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第二十五話 男、水泡に帰する

 その夜は連絡先を交換して、会う日を約束した。  まずは債権者と桃の行方を捜さなければならない。  『やっと会えたのにまた振り出しに戻りました』。と、ケンはひどく疲れた顔で言い残し、駅のホーム階段をのぼって行ったのを覚えている。  飼われているってなんだ……。  人けがない駅の構内を歩いて、ミナミも最終電車に滑りこむ。車内を見渡して、隅の背もたれに腰かけた。体をあずけてぼんやりと考える。  多頭飼いって言っていたな。  窓へ視線を投げると、深い森のような暗闇から色みを消滅させたビルが立ち並んでいた。  連帯保証人なんて、いくら好きな奴の為でも理解できなかった。  が、借金だけは避けていたのに、ついさっき小切手を現金へ換えようとした自分を思い出して頭を振った。同じだ。家族も恋人も。大事な人だからこそ、そうしたかったのだ。  桃も自分も変わらない。  ユージのマンションに同居していなかったら、自分も同じように金の工面に走りまわっていたに違いない。  ……桃の(つが)いをどうやって探そう。  一度うなじを咬まれると、オメガは自分自身が死ぬまで番いという契約に縛られる。桃の客をたどれば耳新しい情報を得られるか……。  車両がゆさゆさと揺れて、知らないうちに最寄り駅に着いた。ミナミはおぼつかない足取りで歩く。  少し見上げると闇を溶かした夜空が一面を覆い、暗くも輝かしい赤みがかった紫が天の川のようにまばゆく彩る。ひんやりと冷たい夜気が頬に触れ、どんどんと歩を進めて、マンションのエントランスホールを抜けた。  エレベーターに乗ったのも束の間、すぐに目的階に到着する。この日常も慣れた気がしたが、バッグからメールの振動音がぶるぶると伝わり、どっしりと重い荷物のように感じてしまう。  カードキーを差し込んで扉を開くと同時に男の声が耳に響いた。 「おい、ミナミ!」 「……っ、なんだよ」    思わず舌打ちが漏れた。賃貸情報と書かれた雑誌を手にして、ユージが仁王立ちになって怒鳴る。 「引っ越すなんて聞いてねえ!」  鮮やかな淡い緑の眼をかっと見開いて、頑丈な壁のように立ちはだかる。尖った声がひときわ大きく聞こえた。  靴を脱いで横切って歩こうとしたが手首を掴まれた。強く握られ、しびれた感覚が走って苦痛を帯びた表情に変わる。 「……離せ。引っ越しはするって決めていたんだ。いつまでもここに住んでいられないから、探すのは当然だろ」 「なんだよ、その言い方! しかもなんでラーメン屋に寄るんだよ。スケジュールに書いてねぇじゃん。俺を誘えよ!」 「なんでって……。大体なぁ、どうして理由もなく家にいるおまえを誘わなければならないんだよ」  うんざりするように目を伏せると気に入らないのか、どんっと後ろに体をおしつけられた。長軀を押しつけられ、息苦しい圧迫感を腹部に感じ、背中からひんやりと冷たい外気が洩れて貼りついてくる。 「めんどくさいってなんだよ。ラーメン屋で誰かと会ってたのか?」 「……べつに誰と会ってもいいだろ。しつこいんだよ。予定だってちゃんと伝えている。メールもしている。おまえがしたいって言っていたことはすべてやってるだろ。自由な時間ぐらいあってもいいじゃないか」  思わず嘆息をついて、足もとに視線を落とした。真っ新のレザースニーカーを踏んづけて、形がぺしゃんこにひしゃげていた。話す気力も失せてしまい、体に蓄積した疲れがどっと押しよせた。  正月から勘弁して欲しい。  落ち着いてトークが(うま)い男なんてここにはいない。人の気持ちを考えない只のガキじゃないか。 「デートがしたい」 「は?」 「デートだよ」  時と思考が停止した。背骨が軋むぐらいぐいぐいと体を押しつけられて、整った顔が近づいた。二度も同じセリフを吐く唇にひたっと視線をむけた。 「あのな、そんなの同伴でたくさんしただろ。却下」 「じゃあキス」 「……じゃあってなんだよ、じゃあって。却下」 「ぜんぶダメじゃねぇか」 「全部ダメだ。とにかくどいてくれ。俺はシャワーを浴びたいんだ。明日も仕事だし、寝たいんだよ」  目の前にまばゆく(きら)めく銀髪がまぶしい。眉根を寄せながら、じろりと睨む。 「はぁ? 仕事ならやめるし、別に行かなくていいだろ。小切手はどうすんだよ?」 「……色々と考えてるよ。それと、金は働いて返すんだから、夜の仕事は辞めない」 「ダメだ。ヨルはやめろ。じゃないと契約不履行だ」  きっぱりと言い切られた。 「……不履行ってあほか。三億なんてすぐに返せないだろ」 「なら、オレのそばにいろよ」 「ならってなんだよ。ならって。大体、家族でもない奴のところにずっと住めないだろ。日向が退院したらアパートを借りて一緒に暮らすって決めてるんだ」 「弟も一緒にここに住めばいいじゃねぇか。三人で仲良く暮らそうぜ」 「バカ。弟はオメガだ。万一、おまえみたいなやつが番いになったらどうするんだ。もしそんなことになったら、俺はおまえを絶対に許さない……」  日向の屈託ない顔が瞼のうらに浮かんで、ミナミはむすっと黙り込んだ。 「なんだそれ。ヤキモチかよ」 「……ちがう。そもそも俺はおまえを好きじゃない」 「は?」 「は?」  お互いの視線がかち合う。 「好きじゃないってなんだよ」 「そのままだよ。どけ! シャワー浴びて寝たいんだ」  ミナミはどんと立ちはだかるユージを押しのけようとしたが頑としてどかない。 「もう一度聞く。好きじゃないって?」  整った顔に冷たさを増して、男は(とが)めるような厳しい目つきで聞きただす。 「言葉通りだ。俺は恋愛している暇もないし、それどころじゃない。遊びたいなら他を当たってくれ」 「いやだ。他の奴なんていない」  聞く耳を持たない。話が一向に通じない。なにを言っても無理と顔に張り付いてみえた。 「子供か」 「……ガキじゃねぇし」  むにゅっとした柔らかな感触が唇から伝わった。ユージは肩を壁に押しつけて、服をまくり上げる。服の裾を持ち上げて手を差し込んできた。身をよじって愛撫しようとする指先を避ける。 「……っ、やめろ」 「いてっ!」  がりっと解けた唇を噛んだ。鉄の味が広がったのに、みるみるうちに舌が深く這入ってくる。 「やめろ」  顎を引いて、弾かれたように唇を離す。 「……いってぇ! 思いっきり噛んだな。考え過ぎなんだよ。どうせ(ろく)でもないことにこだわってるんだろう」 「俺はこだわるんだよ。そもそも、俺はベータだ。男のオメガのように男を受け入れることなんてできない」 「別にバースなんて関係なく誰を好きになってもいいだろ。そんなもの理由にもなんねぇよ。つき合ってから順調だし、障害なんてねぇだろ?」 「そういえば、そんな関係だったな。……順調ね。なら、なにが不満なんだよ。ヤれば満足するのか? 枕営業しているって見たんだろ?」 「信じてねぇよ。おまえはそんな奴じゃない」 「おまえだって、俺に金の為ならなんでもするって言ってただろ」 「それは……」 「答えてやるよ。そうだよ、俺はなんでもする。身体だって売るし、プライドなんてない」  胸の底から溜まった黒い泥が泡となって湧いてくる。借りたくもない金のせいで性格までも変わったのだろうか。新年になったばかりなのに、遣り場のない鬱憤をここで晴らしてどうする。 「ミナミ、落ち着けって」 「弟のために働いてなにが悪い。好きとかどうでもいいんだよ。興味本位で近づいて、遊んで捨てるんだろ?」 「ちがう。俺は本気で好きなんだ」 「好きなら、諦めろよ。俺ならそうする。バースも価値観も違う。好きでも、相手の幸せを願って離れるのも一つの愛し方だ」 「そんなの愛じゃねぇ」  いすくめられたように体を固くするユージがいた。 「じゃあ、ここでセックスするか? 体を重ねたら満足するってことだろ」  解放された手で頭をがしがしとかくと、ぐっと相手の喉が動いた。煩悶するような表情が動いて、ユージは首を横に振る。そしてポツリとつぶやいた。 「いやだ。満足しない」 「ならどけ」 「俺は本気で好きだ」 「ホストがよく言うセリフか? とにかく今日からソファーで寝る」  気分が下がったのか、落ち込んでゆるむ腕をくぐり抜けて、ミナミはその横を素通りした。

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