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第二十六話 黒雲を引き寄せる

「……ヒートですか?」  顔から訝しげな色が消えず、ミナミの声が低くこもる。消毒液の匂いが漂い、蛍光灯が青白い室内をわびしく照らしていた。  白衣に身を包んだ医師は落ち着いた表情で頷いた。 「そう、発情期(ヒート)だ。海外渡航の件だけど、いまはタイミングが悪すぎる」 「タイミングって……」   どくどくと心臓が鳴動し、ミナミは力なく肩を落とした。日向はまだ十二歳で、バース検査をしたばかりだった。まだヒートを迎えるには幾分かはやい。  ……タイミングって、今さらなんだよ。ここまできたのに、結局ついてないってことなのか。いや、そんなのずっとだ。ずっとついてない。  朝から銀行に足を運んで、封筒に入っていた小切手を取り出して現金に換えた。窓口が混雑しているなか、やっとのことで手術に必要な保証金を指定口座へ送金しようとした矢先、病院から連絡がはいった。すぐに来てほしいという言付けに急ぎ足で向かったのに、目の前の医者は歯切れの悪い声を落とした。  汗ばむ手のひらをつよく握って、視線を下へ落とした。ミナミの顔に暗い色が流れる。 「微熱が続いているし、恐らく始まったばかりだと思う。いまは抑制剤で症状を抑えているけど、薬の血中濃度が高まっていくと副作用で容態が悪化するかもしれない。大変申し訳ないけど、体への負担を考慮するべきだ。海外への渡航は一旦中止したほうがいい」 「あの…………。助かるんですよね?」  医者が言い終わらないうちに口をひらいた。とがめるような眼差しで聞き返したが、医者は首を横に振ってその視線をわずかにそらした。 「……断定はできない。なんにせよ、ヒートの症状が重くなると血流が早くなって心臓に負担がかかるんだ。ましてや初めての発情期となれば予測ができない」 「……予測って、それはいつまでですか? 弟はあと半年しか生きられないって、こないだまで言っていましたよね……」  初めてこの人の善さそうな温和な医者に対して歯向かった気がする。膝が小刻みに震えて、半立ちになった姿勢を直した。 「すまない、いまはそれしか言えないんだ。とにかく、様子を見て対応するしか……」 「……そんな」 「もちろん発情期が終わったら、再度検査をして手術への支援を尽くすよ」  丁寧に頭を下げられて、それ以上の言葉を言いかけて吞みこんだ。机上に置かれた新しいカレンダーが目に入る。新年から数日しか経ってない。ミナミは深々と頭を下げた。 「……わかりました。ありがとうございます」 「なにかあったら、すぐに連絡するよ」 「………はい」  沈鬱な静けさに包まれるなか、ミナミは一礼してその場をあとにした。なにかとは容態が急変したときだ。弟の余命はわずか数か月しか残っていない。最悪なことを考えながら扉を閉めると、銀縁眼鏡をかけた担当医師の申し訳なさそうな顔が細くみえた。  重い足取りで日向の病室に向かった。病棟の間にある自動ドアを抜けて、うすら寒い廊下を歩いているとにぶい音がしてポケットをまさぐった。スマホが振動し、手に取ると名前はユージだった。 「…………なに?」 『なにって……ってそんな言い方ないだろうが。今日は用が済んだらまっすぐ帰って来いよ』 「わかった」 『それと明日のスケジュールもいれとけよ』 「わかった」 『あ、あと酒も飲むなよ! おまえは酔ったら、き、キス魔にな……』 「なるわけないだろ。おまえの客と間違えるな」 「ちげぇよ! ミナミ、酔ったらエロいじゃん!」  あれだけ言い聞かせたのに、いまだにしぶとく連絡してくる。酒なんてめったに飲まないし、酔ってもそんな醜態をさらしたことなどない。 「アホか。恋愛脳もほどほどにしろ」 『オレは真剣に言ってるんだ。とにかく、酒を飲まないで帰ってこいよ』 「……わかったよ。とにかく落ち着け」 『冷静だっつうの! ケンにも喋っておくから、連絡きたらすぐに教えろよ。つうか、久しぶりに外でメシでも食おうと思ったのに、こんな日に限って同伴が重なるなんてついてねぇな。あ、門限に遅れたら迎えに行くからな!』  勝手に門限なんて決めて、あきれて声もでない。軽快な調子で食い下がってくる相手に沈んだ表情がすこしだけゆるんだ。 「子どもじゃないんだから、心配し過ぎだ。帰るとこなんてそこしかないだろ……」 『そうだ、ここしか帰るところがないんだから必ず帰って来いよ! 帰ったらうちで飯食って、今後のことを話し合いたいって思ってる。おまえの弟のことももっと知りてぇしな』  意外にもユージは面倒見がよく、誠意を尽くす人間だった。  昨夜、ケンと会っていることに気づいたユージは弁護士と話を進めている旨を打ち明けてくれた。激しい言い争いはなかったが、余計なことをするなと注意を受けてしまった。 なにもしないだろうと決めつけていただけに、ミナミは不意打ちを食らったようにびっくりした。 「……わかったよ。じゃあな」 『いいか、仕事が終わったら必ず電話しろよ。約束だからな!』 「……しつこい。病院だし、これから仕事なんだ。切るぞ」 『クッソ、オレが一緒のはずだったのに! 場所はどこだ?』  間髪入れず、ユージの声が重なった。 「日本橋」 『はぁ? なんでそんな遠いところなんか行くんだよ』 「しらん」 『そんなの近場でいいだろ。ちゃっちゃっと終わらせて済ましておけよ。ま、オレが連れて行った店みたいなとこじゃないのは確実だな。あそこは予約必須で会員限定で食材も一流だからな。お、おまえが腹を空かしてそうだから、特別に……』 「病院だから切るぞ」 『まて! 相手って……』 「いつもの客だ」  尖った声になり、煩わしくて切った。そういえば個室の見晴らしのよい個室だったなと思い出したが、いちいちかまってもいられない。  白い壁を眺めながら、まっすぐに歩を進めて、ぴたりと立ち止まる。病室を確認して、一呼吸ついて個室の扉をひらいた。小さな体を横にして窓に視線を投げている日向がいた。 「にいちゃん……」  頬は赤らんで、熱い。点滴チューブが細い腕に繋がれていて痛々しい。窓の外は凍てついたように寒くて沈んだ空気が漂い、脆い陽ざしが消えかかっていた。 「待たせたな。大丈夫か?」 「うん。みんな、ちょっと熱が出たぐらいで大げさなんだよ。どうせまた退院でも延びたんだろ?」 「……どうかな。もう少しの辛抱だって言われた」  風音が窓を叩いた。冬枯れの木が揺れて、黒みがかった葉が二枚ほど落ちたのがみえた。 「あ~あ、残念。元気なんだけどな~」 「……知ってるよ」 「俺、大丈夫だよ」 「うん」  あいまいな返事をして、ミナミはちいさな手のひらを握った。ほのかに熱い。机上には年末に撮った写真が飾られていて、このときより日向はまたやせた。  日が傾いて、次第に夜が近づいてくる。頭ではわかっているが離れがたい。 「……日向、泊まろうか?」 「いいよ。兄ちゃんの方が疲れてるだろ? 今日はゆっくり家で休んでよ」  くしゃっとした柔らかな笑みがこぼれた。潤んだ瞳を向けられて、胸がツキンと痛んだ。規則正しい心音がミナミの耳に届くが、病状はどんどんと悪化を辿っている。このまま何事もなく過ぎることを祈ってまつしかない。 「ちょっとだけ、ゲームとかさ……」  日向は首を横に振った。ほんのりと甘いにおいが香る。 「いらない。兄ちゃん、そろそろご飯だから帰ってもいいよ」 「あ、そうか……」 「ゲームは今度かな。たっぷり相手してあげるよ。兄ちゃん、いっつも弱いもん」 わざと負けているのも知っているのだろう、日向は困ったようにミナミの手を弱々しく握った。 「……はは、生意気に大人ぶりやがって。そうだ、欲しいものとかあるか? 本とか、ゲームとか……」 「いい、俺、外にでたい」 「外?」 「うん、電車に乗ってみたいんだ」 「電車か……」 「一回も乗ったことないからさ、乗ってみたい」 「そうか……、うん、先生に頼んでみるよ。けど、ちゃんといい子にしてろよ」 「ほんと!? ほんとに!?」  お互い笑って、柔らかな癖っ毛が鼻先をくすぐった。 「ああ、いい子にしてたらな」  耳の奥にまで響く心音が、どうか続いて欲しいと願う。冬枯れの木々がまだ揺れている。冬の日没ははやく、雲のとばりが鈍色の夜を引き込んでいく。  かわってやりたい。そんな切ない願いが胸の底でくすぶった。

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