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第十八話 イスカの嘴

 外が青黒い夜の色が落ちているなか、蛇腹のように伸びた長い階段をゆっくりと降りていくと星の輝きを閉じ込めたような空間が広がっていた。灯りのともったきらびやかで眩い美観を目にして、ミナミは息をすうっと吸い込む。  ……すごい。うちの店とまるでスケールがちがう。  話には聞いていたが、そこは現実世界からかけ離れた絢爛(けんらん)を極めた居場所が形づくられていた。  案内を乞うとすぐに奥の円卓へ通された。人々の楽しげな笑い声が満ちている。光と音楽のざわめきの洪水を歩いて搔きわけ、ミナミは革張りのソファーへ腰掛けて、さりげなく店内の様子を見回した。大半は女性客だったが、男もちらほらと視界にはいった。  桃は案内した黒服と会話を()わし終えると、ミナミの隣へちょこんと膝を屈めた。 「ごめん、お会計は僕が払うから気にしないで……」 「そんなのどっちでもいいよ。会いたいひとってだれなんだ?」 「……幼馴染。人づてに、ここで働いているって知ってさ」  顔を上げると、うなじを意識してしまい、目のやり場に困って視線を落とした。  テーブルには氷、トング、マドラーの三点がセットされたアイスペールが置かれていた。ほかに灰皿、水、華やかな彩色を施された飾りボトルが並んでいる。  テーブルを華やかに飾るガラスの靴にはリキュールらしき酒が注がれていて、ラピスラズリの深い紺青のなかに金色の光が浮かんでみえた。 「……この瓶、派手だな」 「これ、シンデレラっていうお酒なんだ。透き通った青できれいだね」 「……そうだな」  くしゃっと顔を崩して笑う桃にたいして、ミナミはいぶかしげに眉根を寄せる。 「あのさ、人づてって、……おとこ?」 「うん、その、好きだったひと……」  一瞬、息が止まりそうになった。どうしてかユージの顔が頭によぎった。ミナミは困惑した表情で言いよどむと、桃の背中越しに好奇心にあふれた光を目に宿した客たちが目交(まなか)いで浮かんでみえる。  ……あいつ、桃を探していたな。……そうだ。しまった。来るんじゃなかった。  いまさらながら、ここにあの男がいるのかと想像してしまい、軽い後悔が胸をかすめた。座っているだけなのに動作がぎこちなくなってしまう。  嫌な予感がじわじわと全身を駆け抜けて、思っていたことを忘れそうになり立て板に水と質問を重ねた。 「いまも? その、まだ好きなのか?」 「……ううん。とっくの昔にあきらめた」  沈みがちな言葉を落としながら、桃はうつむいて唇をきゅっと噛んだ。  ……あきらめた?  もやもやとした感情が頭のなかをさまよい、ミナミの耳に賑やかな笑い声が飛び込んでくる。周囲は黒のスーツに身を包んだ男たちが笑顔をはりつかせて、弁舌爽やかに場を盛り上げていた。  酔って紅潮したもの、空になったボトルを満足そうに眺めている女、しなだれかかって甘える客。さざめく騒がしさに囲まれながらも、頭はどんどんと氷を落とされたように冷えていく気分だった。 「……そっか」 「うん、だけどどうしても会いたくてさ。未練がましいよね」 「……いや、べつに」  なにか深い事情があるのだろうか、それともこのまま踏み込んでいいのかと迷う。どうにか言葉を探すが、なんと声をかけたらよいのか迷ってしまい、肩をおされたような沈黙がミナミにのしかかった。  ……なにか聞かなきゃ。また会えるとは限らない。  ミナミは二つのグラスを手にとる。氷を放り込んでぬるくなった水を注いだ。マドラーでひと回りさせ、桃の前に置いて自分の分を一口だけ流し飲んだ。 「……ありがとう」 「とりあえず、水ぐらいは飲めよ。なんかあったのはなんとなくわかったし。急に店をやめてびっくりしたんだ。困ったことあれば言って欲しい」 「……えっと、ごめん。連絡したかったんだけど、ちょっと、色々あって、その……」  質問をはぐらかすように言葉を濁し、か細い声はかき消されていく。核心に踏み込めないまま桃はうつむいて口を閉ざした。言葉につまって目が潤んでいる。服装はスウェットだったが、袖口はくすんで灰色に汚くよごれていた。まるで逃げ出してきたようなそんな装いだ。  どうしよう。俺、桃のことなにも知らない。  また悪い男に騙されたのか、金に困ったのか、いつも桃は陽気に笑いながら話していた。そんな楽しかった過去も白いうなじの噛み痕がすべて打ち消していく。 「……実は」  と、そのときだ。 「こんばんわ~」 「……どうも」  一緒に住んでいる男の話を持ち出そうとしたとき、ふたりの間に軽快な声がふわりと落ちた。視線をあげると、茶髪の男とひょろりと背の高い青年が目前に現れた。 ◇  ケンという短髪はぎこちなさそうな笑みを浮かべ、その隣にいる男の声はいまにも歌いだしそうに弾んでいた。  対照的なふたりは桃とミナミの隙間を縫うように席についた。茶髪は桃に馴れ馴れしく顔をよせてなにやら話していて、桃はしきりに気にしたように、ミナミへちらちらとした視線を送ってくる。席を変わろうとすると首を弱く振って拒否されてしまう。  ……なんだよ。会いたかった男ってあんな軽いヤツなのかよ。  ミナミは口をゆがめて、ぶすっとした顔つきを横へむけるとケンもぼんやりとした視線を宙に漂わせていた。そして時折長いため息を情けなさそうについている。 「……あんた、ケンっていうのか?」 「…………え? あっと、と、す、すみません。急いでお酒つくりますね」 「いや、水でいい」 「ケンさん、ダメッすよ~! 俺、愛情こめて作りますから! はい、こっち飲んでください~!」  茶髪はケラケラと笑いながら、酒をついでマドラーをまわすと氷が涼しげな音をたてた。持ち上げて口に運ぶと、アルコールの匂いがむっと鼻をついてしまう。 「……いや、僕、お酒は」 「ほ~ら、美味しいでしょ? モモちゃんも食べて飲んで!」 「やめろ、俺が飲む!」  これみよがしにグラスを桃の唇に押しつけようとするので、グラスを奪い取ってミナミは半分ほど飲み干した。安い焼酎が咽喉を通ってカッと胃の底が熱くなった。 「……っ、あいつって、桃の知り合いなのか?」 「……え、あ、そうなんですか? 知らないです。あなたこそ桃の知り合いなんですか? ……って、あの失礼ですけど、もしかして先輩のカノジョさん? あ、ごめんなさい。カレシさんですか?」  ケンははっとした様子で、ミナミの顔を食い入るように覗き込んだ。ミナミはグラスを手にしたまま体を引いて、うわずった声を張り上げた。 「カレシ? は? なんだよ、それ」 「あの、最近、先輩としました?」 「ばっ! ごふっ!」  おもわず飲みかけていたグラスが口にはいってしまう。ミナミは手で口を拭いながらも、頭に入ってきた言葉を整理しようとまばたきを繰り返した。ぽかんと口をひらいていると、ぱっと冷えたおしぼりが差し出された。 「す、すみません。これどうぞ」 「……ありがとう。先輩ってだれ?」 「この店のナンバーワンです」 「ナンバー?」 「いまVIPルームに入っていますよ。死ぬほどのろけを聞かされていましたから、びっくりしちゃいましたけど……。しかしすごいな、両想いだなんて驚きました」 「なんだよ、リョウオモイって?」  まったく話についていけない。だれがそんなことを話しているんだろう。  ミナミは怪訝な顔つきでケンをみると、あれ? とケンは目をぱちくりさせて驚いた声で返した。 「あの、つき合っているんですよね? きょうのミーティングもすごく自慢してて、耳にタコのように口にしてましたよ。あ、ごめんなさい。こんなことを店で話しちゃいけませんね」 「……自慢って。あのさ、だれのこと言ってんだよ?」 「だれって、ユージさんですけど?」  その名前にミナミの耳たぶがほんのりと熱で赤みがかるが、(かぶり)を振って否定してしまう自分がいた。 「そんないい関係じゃない。いずれ出ていくつもりだよ」  年が明けたらすぐにでも出たい。ケンはぽりぽりと顎をかいて、塩辛でも飲み込んだような表情をした。 「うそ……」 「全部、あいつのお遊びだろ?」 「いや、あの、そういうわけじゃ……」  そうに決まっている。こんな馬鹿でかい規模の店で働いて、セクキャバ嬢になんて本気になるとは思えない。ケンの言葉をさえぎって、ぐるぐると思いを巡らす思考を隠した。 「それより、あんた、野球してる? 身体つきがいいな」  背筋を伸ばして腰かけしている男の胸板は厚く、肩幅はがっしりして、体形がスーツにしっくり合っている。引き締まった太腿に視線を泳がすとケンは照れ臭そうに頭をかいた。 「あ、そうなんです。仕事終わったら、近くのバッティングでバット振ってます。へへ、じつは高校まで野球部でした」 「へぇ、いいな。そこ、ホテル街のうらだろ? 俺もよくいく」  焼酎のせいか、言葉が滑らかにでてしまう。とろとろと眠気がおしよせて眼界が揺れてみえる。桃はいつの間にか席をたって、お手洗いに行ったようだ。 「あ、じゃあ今度誘いますよ! 暇なときやりましょう。これ、僕の番号です。……あ、先輩に悪いか、すみません」 「いまは忙しいから遠慮しとく。会ったら声かけるよ」  名刺を渡されて、ミナミが断ろうと口にしたとき、茶髪の男が声を上げた。 「……あれ? 桃ちゃん帰ってこないね?」 「ちょっと、お手洗いへ行ってくるよ」  ケンは立ち上がって、奥へ消えていった。不意に残された男があっと口をひらいた。 「あ、ユージさん……」 「おい! おまえなんでここにいるんだよ!」  突き刺さるような声に、ミナミはぎょっとして顔をあげた。そこには鋭い眼差しをむけて、目には険しい光が浮かぶユージがいた。いまにも飛びかからんばかりに、ぎろりと厳しい目つきで睨んでいる。 「……友達ときたんだよ」 「トモダチ? なんでケンの名刺なんかもってんだよ」 「……なんかって、そんな言い方ないだろ」  ユージの視線をたどると、名刺の端っこに電話番号がこれみよがしに書き足されている。いらだたしげに小さく舌打ちを鳴らす音がした。 「ありえねぇ、連絡すんのか?」 「しないよ。そんなひまない」 「なら、出ていけ。この店にくるな。おまえが来ていいところじゃない」  高圧的な声を飛ばすユージに言葉がでない。息を止めてみつめてしまう。鮮やかな水色のネクタイにピンストライプのスーツを合わせて、男は濃艶な色気を漂わせて足を大きく広げながら立っていた。  ……いつもと違う。いや、そうじゃない。どうしてそんなに機嫌が悪いんだろう。  ユージはぬっと手を伸ばすとミナミの手をものすごい力で握って、ずんずんと会計を無視して出口へと歩いた。 「……っ、まて。まだチェックしてないっ」 「いらね。ミナミ、ここへは二度と来るな」  荒々しく手を掴まれ外へ連れ出される。周囲のどよめきが波紋のように広がるが、誰一人止めにはいるものはいなかった。  ミナミは地上へと階段を危なっかしい足取りで駆け上がっていく。  勢いよくのぼり喧噪と街灯がみえた途端、すかさす突っ込むように止まったタクシーへ押し込められる。足がふらついて、ミナミは座席へ転がるように放り投げ出された。 「いてっ! なにすんだよ!」 「あとで連絡するから帰れ」 「ふざけんな! 勝手なことすんなよ! まだなんにも聞いてないんだよ! このクソホスト!」 「必要ない。ミナミ、おまえはオレだけみてろ」  バタンと車のドアを勢いよく叩きつけられ、たちまち車窓が流れてしまう。ユージは振り返ることもなく店へと消えていった。うしろ姿を眺めながら、ミナミはむしゃくしゃした気分をかみ殺した。

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