コレ渡されたよ。ここに置いておく」
茶封筒をテーブルに置いて、ミナミはキッチンへと戻った。帰ってきたばかりのユージは見向きもせずについてくる。
「恋人つったら、みせろって言われたんだよ」
「……だれに?」
「ねぇちゃんだよ。ミナミのこと、紹介しろっていわれたんだよ」
「……」
気持ちがないせいか、恋人という言葉がずっしりと肩へのしかかるように重く感じてしまう。胃を鷲掴みされたような、そんな感覚だ。
「ミナミ、どうだった? なんか話したか?」
「……まぁ、いいひとだな」
「こえぇけどな。あ、それより帰ったんだからキスしようぜ」
「うるさい。包丁を握っているんだ。シャワーでも浴びてこい」
腰に回された腕をほどくのもめんどくさいので、ミナミは包丁をまな板へ叩きつけた。
「ひでぇな、わざわざ銀座のレストランの予約を取りやめて、ケーキ買って来たのによぉ〜!」
「頼んでない。どけよ!」
ミナミは牛刀を振りかざすように、一心に包丁を動かした。
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