地下鉄はどこもかしこも押し合うような混雑だった。電車から吐き出されて、ミナミは雑踏をかき分けながら早足で歩いた。 　今日も息つくひまもない慌ただしい一日だった。 　地下通路のなかをひたすら歩いて曲がると、大勢の人間が重くて鈍い足音を立ててミナミの横を通り過ぎていく。スーツに身を包んで並んで歩く男女、全身に疲労があふれている壮年の男。念入りに化粧をして、唇に初々しい色気がにじんだ若い女。無数の人の視線がぶつかることはない。ミナミはただ俯いて前へ進んだ。頭のなかで靄のようなものが絡みついて離れない。日向に悲しい顔をさせて、仕事にいくことがつらかった。 　いや、泊ればよかったと思った。 　たった数日でもいい。新年を迎えたばかりで、いつにも増して昼も夜も忙しいのは承知している。それでもすでに埋まった予定も取りやめて、付き添えるようには掛け合わないといけない……。抑制剤を打てば、そばにいても大丈夫だと確認した。 　そうしなければ、なにがなんでも後悔すると思った。日向を励まして、退院できると嘘をついてでもそばについてやりたい。 　――俺の嘘なんて分かりやすいけどな。 　多分、日向は気づいている。分かっていて、ミナミの嘘につき合っている。あと数日の我慢だと言い聞かせながら、後ろ髪を引かれる思いで病室を立ち去ったが、別れ際の暗鬱な視線がそれを物語っていた。 　嘘を重ねるたびに罪悪感に悩まされる。 　冷えた足を動かしていると、雑音のように会話や笑い声が途切れながら耳に入ってきた。顔を上げると、壁に貼られたポスターが目に入った。人気俳優が柔和な笑みを浮かべてこちらに視線をむけていた。 　バカなのは俺か。 　守ってやる力も金もほとんどない。波に吠える犬のように無力だ。 頼れる奴なんて……、と思ってユージの顔が浮かんだ。いままで一人で頑張ってきたつもりだった。それなのにユージのそばにいるとおかしくなる。あいつは一定の距離なんて保ちもしないで、自分勝手に要求をぶつけてくる。そして赤の他人のくせにぐいぐいと心の奥底に入ってきてはかき乱す。 　だめだな、と思う。 　これ以上、あいつに頼るのはよくない。 　一緒に住んでいるせいか、どんどんと弱気になっていく自分がいた。 　もちろん弱音を吐けば楽になる。でも、そうじゃない。一番つらいのはミナミではない。日向だ。それでも、もやもやと迷った心残りがはけ口を見いだせずにいる。 　弱くなった、と思った。 　ユージの隣にいるとそれが溶けていく。どろどろに溶けた脆くて繊細な感情がむき出しそうになった。 　地上をでると薄闇に沈んだビルが黒い固まりのように並んでいた。突き刺すような冷えた空気が頬に触れた。電燈が煌々と明るく石畳を照らし、冷えた夜気がひろがる。 　急ぎ足で歩くとスマホがぶるぶると震えて、目前の交差点で歩みを止めた。またあいつかと思って、数回のコールを鳴らして出てみるとケンジだった。電話すると伝えたまま、忙しさにかまけて連絡をしなかったことを思い出した。 『ミナミさん、お疲れ様です。……あの、仕事前に少し時間をいただけますか？』 　少しの間をおいて、なんとなく躊躇する声にミナミは眉をよせた。 「わるい、これから客と食事なんだ。急な用が入ってしまって連絡できなくて悪かった。――ごめん」 　信号が青から赤へと変わり、トラックや乗用車がひっきりなしに走りだす。猥雑な喧騒が電話の声をわずかにかき消した。 『……そうですか。あの、弟さん、元気でした？』 「ああ、なんとか大丈夫だよ。いまのところ問題ない」 　曖昧に答えたが、本当は言葉が浮かばなかった。歩きながら話して、宙に視線を浮かべた。真っ暗な空に月がちいさく浮かんで、沈んだ街並みにうすく光を投げている。 『よかった。忙しいのに連絡してしまってすみませんでした』 　話しぶりに人柄がでているのか、丁寧な口調で謝られるとほんの少しだけ尖った気持ちが柔らかくなった。 「気にしなくていいよ。俺こそ、なにもできずにごめん。役に立たなかったな」 　返事を返しながら、目の前で流れていく華やかな光の模様を眺めた。 　日向のことや桃のこと。いつも考えているが、どれも中途半端で先に進まない。ただ、自分のふがいなさをそのたびに思い知らされる。 『あ、いや。そういうわけじゃないんです。実はユージさんに怒られました。弟さんの手術で忙しいんだから、勝手に動いてミナミさんを巻き込むなって。代わりにオレが解決すると言われました。今日話したかったことはメールで送っておきます』 「ありがとう。モモの件はユージが弁護士を手配しているらしい。相手もわかったみたいだ」 　それが誰なのか、教えてもらえなかった。そして店をはやく辞めろと、いまだにしつこく言って話そうともしなかった。 『そうですか。もしかすると相手は前から目星をつけていた男かもしれませんね』 「……そうか」