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第二十一話 恋は細部に宿り給う 一
玄関の扉がひらく音がした。
「……ただいま」
「お! ミナミ、おかえり!」
洗面所で手を洗い終え、品の良いウールジャケットを脱ぐと、すぐに台所に立った。ユージは軽やかな足取りでミナミの背後に近づく。
「ユージ、おまえ電話しすぎだ。着歴が怖いことになっていた」
「は!? だってミナミがでねぇからだろ! リンリンも素っ気ねぇし、連絡くれって言ったじゃねぇか」
「……だからってやり過ぎだ。オメガの子みたいに襲われる心配もないんだから、いい加減やめろよ」
うんざりした表情で天井を仰ぐ恋人に、ユージはニッと光輝くほほえみを浮かべて子供のようにじゃれついてくる。そして先ほど耳にした知識を思い出して、膨らんだポケットからごそごそとスマホをとった。
「じゃあ、このアプリとかどうだ? チャットと安全確認ができるみたいだぜ。アプリストアから落としておけよ」
「なんだよ、それ? ダウンロードしたら、しつこい電話とかやめるのか?」
「ああ、やめる」
ユージは自信たっぷりの声で答えて、どんと目と鼻の先に突き出す。
アプリの真ん中にはハートマークが鎮座して、ベビーピンクに塗り潰されている。それを向けると、ミナミは怪訝そうな視線を注いで、いぶかしげに眉根をよせた。
「……ほんとかよ」
「嘘はつかない。つうか、やっぱ今だ。いまこのアプリを落とせよ。安全確認もできるから、なにかあったとき便利だし、お互いの予定を把握した方が逐一連絡しなくて済むだろう? ほら、前に夕飯いらねっていったら、めちゃくちゃ怒ったじゃんか。夜遅いときはちゃんとここに予定を入力しておくから献立も困んねぇだろ?」
口巧者に説き伏せる。こういうとき、客の途方もなく長い愚痴や惚気を子供のようにうなずきながら聞いていてよかったと思う。口調を真似して、熱を帯びながら言葉巧みに勧めると、ミナミはうんざりしたように力なく肩を落とした。
「……はぁ。わかったよ」
「よし! 確認してやる」
「必要ない」
「だめだ。どうせ出来なくなったら、途中で放り出してやめたりするのも知ってるんだからな」
ミナミはネットに疎い。スマホもお子さま携帯かというぐらい使いこなせていない。
「いいってば……」
「ストアから落としたら。誕生日を入力しろよ。あと恋人とコネクトするっていう設定も必ずやるからな」
「……しつこいなぁ」
「こうもしないと、すぐにやらないだろ!」
ここぞとばかりにぴたりと恋人の背中に貼りついて、ストアからの取得、ユーザー認証から共有設定までを見届ける。
あらかじめ登録した情報が反映され、お互いの誕生日を入力すると出会って九十日目と浮きあがった。それを目にしたミナミから、ものうげな調子でぼそりと呟きがでる。
「……できた。……ユージ、おまえの誕生日、四月生まれなんだな」
「ミナミ、九月じゃん。なに? 気になる?」
「日向と同じなんだよ。あ、そういえばペルシステム受け取った?」
ミナミはきょろきょろと首を巡らし、端末をポケットにしまう。ユージの顔をみようとしない。
「ついさっき来たぜ。俺がいてよかっただろ? 夕方にわざわざ下の管理人から受け取りに行くのも面倒だしな。とりあえず、一つ残らず冷蔵庫に入れといた」
「へぇ、気が利くようになったな。助かるよ、ありがとう」
人懐っこく話すユージに振り向きもせず、ミナミは掛けていた布巾を取って、洗い上げた食器から、平たい皿を手にすると水滴を拭き始める。乾いた布で一枚一枚丁寧に皿を扱う姿にきゅんと胸がときめく自分がいた。
「あ、寿司頼んだから、夕飯はなんか酒でも飲もうぜ」
「……飲み過ぎに注意しろよ。しかし、正月なんて休みが長いから、結構多めに食材を注文して正解だったな」
「だろ? ま、金額とか気にしねぇでいいからどんどんと頼んで美味しいもん作ってよ」
「……ほんっと、おまえは気楽でいいよな」
気のせいか声が若干沈んで聞こえて、ぴくりとストレートグレイの眉が動いた。
「なんだよ、それ」
「別に……」
「まだぷりぷり怒ってるのかよ」
茶化すように口をひらくが、ミナミは一人静かにてきぱきと片付ける。なにを考えているのかまったく読めない。
落ち込んでいるのか? 弟の容態がよくないのか? また金の話をしたら不毛な諍いが起こるだろうし、姉貴の言っていたことも一理ある。ただ、今年最後となる今日だけは喧嘩は控えた方がいいのはわかっている。
様々な言葉がああでもないこうでもないと頭の中をさまようユージにミナミは気まずい視線を流した。
「……お茶でも飲む?」
「いや、いい。珈琲を飲みたい」
「わかった。いま淹れるけど、ブレンドでいいか? あと、あのさ、そういえば小切手……」
「……あとで話そうぜ。大晦日ぐらいゆっくりしてぇし」
つまらないことで角突き合うのも馬鹿らしく、中途で言葉を挟んだ。そして腕の中にふわりと抱きすくめるが、ミナミは立ったまま石像のようには動かない。髪の毛からはぷんと消毒液の匂いがして、ぼうっとなにかを考えているように見えた。
「いや、大事な話だし……」
「なら、年越してからちゃんと話そうぜ。銀行なんてもう閉まっているだろうし、いますぐに換金なんてできねぇだろ? だから今晩は寿司をたらふく食べて、映画でも観てゆっくりしようぜ。それでも話したいなら、このままキスするぞ」
体をきつく抱きしめるが、全身が硬直している。逃げようとしないミナミにくっついて、うなじに鼻先をあてて匂いをくんくんと嗅ぐ。かわいい。自分のために動いてくれる姿が愛しい。
いままで抱いたことがなかった所有欲という名の我欲にとらわれてしまいそうになる。ユージはそのまま汗で湿った首筋をなぞるように唇をあてがうと、上体を左右に揺すぶられる。
「……やめろ。気色悪いから離れろ。……っ、わかったよ。年を越したらちゃんと話す。で、珈琲の豆は挽いとくか?」
「ちぇっ、ケチ。冷凍していた粉があるだろ?」
「……よくわかったな。おまえマシンの使い方も分からないから、ストックをたくさん作ったんだ。たっく、味にうるさいくせにまるっきりの素人で機械オンチなんだもんな」
ミナミは肩を大きく動かして、ため息まじりに嘆息する。抱きついたままのユージは器用に細かに動く指先をまっすぐに眺めながら口もとが緩んだ。
……このままずっと暮らしてぇな。
喧嘩ばかりだが、なんとなく本音がだせて陽だまりのように居心地がいい。そばにいて窮屈さを感じさせない。つい、ミナミに対して感情のままに愛しさのアクセルを力一杯に踏みそうになってしまう。
本当は機械なんてすぐに操作できた。懇切丁寧に説明するミナミに分からないと首を振ったときの表情が忘れられなくて、思わず嘘が口をついて出てしまった。
もっと一緒にいたい。もっとかまって欲しい。キスして、体を重ねたい。いけない。今日は物静かな宵をゆっくり過ごすと決めている。ユージは平常心を保ちながら空とぼけた顔を浮かべた。
「は? それぐらいやれるっつうの。つーか、寿司が来るまで映画みようぜ」
「ああ、あの『キスの果てに』か? ベータ役のひと、名前なんていったっけ?」
「あーうかばねぇ。ま、いいじゃん。そういえばパスポート申請できたんかよ?」
インナーバルブつきのチャック袋から中挽きした珈琲粉を取り出すと、芳ばしい香りが立ちこめる。ミナミは器用に手を動かして、ポットに水道水を注いでコンロにかける。
自分好みの味に珈琲を淹れてくれる姿は特にかいがいしく、恋情がにょきにょきと芽生えてぽんぽんと花咲いてしまう。
「やけにくっついてくるな。……パスポートなら間に合ったよ。あと数週間で出来上がる。ユージ、後ろの食器棚にあるカップを二つ取ってくれないか?」
「へいへい。……つうか、ミナミ、なんつうか元気なさげ?」
「……え? あ、そうか? いや、戸籍謄本を初めて目にしたんだけど、父親の名前が気になってさ」
やっと体を離して、背後に並ぶガラス張りの白い食器棚に手を差し伸べる。濃くて深い緑の大皿から古いアンティークな花柄の器まで所狭しと並べられている。
どれも外商が揃えたものだが、目先の段にだけ、二ついびつなデザインのマグカップが置かれていた。
それはミナミが仕事帰りに気にいって買ってきたもので、中央には犬のハスキーがリアルに描かれている。一つしか買ってこないので、ふくれっ面で文句を口走ると、数日経って同じところに片割れが置かれていた。そんなさり気ないところも好きになってしまう。
「へぇ、名前なんていうんだ?」
「|藤峰 巽《ふじみね たつみ》」
「知り合いでもいんの?」
カップを横に置くと、ミナミは手で離れろとアクションした。
「……いや、いない。けど、下の名前が似ている人ならいるかな。わるい、熱湯だから少し離れてくれ」
「ふーん、同姓同名はいくらでもいるからな。父親、会ったことねぇんだろ?」
「うん……あ、やばい。アツッ……」
ガシャンという鈍い音とともに熱いしぶきが撥ねた。そのまま持ち手を触ったのか、ミナミは声を殺してじっとうずくまった。
「おい、大丈夫か!? 」
「……っ」
「足に思いっきり熱湯がかかってるんじゃねえか! ちょっと来い! 冷やすぞ!」
ミナミの靴下を濡らし、もうもうとみなぎる湯気が白く漂う。
急いで手首を掴んで、どたどたと引きずるように浴室に連れて行く。椅子に座らせると、熱を奪うように布越しから勢いよく冷水をかけた。
「……いてっ」
「大丈夫か? 痛そうだな」
シックな雰囲気に包まれたホテルライクのバスルーム。深い赤みがかった褐色のダウンライトがゆらゆらと揺れて、ふたりの足元を薄ぼんやりと照らす。
「……っ。大袈裟だよ。ちょっと火傷しただけだ」
「ちょっとじゃねぇよ! 水ぶくれになったら大変だろ!」
「……ばか、こんなのすぐに治るよ」
白くしぶきをあげていた水量をユージはハンドルで調整した。
「痕、残らねえといいけど、よく冷やさねぇとダメだな。靴下脱がすぞ。まだ痛むか?」
「大丈夫。もう痛くない」
ちょろちょろと水が流れている横で、注意しながら慎重に脱がした。水ぶくれはできておらず、足の甲にひろがった腫れも赤みがほんのり薄くなっている。
「よかった。そんなにひどくない。かなり服も濡らしちまったから、いま着替えを持ってくる。ちょっと待ってろ」
「……」
「どうした?」
「……なん……で」
立ち上がろうとしてはたと気づく。ミナミは俯いて、表情がみえない。尻もちをついてびくりとも動かない。なにかを言いかけて口をつぐむ。
心配になって、腰をかがめて顔を覗く。前髪の先が濡れて深い藍色の瞳が|翳《かげ》ってみえた。
「あ? 痛いのか? 薬も持ってくる」
「……ちがうっ。……なんで、そこまですんだよ。別に俺はオメガじゃない。男だし、バースだってベータだ。あんな大金もらう権利ないし、そこまで優しくされる筋合いもない」
「ばーか、つき合っているからに決まってるだろ。好きなんだから、ここまでしてんだよ。そんなの当たり前だろーが」
本音だった。ここまで愛おしいと思った奴はいない。だからか、ケラケラと笑ってしまう。大晦日なのに不幸を一身に背負った顔をしているミナミがなんだかおかしくみえて、膝立ちしたまま唇を重ねた。
「……っ、やめ」
「そんな顔すんなよ。ミナミ」
すぐに柔らかな下唇を|食《は》んで吸う。ちゅっとした音が響いて、ひらいた口先から舌を伸ばしてつつくと、びっくりしたように縮こまっている舌に笑いそうになった。かわいい。好きだという感情がこみ上げて、片手で水を止めながら、さらにキスを深める。
足先から冷たさが伝わるものの、じんわりとした熱が絡みつくように溢れてくる。濃厚な触覚を愉しむように角度をかえて、ミナミの顎をつかんで引きよせた。ひくひくと動く舌尖をとらえては噛んで、こぼれていく甘みを味わうようになんども吸ってしまう。
「……ンッ」
「……好きだ」
あえぐような息づかいが漏れでて、体が溶けていくように気持ちいい。心があでやかな思いに吸い込まれていく。
身をのけぞらせて、逃げようとするが覆いかぶさるように動きを封じて、さらに唇と唇を触れ合わせた。
「……ぁ、っ、はなっ、せ」
「いやだ。久しぶりのキスタイムだからな。元気だせよ。そんな落ち込むなって」
「……っ。ちがう、落ち込んでなんかいない」
シャツ越しから、きらりと光るピアスがみえ、ずきりとした熱が身体を電流のように走る。このまま触れて、ここで抱いてしまいたい。しかしながら、ふっくらと腫れた患部が目について、ユージは慌てて首を振って理性を働かせる。
「エロいけど、おあずけしとかなきゃな」
「……っ」
きっとした目で睨まれた。
途端、インターホンの音がひっきりなしに響いてびくりとミナミの体が揺れた。
「やべ、寿司がきたな。つうか、オレも濡れた。このままシャワー浴びねぇ?」
「……断る。さっさと受け取りにいけよ」
「ちぇっ、もっとイチャラブしたいと思ったのに!」
「いいから早くいけ!」
「へいへい、寿司もらってきま~っす」
ユージはひらひらと手を振って、その場をあとにした。
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