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第二十七話 虎の尾をふむ(二)
まったく知らなかった。
いつも犬のように戯 れるくせにそういう大事なことは喋らない。
『多分ですけど、アキの客だと装って、じわじわと近づいて脅した奴ですよ』
「きゃく……」
『ええ、ミナミさんも気をつけてくださいね。確か同じ店ですよね?』
「……ああ。わかった。そして、悪い。急いでいるんだ。また連絡をするよ」
信号が青に変わり、人がまばらに動き出した。流れにそって歩き出す。騒々しい足音が背後についてくるように感じた。
「わかりました。あっ、危険だと思ったらすぐに連絡をください。秋も大事ですが、ミナミさんをこれ以上巻き込むなとユージさんからつよく言われていますので……、——その、すみません」
藤村 秋 。それが桃の本名らしい。ケンジとは幼馴染だったようだ。高校卒業から音信不通になり、ケンジがホストを始めてから桃の噂を耳にして行方を探したのだということを聞いた。
「なにかあれば、すぐに連絡する」
『そうしてくだい。それと……』
急に電話越しの声音が暗く沈んだ。
「なに?」
『あ、いや……』
言いよどんだ声に、なんとなく言いたいことを察した。
「金のことは気にするな。口座に用意してあるし、いつでも出せるように準備をしている。安心してくれ」
『……わかりました』
安心させようと早口でまくし立てるが、ケンジの声が沈んで聞こえた。
腕時計に視線を落とすと、待ち合わせの時間まで残りわずかだった。遅刻は勘弁したい。場所はこの先にある外資系ホテルで、アジアを代表する高級ホテルチェーンとしてその名を知られている。
「悪い。じゃあ、またな」
『はい』
ミナミは電源を切って、スマホをポケットに入れた。流しのタクシーを横目に急ぐと、あっという間に到着した。悠揚として品位に満ちたエントランスは車の往来が比較的少なく、ゆったりとした余裕が漂う。
服は病院を出るときに着替えた。黒のジャケットにテーパードパンツを合わせ、なかは落ち着いた色のニットにした。前にユージが選んだもので一生着ることなどないだろうと高を括っていた。が、いざ着飾った宿泊客を前にして、助かったと思った。悔しいが、あのユージにささやかな感謝をしてしまった。
ドアマンが扉を開けて、上層階のロビーへ移動するように促した。凜とした風格ある佇まいに、床に敷かれたマットがくるぶしまで沈むほど柔らかい。
モモの客だった男……。
客はたくさんいたはずだ。
引き継いだ指名客もいたが、アルファは長谷川のほかに数名いる。点と点を結ぶように線が描かれていくが、その概要はつかめない。
ぼんやりと思いを巡らせながら、エレベーターに乗り込んだ。ボタンを押そうとしたとき、男が目の前に立っていた。
「何階かな?」
「……ロビーまでお願いします」
ちらっと視線を向けると、上質な背広を隙なく着こなしている。
「了解」
男は軽く頭を下げた。同じ目的階なのだろう、エレベーターが上昇する。一瞬、長谷川だと勘違いしそうになったが、よく見ると長谷川よりも若く、どこか爽やかさを交えていた。すらりと背の高い男だった。胸元には金色のバッジがきらりと光って見える。男はにっこりと笑みを浮かべてこちらに目を向けた。あまり見すぎたのか、ミナミは気まずく視線をそらした。
「すっかり夜だね」
「……」
「都会らしくて優美だ」
「……そうですね」
束の間の浮遊感。ガラス壁から見える都内は広々として一望に目に入ってくる。艶やかな街並みが眼下に息づいているようにひろがってみえた。反面、ミナミの心はどんどんと下へ沈んでいくような気がした。
「月もきれいだ。ああ、そうそう『現在を享楽せよ。明日のことはあまり信ずるなかれ』。っていう言葉があるんだ。こんな素敵な夜景を目にしたら明日がくるのは惜しいけど、楽しまなきゃなって思うよ」
「はぁ……」
たしかに月は真珠のように白く輝いて美しかった。
「えっと……、ごめん。不審者じゃないんだ。急に声をかけちゃってすまない。これだと怪しい人だね」
「……そうですね」
否定はしなかったが、いま出会ったばかりの他人に謝られると居心地が悪い。
「はは、ごめん。あ、そうだ。これをあげるよ」
「……あめ?」
男はごそごそとポケットをまさぐって、ミナミの手のひらに置いた。カラフルな色で個包装された飴で、ハムスターに車輪がついている人気アニメのキャラクターが描かれている。
「そう、コラボ商品なんだ。あ、けっして変なおじさんじゃないよ」
「はぁ……」
あっけにとられて、手のひらをじっと見つめた。
そのときだ。ポンと軽快な音がして、急にずしりと体が鉄のように重くなった。
「じゃ、元気を出してね」
「――あの」
言いかけたが、その男はひらひらと手を振って、足早にその場を立ち去った。
それがミナミと森 亮介 との出会いだった。
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