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第十九話 情に棹をさせば流れる
しばらくして、部屋主が弾丸のように帰ってきた。
……ねむい。すこし酔ったな。あいつのせいでちっとも桃と会話を交わすことすらできなかった。
毛布に身をうずめていたミナミはうつらうつら眠気がさしていたところだった。どろんと眠そうな目をしばたたかせると、急にがばりと毛布をはがされて一遍にうたた寝から揺り起こされる。
「ミナミ! ケンの名刺よこせ」
「……めいし?」
「よこせ」
ミナミはのそのそと起き上がり、ベッドの端に掛けていた上着を手にとった。どうしてそれほど顔色をかえて怒るのか、さっぱりわからない。
名刺がなんだよ。しっかし、どうして、ずっとそんなにイライラしてんだ?
夢の澱みから鈍く覚めきれない頭を動かして、ポケットを探って無造作に突っ込んだ名刺をだした。途端、奪うように取られてユージはすぐにびりびりと引き破る。
「……なっ」
「店にくるな。しかもケンなんて指名しやがって」
「……べつに指名なんて、おまえに関係ないだろ」
「なら、どうしてオレの店にくるんだよ。一言もそんなこと口にしてなかったじゃねぇか」
ミナミの声をさえぎり、荒々しく吐いた息に酒の匂いがむうっと鼻を襲う。もやのかかった意識のなかで怒りを帯びた声が耳目に触れた。
「……たまたまおまえの店だったんだよ。……そんなことより俺と一緒にいた連れ、あれからどうなった? ちゃんと帰ったか?」
「ツレ? 知らねぇな。で、そいつと話す場所がホストクラブか? しかも弱ぇくせに、酒も飲みやがって。ミナミ、てめぇはもっと自覚つうものを持てよ」
「はぁ? なんの自覚だよ? たかが一杯で大げさなんだよ。おまえだって、うちの店に来てボトル空けているんだから同じじゃないか」
いつもこうだ。怒るというよりあきれてしまう。なにがなんだかさっぱりわからない。なにかにつけて怒っては売り言葉に買い言葉で一文にもならない喧嘩が始まる。
この調子では桃の話など聞いても、労力を無駄に費やしてしまうだけだ。
……クソッ! 明日は朝からパスポートセンターに寄って、それから日向の見舞いに行かないと……。とにかくきょうは寝たい。少しでもいいから身体を休めて、落ち着いてから桃のことを訊こう。
そんなことを考えて、ろくすっぽ寝ていないミナミは声にならないため息をついてしまう。
その様子が気に入らないのか、ユージは襟元を緩めると厳しい表情で首を振った。
「……ミナミ、おまえはカネがないんだよな?」
「は? かね?」
「そうだ。弟のためにセクキャバで働いてんだよな?」
ぐいぐいと顔を近づけられて、香水に混じって酒臭い息が鼻先へかかる。ミナミは突き刺さる視線をよけずにぼそりと呟いた。
「……そうだよ。そのために働いている」
「カネがあったら、辞めるんだよな?」
「……だからなんだよ?」
「ちょっと待ってろ」
ユージはすっと体を離して、寝室からぷいと出て行った。そしてすぐに戻ってくると、縦長の茶封筒から白紙を動かぬ証拠のように目前に突きつけた。
「なんだよ、これ?」
それは一枚の小切手だった。
それにしても桁数がおかしい。中央の上段に「小切手」と書かれて、銀行から振り出されているようにみえるが嘘のような金額が提示されている。そして金額欄の下部に小さな字で記載された「持参人」の文字が横線で抹消されて、その代わりにミナミの名前が記載されていた。
「カネだよ。これをやるから仕事を辞めろ。おまえにヨルは向いてない。カネが足りないなら増やすし、弟を助けられるだろ。すぐにプラチナなんてところは縁を切れ」
「ふっざけんな! なんだよ、それ! それぐらい自分で稼げる!」
「はぁ? おまえ知っているのかよ? 海外で心臓手術するっていうと億は軽く飛ぶんだぜ? このままいまの調子で働き続けてみろ、それこそ心も身体も壊れるぞ! そんなの絶対に無理だ。とにかく、これではやく弟を助けてやれよ。知らねぇヤツに身体売るぐらいなんだ、こんなカネぐらいすぐに受け取れるだろ」
唇が触れそうになるくらい近づいて、紙切れを胸もとへ押しつけられた。ぐるぐると思いがけない話の展開に戸惑って、受け取ることもできずにいると、はらはらと毛布の上に落ちた。
振出人の名に視線がぶつかる。それはユージの姉である『鷹取美代』だった。銀行取引印とともに判が押されていた。
ダメだ。これは俺の金じゃない。この金は手にしていいものじゃない。
ミナミは首を横に振って拒否した。
「……っ。いらない。この金は受け取れない」
「はぁ? なんでだよ?」
「自分でなんとかする」
確かにこの小切手があれば、日向の快方が万に一つの少ない確率で上がる。ただ、出会って間もない男から大金を手にしてしまうなんて、自分が一番守ってきたものが壊されていく気がした。
……結局、同情かよ。
顔をゆがませて奥歯を嚙む。おおいがたい屈辱で体が熱くなり、ほおがけいれんした。なにをいっても嚙み合わない。言葉を重ねても伝わらないもどかしさにいらだちだけが募っていく。
そんなに親密な仲でもない。一回だけヤッただけだ。お情けにすがって、されるがままに現金へと換金すれば、ますます出ていきにくくなる。
ミナミはきゅっと口を閉ざし、黙然とうつむいた。
「……なんなんだよ。意味わかんねぇ。おまえもとっとと自分の好きなことしろよ。このままじゃ、弟なしで生きていけねぇぞ」
「……そうだな」
「とにかくそれはやる。姉貴に頭を下げて、やっと貸してもらったんだ。振出日があるらしぃし、そこんとこ気をつけろよ!」
ユージはついと立つと、不機嫌そうに寝室をでていった。
◇
「……兄ちゃん?」
「……っ、あっ、ごめん。聞いてなかった。ん? なんだ?」
夢から醒めたようにぼんやりとした頭を上げた。なおざりな返事すらうわずってしまい、ミナミはとりつくろうように笑みを浮かべた。
「もう帰る時間だよ?」
「ん、ああ、そうだな……」
窓へちらっと視線を泳がせると、そろそろ日が暮れそうだ。夕陽が沈んで、薄れゆく残照のなかに青みが流れてみえた。
すでに昼も夜も、仕事は年始年末で休みに入っている。プラチナだけ正月からスタートだが久々にのんびりと休養が取るつもりだった。
「……きょうさ、泊まろうかなって思うんだ」
「うそ!?」
「うん、さっきこのまま泊まる手続きしてきたからさ。このあとベッド用意して、夕食も一緒に食べよう」
照れくさそうに口にすると、日向のあどけない顔にほんのりと赤みがのった。病状は変わらない。
国内での臓器移植待機リストにはすでに登録済みだが、見通しの立たない順番を待ちながら、突発的発作に不安に怯える日々が続いていた。
それでもミナミは声を明るく弾ませ、できる限り陽気にふるまってみせる。
「うれしい! 久しぶりに兄ちゃんとご飯を食べれる! あ、にいちゃん、電話鳴ってるよ」
「へ? あ、あ、ああ。ごめん。ちょっとでるよ」
携帯を手にして、よく見もしないでミナミは急き立てられるままに通知ボタンを押してしまう。しまった。あいつだ。
はっとして出ようとするが個室なので、ここで立ち去るのもなんだか変に思われる。ミナミはその場を離れることもできずに端末に耳をかたむけた。
『オレ。ミナミいまどこだ?』
「……」
『なんだよ、まだ怒ってんのかよ。ごめんって。いつまでも拗ねんなよ。おまえがケンを指名してると思ったら、カッときたんだよ。怒鳴って悪かった。で、きょうなんじに帰ってくんだよ。休みだろ?』
ちらりと横から心配そうな日向の視線を感じてしまい、明るい調子で答えた。
「きょうは帰らない。病院に泊まる予定なんだ。明日には帰る」
『はあ!? 聞いてねぇし、つうか本当に病院か? とりあえず弟と一緒の写メ送れよ』
「……なんでそんなことしなきゃいけないんだよ」
不満を口にすると、続けてユージはいぶかしげな声をだした。あれから男はミナミのスケジュールを常に把握しないと気が済まないらしい。
『ケンがそばにいるとか? あいつ、バッティング誘ってたからな。それに年越しは一緒にいたかったんだよ』
「いないよ。連絡先だって、おまえが捨てただろ。せっかくの休みに連絡なんてしてくるなよ」
『はあ? 別にいいだろ。仮にもコ、コイビト……』
「よくない。親孝行しに実家とか帰れよ。親父さんいるだろ」
口ごもる男にため息を漏らしてしまう。せめて年始年末ぐらいひとりでいたい。
「はあ? スペインでよろしくやってるよ。海外なんて正月に行きたくねぇし、仕事だって休みだし、とにかく暇なんだよ。ほら、早く写真くれ。もちろんツーショットな。まさか弟じゃなくて他のヤツといる」
「……ッ、うるさい。送るから黙れ」
着信を切ると眉間に皺が浮かんで消える。なんとも解せない。言動がさっぱり理解できない。
なんであんなにコロッと変えられるんだ? きのうまであんなに怒っていたくせに朝になったとたん子供みたいにじゃれついてくるし、一体なにを考えてんだ?
根明 というか、朝になるとなにごともなかったように接してきたので狐につままれたように驚いてしまった。
そういう人物と出会ったことがないので、魂の抜け殻のように立ちつくして見てしまった。睡眠不足のまま、いつも通りに朝食をとって言葉少なに物を言い交わして出てきた。どうしてか日課のキスは続いている。
「兄ちゃん、大丈夫?」
「あ、うん。ごめん。日向、その、一緒に写真撮ってもいいか?」
「え! うん! とろう、撮ろう! 兄ちゃんと写真なんてうれしい!」
ぱあっと太陽のようにまぶしく微笑まれると、ミナミも嫌な気はしない。
「ほら、日向、こっちみて」
「へへ、兄ちゃんの隣ってなんか照れちゃうね」
日向の隣に近寄って、顔を並べてスマホで二、三枚連写してボタンを押した。
「写真、みせて!」
「ほら、よく撮れてる」
その間もぽんぽんとLINELINE から催促のメッセージが飛んでくる。
「……えへへ、にいちゃんありがとう。これちょうだい。飾っておきたい」
「うん、わかった。印刷して写真立てに入れてここに置いとくよ」
口にしながら、すぐにユージへ送信してやると瞬く間に着信が鳴った。
『かわいいじゃん』
「……弟はやらん」
『は? ちげーし、おまえが笑ってるから、かわいいっていってんだよ。ま、とにかくゆっくり過ごせよ。あと困ったことあればいつでも連絡しろよな。んで、鷹取つう医者になんでも言っていいから。そいつ俺の兄貴だから』
「……わかった」
『んじゃ、ちゃんと帰ってこいよ』
「はいはい、わかったから。……じゃあな」
端末をそのまま電源ごときった。
しまった。桃のことを聞けばよかった。
いつまでも切ろうとしない男にイライラしてしまい、肝心要 なことを忘れてしまった。
モモ、連絡繋がらないな。あれから、無事にもどったのかな。心配だな。指名していたのってあのケンって男だったのか? 茶髪じゃなかったということは、あの男が……。いやだめだ。深入りしても解決できるとは限らない。
ましてや、日向の病状もかんばしくない。心不全を起こしてしまう恐れがあり、はやく手術をしなければならない。
それでもお人よしの性なのか、桃が心配でどうしようもなかった。
……いや、今度、聞いてみるか。そうだ、明日こそはパスポートも申請しなきゃ。寝坊してコンピニで戸籍謄本すら出せなかった。
「兄ちゃん! 対戦ゲームしようよ! ほら、はやく!」
「はいはい、わかった。いくらでもつき合ってやるから、ちょっと待ってって……」
ミナミはせっつかれながらも、日向に柔らかな視線を向けた。
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