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第二十六話 縁の目には霧が降る(一)
ぼりぼりと頭を掻くと、ため息が唇から漏れた。
ユージは寝室奥にある書斎に引きこもり、課題の仕上げに忙殺されていた。肩は板のように凝り、いつの間にか部屋全体が薄闇みに包まれ、窓に視線を向けた。澄みわたった夜空に冴えた月が氷のように浮かんでいる。
まったく頭に入らねぇ。
山ほど溜まっていた大学の課題に視線を戻し、また長いため息を重ねた。今日で六十回目だ。
三人で暮らしてもいい、そう思っていた。その言葉に嘘はなく、ありのままを述べた。……はずだった。
それなのにミナミは憤然と色をなす。
番 いなんてなんねぇし……。
弟がオメガだとしても、番いになるなんて絶対にありえない。大げさだ。発情期なんて薬で抑えればいいし、店でヒートを起こして倒れた客をたくさん見てきた自信もある。
いや、そんなんじゃねぇな……。
そんなことで怒っているわけではない。そんなのはユージでも分かっている。一日中ぐるぐると考えあぐねいているせいか、課題は一向に進まない。
水でも飲もうと、机の上に乱雑に積まれたメモやノートを寄せて書斎を出た。取り替えられたシーツを尻目に寝室を横切り、リビングに足を踏み入れると深い森の奥底のような空気が漂う。
……まただ。まだ帰ってきてねぇ。
シーリングライトをつけると、白色めいた輝きが部屋を照らし、しずまった夜気がひろがっていた。右手に歩いてテレビボード前のソファーにどっかりと腰を下ろし、近くにあったペットボトルに手を伸ばした。キャップを回すと小気味いい音が耳に触れた。
くそ! 早く帰ってこいっつったのに、なんであんなに頑固なんだ。
つき合うという意味をまったくもって理解してくれない。さらに、よかれと思ってしたことがフルで裏目にでてしまう。
不器用で頑固。それは自分もだが、どうしても解 せない。
どうして完璧といわれる自分がこうも邪険にされるのか、ユージには判 らない。なにかにつけて片意地を張り、あの日から会話を交わそうとせず、キスもさせてくれない。熱り立つことなく、悠揚として落ち着いているのがことさらに怖い。
朝食を拵 えると、わずかな隙もないままミナミはマンションを出て行ってしまうし、早く帰れと言っても、夜遅くに帰ってくる。
ぬるい炭酸水が咽喉を滑って胃の中へ流れ、またあおるように飲んで、ユージは舌打ちをする。
なんでオレばっかり、…………好きなんだよ。
なんか、ほっとけねぇつうか……。つうか、なんつうか、その……。
――かわいい。
剣幕を見せながら威圧的な言葉を浴びせられても、すべてが愛しい。せつなく思うほどに愛しさで胸が締めつけられる。
ミナミを守りたい。離れるなんて許せない。
金だけ受け取って、そばにいればいい。離れようとするたびに引き留めて繋いでおきたくなる。そんな思いに駆られて、ついつい位置情報を確認してしまう自分がいた。
ダメだと思いながらもミナミがどこにいるのか、何度も眺めた。そうするたびに会いたい気持ちが膨れあがり、早く帰ってこいとメッセージを送ってしまいそうになった。
対してミナミはプラチナが終わると来々軒に立ち寄り、バッティングセンターで時間を潰してから帰ってくる。
どうしてか、まっすぐと帰って来ない。
賃貸情報誌を目にしたときは頭にかっと血がのぼって、つい口を出してしまった。いまは仲直りしたいと黙っているが、ミナミの行動に納得がいかない。
……行くなって言ったのに無視しやがる。
ユージはすべて飲み干して空のボトルを叩きつけるように置いた。
何不自由なく面倒を見ているのに、思うように動いてくれない。客なら目尻を下げて喜ぶのに、肝心の相手には全くといっていいほど通じない。そんなミナミに無性に腹を立てながらも、いいように振り回されているのはわかっている。
恋人だってのに、うまくいかねぇし……。
体を繋げて愛していると伝えても、心まで届いてくれない。好きじゃないと言われても、灼けつくような熱は一向に冷めない。こわいくらい完璧と褒めたてられていたが、その自分がすべてを捧げようとしても手に入らない。そんなじれったさに自嘲を含んだため息が漏れ、昼間に受け取った書類が目に飛び込んだ。
「やっと来たな」
ユージは封筒を手に取り、折り目がない郵便物の厚みを確認した。
(ケンジに頼られた件も早く解決しねえとヤバいな……)
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