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第二十三話 初深雪溶ける

 大儀(たいぎ)そうにむっくりと起きると、ユージがべったりと体を押しつけて寝息を立てていた。 整った顔がキスしそうな距離にあり、思わずぴくっと体が動いてしまう。どうしてこうなった。酔っぱらったのか、ほとんど記憶に残っていない。  起こさないように着替えると、のっそりと相手も目を覚ます。それから大変だった。  数えるほどもない恋愛遍歴を口やかましく訊かれて、いつ、どこで、だれとつき合ったんだとあれこれと五月蝿(うるさ)い。  ミナミはうんざりした表情で、おせちの前に置いた箸袋から割り箸を取り出すが、延々と小言を浴びせてくる。出かけようとしてもしつこい。挙句の果てに吐き捨てるように言った言葉はこれだ。 『とにかく、今月中に夜の仕事はやめろよ!』  うっとおしいと払いのけると無理やりキスしてくる、そんな正月の朝だった。それから病院へ足を運び、日向の見舞いに顔を出す。そして時間に追い立てられながら、夕闇に染まりはじめた空の下、プラチナへ向かった。 「……、くん。ミナミくん。……大丈夫?」 「……っ、あ、はい」  はっとして、現実に呼び戻された。  顔を覗き込むように長谷川が心配そうな視線を送っている。 「ぼぅとしていたから風邪かなって心配したんだけど、ちゃんと休めてる?」  びっくりした目できょとんと見つめ返すと、長谷川は眉をよせて尋ねる。  シャンパンのボトルは栓を抜かれて、斜交(はすか)いには色鮮やかなフルーツが皿に盛りつけられていた。 「……大丈夫です。ちゃんと寝ましたから」 「いやいや、僕こそお正月から指名なんてしちゃってごめんね」 「いえ、仕事も休みなので気にしないでください。長谷川さんから連絡がきて、うれしかったです」  にこっと柔らかい笑みを口もとに見せた。  正直なところ、元旦から布地の少ないコスチュームに袖を通すのもなんだかな、と着替えるときに顔をしかめていたのが事実だ。  シャンパンのバックをつけても、五万以上の給与が稼げるとなってはしょうがない。「一年の計は元旦にあり」というが、今年こそは時間から追われる日々に終わりを告げられるのだろうか。ミナミは自分の両手をふうっと見下ろした。 「あはは、冗談でもうれしいな。ありがとう。独り身だから寂しくてさ。犬も飼っているんだけど、知人が寂しいからって預けているんだ。昨日なんて、一人で映画を観てのんびりしていたけど、一日中ひまでしょうがなかったよ」 「そうなんですか。映画ってどんなジャンルですか?」  ヒューマン映画だろうか。静かで落ち着いた雰囲気の長谷川に似合うものを頭のなかで思い合わせる。 「う~ん、キスの果てっていうのかな? 運命の番同士が結ばれる恋愛モノ」 「あ、それ、俺も見たことあります。奇遇ですね」 「ミナミくん観たの?」 「ええ、昨日観ました」  ミナミはしれっとした顔で、空になった長谷川のグラスにボトルを傾ける。美しい泡と透き通った色が細長いフォルムのフルートグラスに浮かぶ。  正月のせいか、客もまばらで本指名の嬢がほとんどだ。いつもは木々の葉のようにざわめく店内もひっそりと息を潜めておとなしい。 「結構泣けるよね。真実の愛っていうのかな……」 「……そうですね。アルファの一途で、ひたむきな愛に泣けますね」  真実の愛か……。  ミナミは困惑した表情で言いよどむ。  視線の先に陽気な泡がグラスのなかで弾けていくのが見えた。 「子供っぽいかな? この歳で柄にもないんだけど、泣いてしまってね……。恥ずかしいな」  長谷川は照れたように肩をすくめて、くすっと笑った。  休日だからか、デニムシャツにボルドーニットを上に重ねたトラッドなスタイルに身を包んで、いつもスーツの平日と比べてどこか抜けてみえた。  黙っていれば美術館にでもいそうなのに、どうしてか場末のセクキャバであるプラチナですらりと伸びた長い足を組んでいる。雅やかな佇まいで腰を下ろす姿はどこか異国の紳士のようにも見えた。 「捨てられた恋人の幸せを願い続けるところが素敵でしたね」 「そうそう! ベータ役の俳優の演技もいいんだ」   うんうんと深くうなずく長谷川に、ミナミはぼんやりと内容をつぶやいた。ユージが口にしていたセリフ。  鼻を鳴らして、感動に打ち震えているユージを思い出しそうになって笑いをこらえてしまった。 「ベータもそうですけど、いいですよね。運命の番って……」 「うん、いいよね。……実はさ、僕と妻もそうだったんだ」 「あ……」  長谷川が妻帯者だったことに、今更気づく。普段は趣味のバイオリンや昔やっていたという野球談議に花を咲かせていたので、話題にも出なかった。 「ああ、もう亡くなっているんだけどね。色々あったんだけど、運命ともいえる存在だったよ」 「……そうなんですか」 「映画の内容そのままだよ。結婚していたのに、運命の番である妻に出会って、逆らいもせずに、家庭を棄てて出た。ひどいよね。子供もいたし、映画みたいに美しい物語でもない」 「こどもがいたんですね……」  言葉が喉につかえる。 「そう、もう顔も憶えてないよ。妻の姓を名乗って、会社を起こした最低な経営者だよ。だからほそぼそと楽しんで過ごしているかな」 「……そう、ですか」  なんと返せばいいのか言葉が見つからない。  自分も父の顔なんてもう憶えていない。なんとなく、肩を震わせて泣いている母が瞼のうらに浮かんだ。大きな手のひらと手渡されたグローブしか記憶に残されていない。 「ごめん、正月から陰気くさいよね」 「いえ、胸につかえたものをたくさん吐き出して欲しいです。普段言えないことも話して肩の荷をおろしてください」 「本当? 物淋しいおじさんって思わない?」  長い指を折り曲げて、長谷川はグラスを口もとへよせる。その仕草が艶っぽく、のんびりとした感情がたゆたう。 「そんなこと思ったりしませんよ。俺こそ年初めからシャンパンを飲めて幸せです」 「そう? ああ、そうだ。土曜日とか空いてる? 行きたい店があるんだけどどうかな? 忙しい?」  グラスを傾けながら、おもむろに顔を近づけ、じっと見つめられる。甘く絡む視線をそらすと、ちいさな泡が消えては浮かぶ。  ……土曜日か。  指名が入ったのだ。本来は喜ばなけばならない。同伴という言葉が、どうしてかミナミの胸を重くする。 「あっ……」 「やっぱり、すぐに返事は無理かな?」  ミナミは首を振って、よぎる考えを振り払った。 「……いいですよ、大丈夫です」 「そう? なら店を予約しとくよ。最近、飼い犬がなかなか懐かなくて淋しいんだ。上手くやっているつもりなんだけど」 「へぇ、犬ですか。一匹ですか?」 「いや、何匹か飼っているんだけどね。こないだなんか、隙をみつけて居なくなってしまったんだ。知り合いに探させたらなんとか見つけてくれて、ちょっとお仕置きしちゃったよ。そろそろ広いところでも預けようかなって考えているんだ」  そんなに頻繫に犬が逃げ出すことがあるのだろうか。ミナミはどこか釈然としない顔をした。 「……あの、大型犬なんですか?」 「いや、普通のやつだよ。気になる?」  瞬間、長谷川の黒々と沈んだ瞳が妖気に満ちる。ぞくっと鳥肌が立った。なんだ? さすがに正月からこんな格好は寒いせいか。ミナミはこほんと空咳をした。 「あ、いや。結構やんちゃな犬ですね」 「はは、負けん気がつよいのかな。けど、ミナミ君、だれと一緒に映画を観たの?」 「……だれと?」  軽やかな笑みを浮かべて長谷川は口もとをほころばせた。ひくりと乾いた空気が喉にはりつく。 「いや、妬いているのかな。ごめんごめん、ささ、もう一度乾杯しよう」 「……あ、はい」  向けられたグラスを目線に持っていく。口に運ぶが鉛を流し飲んでいるような気分だった。 長谷川はそのまま、サービスタイムも体に触れることなく、酒を飲んで二時間ほど延長して帰った。

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