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第二十八話 梟雄との食事(一) ※
乱暴な残虐なシーンが続きます。地雷な方は避けていただけるようお願いいたします。お話もどんどん暗くなっていきますが、ハピエンです。
ホテルは凜とした風格ある佇まいでありながら、豪華さと優雅さを際立たせていた。ロビーは静謐 に満ちた時間が流れ、黒飴色に光る天井には金色の糸を紡いだようなシャンデリアが華やかに輝く。
ゆらゆらと揺れうごく人影のなかを避けて歩くと、ソファーに腰をおろして、悠然と足を組んで待っている人物がいた。ミナミが手を振るとすぐにわかったのか、顔をあげる。この日の長谷川はダークグレーの背広を身にまとい、落ち着いた雰囲気を漂わせて機嫌がよさそうにみえた。落ち合うとすぐに手を引かれて、ミナミは最上階にあるフレンチレストランへ連れて行かれた。
「気に入らない?」
「……え?」
「ミナミくん、さっきからずっと黙っているからさ。めずらしいよね。いつもは溌剌と元気なのに、なにか嫌なことでもあったかい?」
はっとして、向かいの椅子に腰かけた長谷川に視線を投げた。いかにも人が良さそうな笑みを浮かべてこちらを見ている。
「……あ、いや、大丈夫です」
上の空で返事を返してしまう。ゆるやかに漂う香りが鼻先をくすぐるが、頭のなかは病室に残してきた日向でいっぱいだった。
柔らかな気品に満ちた店。その奥にあるプライベートダイニングはブラウンを基調としたシックなインテリアに囲まれ、八人ほど座れる椅子が向かい合ってならんでいた。窓一面には都心の美しいスカイラインが煌めいている。上質な料理が運ばれ、エグゼクティブソムリエが洗練された身のこなしで赤ワインを注がれる。長谷川はグラスを揺らし、香りを確かめるとゆっくりと口に含んだ。
「風邪でも引いた? それとも新年早々、こんなところに連れてこられてもしかして怒ってる?」
長谷川は眉を曇らせて、心配そうな視線をむけた。ミナミは慌てて首を横に振ってこたえる。
「いえ……。こんな素敵な料理に言葉がでなくて、びっくりしているだけです」
目下にある料理に視線をもどし、フォアグラのポワレを口に運ぶ。さきほどの燻製の香りが立ったサーモンとレンズ豆のサラダも美食の限りを尽くしていたが、メインの料理は格別のように感じた。バニラの華やかな香りに、キャラメリゼのパリパリとした食感が口腔に飛び散る。さらに無花果のソースの甘酸っぱさが絡んで、咀嚼するたびにおいしさが増す。それでも、どうしてか柔らかで濃厚な味が口のなかを糸のように引いて残った。
「ならいいんだ。ずっと忙しそうにしてたし、心配していたんだよ。こうやってゆっくりと時間を取って、外で会う機会なんてなかったし、今日はたくさん食べて話そう。ここの料理は最高なんだ」
「はい。ありがとうございます」
「あ、そうそう。フォアグラの由来って知ってる?」
長谷川はにこにことうれしそうな顔をして、声を弾ませた。
「ゆらい、ですか?」
「うん。フォアグラはね、フランス語からきているんだ」
優しく、諭すような声だった。
ミナミはついっと視線を上げて、相打ちをしながら言葉を返した。
「確か、『肥大した肝臓』でしたっけ……」
「そう。元々の起源は古代エジプトらしい。鵞鳥 にイチジクを与えて、肝臓を肥大化させる方法がその時代からあったみたいだよ」
「へぇ、初めて知りました。長谷川さん、物知りですよね。いつも色んな豆知識を教えてもらって、時間があっという間に過ぎてしまう気がします」
「ありがとう。そう言ってもらえて嬉しいよ。好きなものは色々知りたくなる質でね」
長谷川は慣れた手つきで料理を切り分けた。優艶な音楽が流れ、空に浮かんだ華やぎが満ちていた。どうしてか、ここだけ切り取られて別世界にいるような心細い気分が押し寄せる。
この食事が終わったら店に行って、また同じように話につきあって酒を飲む。いつものことだ。長谷川は学識が深く、その知識の広さに惹かれて話も飽きない。ただ、なんとなくいい知れない居心地の悪さが邪魔をした。ミナミは話を続けようと口をひらいた。
「そういえば古代エジプト人はどうやって、フォアグラのおいしさを見つけたんですか?」
「ああ、エジプト人か。そうだなぁ……。渡り鳥は飛んでいる間は食料がとれないよね?」
「そうですね。けっこう長い距離を移動しますからね」
「うん。そこで野生の鵞鳥は移動するまえにたくさんの餌を食べて、食べたエネルギーを肝臓のなかに脂肪という形で蓄えておくんだ。そこに、目をつけたらしいよ。飛び出つ直前のガチョウを捕らえて食べたようだ。そこからギリシャ時代を経て、ローマへとひろまり、ルネッサンス期に生産が定着して食材として認知されるようになったと云われているんだ」
「へぇ、フォアグラにも長い歴史を秘めているんですね」
「そう。僕の蘊蓄 だけどね。ああ、そうそう。歴史といえば、フォアグラの生産過程も興味深いんだ。聞きたい?」
長谷川の瞳がぱっと光が点 る。めずらしく茶目っ気ある表情にぷっと噴き出してしまう。
「ええ、伺いたいです」
「食事中だから、少し内容的にためらうな」
なにかを思い出したのか、長谷川の瞳に迷いの色が浮かんだ。
「大丈夫です」
ミナミが頭を横に振ると、長谷川は言葉を継いだ。
「そう? なら話そうかな。聞きながら、ワインでも飲んで欲しいな。この話はね、結構ながいんだ」
「……はい」
ミナミはワインを口づけた。マイルドな渋みと心地よい酸味があり、上品な味わいがした。ふだん飲まないのに、注がれると無にできない。
「強制飼育っていうのかな。そんな言葉があるんだけど、最初の三ヶ月は屋外で飼育するんだ。ストレスを与えないようにアヒルやカモを外に放して、まずは体力をつけさせる」
ほろ酔いというわけでもないが、深緑の庭に鳥たちを放し飼いする、和やかな憧憬が目に浮かんだ。
「へぇ、なんだか朗らかな光景ですね」
上目遣いで長谷川の表情を見た。目を細めて、顔に喜色を浮かべている。
「始めはね、そう思うだろう? それが段々と残酷だって言われてしまうんだ。鳥たちを拘束して肝臓を肥大化させるために、体がぎりぎりのサイズの檻に閉じ込める。狭くて暗い囲いに二十羽ほど入れられて、立ち上がることも、向きを変えることも、なにもできない。首を伸ばして餌を与えられるのを待つだけだ。まるで監禁だよ」
「……監禁、ですか」
「そう。そのあと、ガバージュというんだけど、強制的に餌を与えて太らせていくんだ。アヒルは一日三回、鴨は一日二回行われる。蒸したとうもろこしと油性混合物を増やして太らせる。餌の与え方も独特でね、鉄パイプを口に突き刺して与えていくらしい」
長谷川の瞳は暗い色を宿し、どこか遠くを眺めているように見えた。
「結構、いや、とてもむごいことをするんですね」
「そうだね。管を引き抜くと胃が痙攣して、吐き出せない状態で嗚咽を繰り返すそうだ。乱れた羽は巻きあがって、汚物と油にまみれて『濡れた首』と呼ぶらしい」
「ぬれたくび……」
なんと返していいのか分からず、ミナミは逡巡した視線を浮かべた。額にはじわりと汗が浮かび、ワインをくゆらせて口に含む長谷川の瞳の色が妖しく光って見えた。
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