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第二十四話 千両役者の鏡

「バイアス、出禁になったんだね」  長谷川が立ち去るのを見送って、更衣室に足を踏み入れると背後から声がした。 「は?」  かけられた声に顔を上げて、ミナミは振り返る。ドアに背中をくっつけた苺が退屈そうに煙草の煙をふうっと吹いて、青白い煙をゆらゆらと漂わせていた。 「みんな噂していたよ。『お金すら持っていない、君みたいな地味で面白みのない奴、相手にもされないクセになにしに来たの?』って。しかも他のアルファのにおいまで付けてやって来るなんて非常識だよね~。ムカつく」 「……においってなんだよ」  ミナミの藍色の瞳が深い青色に変わる。 「あ~やだ。べったり付いているの気づかないんだ。枕しているって噂になっているし、それで出禁になったんじゃない」 「勝手なことを言うな」  苺は嘲笑うかのように冷ややかな視線を送ってくる。……マクラ。なんだそれは。確かに一回したが出禁ってのもなんだ。 「勝手なのはそっちでしょ。間違ってもユージには近づかないでね?」 「ユージ?」 「そう、ユージ。超絶かっこよくて、トークも落ち着いて癒される最高のホスト。知らない?」 「興味ない」 「ふーん。ま、ミナミは枕営業で客を掴んで、ホストに来るベータだよってネットに書かれてたしね。それ、ユージにも教えたから大丈夫かな」  くすくすと含み笑いをして、すました顔のユージをスマホで見せる苺にイライラが募る。そのホストならここに呼びつけ、|熨斗《のし》を付けて投げつけてやりたい。 「やっぱり、あの客も枕予定?」 「ちがう」 「へぇ? 桃の客を取ってよくそんなに堂々としているね。あ~あ、モモがかわいそう」 「……かわいそう?」 「そう、気の毒に思わないの?」  眉間に不快の色が漂う。胃の中の炭酸が抜けて気持ち悪い。苺は蔑むような微笑みを浮かべてぷかぷかと一服した。 「あれ? 平気そうな顔しているけど、大丈夫? 桃のうわさ、聞いてないの?」 「それ、どういう……」 「苺さん、指名です」  その時だ。横合いから黒服が口を出した。 「は~い。そんなに心配するなら自分で調べたら? 貧乏ひまなしっていうけど頑張りなよ。じゃ、指名が入ったからバイバイ」  苺はひらひらと白い手を振って、軽快な足取りで黒服のもとへ歩いていった。  店長室へ顔を出すと指名もないので上がっていいと言われ、ミナミは手早く着替えを済ませて外へ出た。 「さむっ……」  白刃のような夜風がひんやりと頬に触れた。  ……においってなんだ?  なんとなく、病院での日向の様子が目に浮かんで、へんなことを口にしていたのを思い出した。 『……兄ちゃん、みかん食べた?』 『みかん?』 『うん! ほんのりあまい匂いがする』  そう言って、くんくんと小さな鼻をすりつける。そのときは蜜柑なんて食べておらずミナミは首をひねった。熱をもった頬を軽くなでながら、そうかな? と、とぼけた笑みを浮かべてみせた。  本当は匂いよりも頭の中は金のことでいっぱいだった。わかっているが、どうしても小切手を受け取るのはいやだ。  でも、そうも言ってられない。病院の保証金を払って、海外へ渡航して手術するべきで、そうなると日向につき添う保護者は自分しかいないので長期休暇も必要となる。 「……プライドとか今更だよな。覚悟しなきゃな」  ぐっと生唾を飲み込むと、冬の乾いて硬くなった空気が喉奥にも伝わる。周囲を見渡すとどっぷりとふけた夜に赤や青の灯がちらばり、タクシーの空車が目立った。  残った寿司は昼に食べたし、夜は簡単な作り置きを冷蔵庫にストックしている。かと言って、このまま帰ってまとわりつかれるのも気が滅入る。  帰りたくないな。  ユージのメールや着信が減ったかわりに、共有アプリの入力をこと細かに指示されていた。とりたてて仲の良い友人もいない。仕事でしか埋まらないスケジュールまでも把握しようとする。つき合っているというが、つくづくうんざりする。かるくバットを振りたい気分だったが今日は元旦で休みだ。 「せっかくだし、なんか食べていくか……」  路地裏を曲がり、連なる看板の下を歩くと来々軒の赤提灯がぶら下がっていた。|燦爛《さんらん》と輝くのが目に飛び込んできて、無性に腹が減っているのに気づく。  がたついた扉をあけて足を踏み入れると、店内には客が一人、短髪のスーツに身を包んだ男がラーメンをすすっていた。  ついと男と目が合った。  ……あのホストだ。 「あっ……」 「……」  お互いの視線がからみあうが、ミナミは無視して男に背を向けて腰掛ける。無骨な顔の店主にラーメンと伝えるやいなや、よく冷えたグラスをどんと出された。スマホをポケットからまさぐって出すと、メッセージがぽっと画面に浮かぶ。 『なんでまっすぐ帰ってこねぇんだよ』  なんでってなんでだよ……。  片肘をついて、意味もなく顔をしかめた。  朝から過去の恋愛を訊いてきたり、しつこく予定を把握しようしたりする。そのまえに小切手だ。それがぐるぐると頭を悩ませる。もらっていいのか、だめなのか……。  いや、日向の心臓を治すべきだ。それが先だ。どうやってもすぐに三億なんて金額は手に入らない。でも、自尊心はわずかに残っている。  ……そんなのやっぱりゴミみたいなものか。 「あの、ミナミさんですよね?」  定まらない考えを繰り返しながらスマホの電源を切ると、にゅっと横から顔をだしてきた男と目が合った。 「……そうだけど。あんた、あのときのホストだろ?」 「あ、そうです。ケンです。聞きたいことがあるんですが、ここに座っても大丈夫ですか?」  こつんとかるくカウンターを叩いた。後ろを振り返ったら、すべて食べ終わったのか空のどんぶりに箸が行儀よく置かれていた。 「……なに?」 「あ、いけない。あけましておめでとうございます。お店で会ったきりでしたね。ミナミさんのことはユージさんから色々と伺っています」  ぺこりとお辞儀をしたかと思うと、隣の丸椅子に腰掛けた。色々ってなんだと胸のなかで毒ついたが、ネイビーのスーツが好感を与え、そこだけ寂れたラーメン屋とは無縁のさわやかな空気が漂う。 「ユージ?」 「同じ店で働いていて、大学の後輩なんです。頼りがいがあって、優しくて尊敬しています」 「……そいつ別人だろ。俺の知っているのはアホで、しつこくて口が悪い奴だよ」  深々とため息を洩らして、グラスを引き寄せて水を一気に飲み干した。 「いや、あの……。アキ、いや、桃のことを聞きたいんです」 「桃? おまえ、桃の知り合いなのか?」  うつむいていた視線を上げて、男の顔を正面から捉えた。お人よしそうな顔に沈んだ色が浮かんでいる。日向のことばかりで、すっかり桃のことを忘れていた。 「……僕と桃は幼馴染なんです。こないだ店にあなたと来ていたので、知り合いなのかなって驚いたんです」 「あのあと、桃はどうした?」 「……消えました。トイレに行ったきりいなくなってしまって、それっきりです。なにか言い残してたり、しゃべったりしていませんか?」  消えた。その言葉が耳の奥までこだました。  ユージは知らないと言っていたが、そういうことだったのか。 「いや、なにも言っていない。桃、なにかヤバいことでもしたのか? それとも事件にでも巻き込まれているのか?」 「恋人の連帯保証人になってしまって、多額の借金を背負っていたようです」 「恋人って男か?」  大事なところでラーメンが目の前に置かれる。ミナミは視線をそらして、割り箸をわることもできずに黄金色のスープに視線を落とした。視界が白い湯気で|靄《もや》のようにおおわれる。 「男です。ずっとその借金を返済してきたようなんですが、債権者が変わって……」 ケンはきゅっとうすい下唇を噛んだ。 「変わってどうした? 桃、店では結構稼いでいたはずだ。金には困ってなさそうだった」  レギュラーメンバーだった桃は月百万円以上稼いでいたはずだ。住まいも寮のマンションで、狂ったように借金するなんて考えられない。ただ、男運だけが悪かった。 「返済していたんですが、利子が膨らんでそれで執拗な催促に悩んでいたそうです。それで……」 「それで?」 「……飼われているんです」 「飼われている?」  力ないつぶやきがミナミの口から漏れた。 「そ、うです」  ケンがうなずいた。  桃はオメガだ。確かユージは『飼われたオメガを探している』と言っていた。 「多頭飼い」という文字が頭に浮かぶ。オメガを番にして服従させ、ボロボロになるまで使って捨てる。 「桃、うなじを嚙まれてた。相手はだれだ?」 「わかりません」 「わからない?」  分からないってどういうことだ。首を横にふるケンに顔を近づけ、ミナミは苛立ちを含んだ眼差しを向けた。 「あ、いや目星はついています。とにかく金を返済しない限り、解決は無理だと思います」 「いくら?」 「え?」 「借金はいくらなんだ」  怒ったように言って口をつぐんだ。 「三千万です」 「……三千万か」 「でも利子があるからさらに膨らんでいるのかもしれないです」  あの小切手の一部を貸せば返済できる。いま必要な金はまずは病院の保証金で、それから徐々に支払う予定だ。ミナミは眉を寄せて、考え込んだ。そして、ぽつりとつぶやいた。 「かすよ」 「え?」 「貸すんだ。あとで返済してくれればいい」  ケンはあまりにも意外な言葉に信じらないとあっけにとられて口を半開きにしている。ミナミこそ自分の口から漏れた言葉が信じられない。貸すなんて、資金はあの小切手しかなく、いい替えれば又貸しだ。 「……いいんですか?」 「いいよ。モモを助けよう」  まだ湯気がゆらゆらと揺れるラーメンに視線を戻した。すっかり伸びて柔らかくなった麺。ぷかぷかと冷えた湯に浸かって、死体のように白く浮いてみえた。

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