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第16話

 襖が開いた。咲桜(さくら)青藍(あおい)も意識を逸らさず睨み合う。 「お屋形様……」  山鳩の呟きが聞こえた。 「やめなさい、青藍」  野州山辺の次男の肩が掴まれる。 「あ、旦那。じゃ、この喧嘩はお終い。さすがに野州山辺の当主の前で喧嘩できないし」  咲桜は肩を竦めた。青藍が前に出ようとする。 「青藍」  大きな手が白い衣ごと腕を掴んでいる。 「今更になって兄貴面ですか」 「いやこれ兄貴ってか当主としてでしょ」  白い裾から伸びた足が(にじ)り寄る。房飾りのない小振りな念珠を彼は足首にも付けている。 「陸前高田くんは私の大切な人なんだ」 「そうです、火子(あかね)お嬢さんの大切な家庭教師なんですよ。箱に入れて大切にしてくださいや」  弟が引かないと分かったのか、巴炎は両者の間に割って入り、咲桜のほうに背を向けた。 「淫蕩な男だな、アンタも。こんな――の写し書きみたいな男が好きなのか?」  一度、畳に転がっている襤褸雑巾に似た仕草で青藍は顔を伏せたが、次には軽蔑と敵意を持って兄を射す。聞き取れる限り、彼の口はイズミスナガワと言った。 「その男は娘の家庭教師でしょう。アンタに愛欲まみれた夜をくれやしません。諦めろ。追い出せ。肥溜めに捨ててこい」 「いずみナントカって誰?」  咲桜の問いに弟のほうが氷点下の嘲笑を浮かべる。 「訊いていますよ、兄さん。貴郎(あなた)のタイセツナ方が。ご自分で説明するといいです。忖度も要りません」  白い衣の次男は低く笑いながら徐ろに踵を返した。 「翠鳥は後から来なさい。その模倣品と、襤褸雑巾と、絶対2人きりになるな」  襖の奥に青藍が消えていく。巴炎は突っ立ったままで、咲桜は忍び仲間に介抱されている稲城長沼を見遣った。山鳩は座り込んでどうしていいか分からないようだった。 「ごめ………また、おで……迷惑かけ……っ、」 「こんなこと初中後(しょっちゅう)初中後(しょっちゅう)、暑中見舞いの如くでしょ。気にしなさんな」  稲城長沼の吐物で汚れている少年の手を咲桜は懐紙で拭った。 「稲城くんあんなことになっちゃったけど、オレは山鳩クンがお見舞いに来てくれて嬉しいよ。オレは。だからありがとな。ありがと三角!またきて平行四辺形!あらあら合同な二等辺三角形でしたっ!てな具合に」  咲桜は山鳩の顔が見られなかったが、汗ばんだ手を掴んだ。顔面、血と痣だらけの稲城長沼から送られる視線に気付き、すぐ放す。 「お屋形様……」  忍びの膝の上に顔を横向きに寝かされている稲城長沼が立ち呆けている主を呼ぶ。何か案じているような、優しい声音だった。 「(わたくし)の手では……申し訳ございません」  巴炎が上体を捻り、稲城長沼たちのいるほうを見た。驚いたように見開いた目から涙が落ちている。稲城長沼も山鳩も、咲桜も呆気にとられた。 「あ、ああ……すまない。ああやって、青藍と面と向かって話すのが久し振りで……」  乱暴な手付きで彼は目元を拭った。 「稲城長沼くんは、和泉砂川(いずみすながわ)のことは知っているのだっけ?」 「少々…………存じております」  咲桜は山鳩と顔を見合わせた。そして窮屈な感じのする頭の片隅で、妖怪を連れ込んでまで見舞いに来た少年を可愛く思う。 「きちんと話すよ。片付けをしてから……これでは火子に悪いから」  部屋の掃除を使用人に任せ、3人は巴炎の部屋に案内された。4人で円を描くように座る。茶も行き渡っていた。咲桜たちは野州山辺の当主の出方を窺っている。  ふと巴炎は開き直るような緩やかな笑みを浮かべた。 「何から話していいか、なかなか……纏まらなくて」  まだ彼自身が話す算段ができていないような感じもあった。 「私と青藍は、もともとあまり、仲のいい兄弟ではなくて……一人っ子が2人いるという認識だったのかも知れない。長男であるということは頭では分かっていたけれど、意識としてはまるで無かった。私は父と母に囲まれていたのを覚えているが、青藍が父や母と何かしているところは私は見たことなかったな」  濡れ気味の目を向けられ、咲桜は茶を飲んで逃げた。 「私たち兄弟は少しの間、街に預けられて……そんな2人だから、一緒に付いてきたのが、幼馴染の和泉砂川だ。名前は鹿楓(かえで)。私は鹿楓と呼んでいた。青藍も彼に懐いていて、家族よりも心を開いていたと私は思う」  稲城長沼はゆっくり頷いた。山鳩は巴炎を凝視し、その巴炎は足を崩した咲桜を見つめている。 「見た目はまったく似ていないが、君によく似ているんだ、陸前高田くん。稲城長沼くんは、彼と関わったことは?」 「ほとんどございません」 「そうか……。青藍は鹿楓のほうが実の兄と思うほどに、彼によく懐いていた。明るくて、よく笑う。誰にでも分け隔てなく人懐こくて、強く前向きなあの人をみんなが好きだった。私もだ。きっと青藍も」  改まった様子で彼は一口茶を飲んだ。 「で、今はどうしてるんです?オレが写し書きなら、原本のほうは?」  視線が咲桜に集中する。彼も巴炎の口ぶりから話題の中心にいる人物がおそらく生きていないことは分かっている。野州山辺の長男は含んだ笑みを浮かべた。 「死んだ」  山鳩は首を伸ばし、目を丸くする。稲城長沼は少年に見惚れ、やがて自己嫌悪にでも陥ったのか不要な色気を醸して俯いた。 「何故です」 「大雨が降って……崖が崩れた。鹿楓はそれに巻き込まれて、死んだ」  少年はぼんやりと主を見ていた。咲桜は音を立て草湯を舐める。 「天罰だと思ったな。青藍は鹿楓に交際を申し込んで、私は鹿楓に泣いて頼んで、後から、未練がましく交際を申し込んだ……違う。そんな綺麗にまとまる話じゃないんだ」  巴炎は弟と似ない癖のある長い髪を揺らして頭を振った。 「泣いて頼んで、青藍と付き合わないでくれと言った。私は弟と鹿楓の交際を祝福できるわけがなく、私は、とうとう家名を出した。家名を出して、自由のない私を憐んでくれと脅して、良心に付け入って、私が青藍から唯一の人を奪った矢先のことだった。天罰と言ったのは語弊があるな。天罰が下るべきは私だ」 「そしてそのお方がオレに似ている?」  巴炎は答えず目を逸らす。代わりに稲城長沼が顔を上げた。 「(わたくし)はあまり関わりがありませんでしたが、私の知る限りでは和泉砂川様のほうがもう幾分、無邪気でいらっしゃいました」 「どういう意味よそれ」 「稲城長沼くんから見て、陸前高田くんは鹿楓と似てはいないかい?」 「まったく似ていないかと」  伏せた目は咲桜から横に逸れていく。巴炎は穏やかな笑みを浮かべるだけだった。 「火子お嬢様は、その方を知ってて咲桜様を連れて来たんですか」  山鳩が口を開く。稲城長沼の淑やかな目が瀞み、切なく眉を顰めた。可愛くて仕方がないといった感じで眺めている。殴打や蹴りによって半分潰されかけている顔が悲劇的な色香を纏い、傷や痣や腫れが侘びしい美しさを助長する。ある意味で野州山辺次男の作品で、山鳩への思慕は額縁のようだった。 「知らないと思う」 「ま、ボキみたいないい男が()う然う居るわけありませんが、まぁ、明るく前向きな人というのは世間では結構いますからな。若旦那みたいな壁向いて1日過ごせる人にはボキみたいなのは珍しいんでしょうよ」  それから4人は解散した。巴炎は自室に残り、山鳩は青藍のもとに行くと言う。それを稲城長沼は心配し、却って心配されていた。稲城長沼と喋るときの山鳩は溌剌として軽快で、咲桜の抱いた和泉砂川鹿楓の印象はこの時の少年に近かった。山鳩は控えめな態度に戻り、咲桜にも一言二言残していった。 「山鳩さん……」  思い詰めた声に咲桜はこの場にまだ一人ではなかったことを思い出す。 「ああ、いたの」 「はい」 「稲城長沼くんと話す時の山鳩クン、かわいいな」  ろくな手当も受けていない腫れ上がった顔があからさまに険しくなる。火子にも見せられなくなった爛漫な目と、親しげな口調、小生意気なところの残る態度。咲桜が彼に要求していたもので、おそらく火子が惜しんでいたものだ。そして野州山辺の次男が掘り起こそうとして奥深くに埋めたものでもあるのだろう。それを一身に受けておきながら、稲城長沼は気付かないのか、或いは他者に見せたことに妬いているのか相変わらずの生傷で湿った顰め面をしていた。 「稲城くんはどう思う?旦那の昔話」 「山鳩さんに対して(わたくし)もお屋形様と同じことをすると思います」  会話の途中で消えそうな隠密の装束を摘む。 「あのさぁ。もしかしてなんだけど、オレがその昔のカレシに似てるってことは、旦那ってオレに惚れちゃう可能性あるってこと?でも色恋沙汰は懲り懲りってやつかね?」  咲桜の言葉に忍びは呆れた顔をする。血の固まってこびりついた唇が脱力して開いたまま眉間に皺を寄せ、咲桜を見澄ます目が何度か瞬く。やがて彼は顔を手で覆った。 「……可能性としては、否定できません」 「もし旦那も山鳩クンに惚れちゃったらどうすんの?」 「その可能性は否定いたします」 「いやいや、あるよ。オレが稲城くんに惚れちゃう可能性だってあるんだし。実際お春菜(はな)さん見た目はめちゃくちゃよかった。もしかしたら、中身が稲城くんみたいな卑屈で嫉妬深い男でも構わん!お春菜さんと結婚したい!ってことになるかも知れないんだよ?」  稲城長沼はうんざりしている。それを分かっていて面白がる。 「常時化粧をしているわけにはいきません。骨格を誤魔化すのにも、声を作るのにも限度がございます。一緒になったところで離れていくのは陸前高田様のお気持ちのほうです」 「ほう……じゃあ試しに一緒になってみる?お春菜さん。陸前高田 春菜葉(はなば)?稲城長沼咲桜?どっちがいい」 「お断りいたします。それから彼女の(いえ)春日野道(かすがのみち)ですから、その場合は春日野道咲桜様になります」 「そこまで設定あんだ?すごいな。まさか実在する人になりすましてるとかじゃないよな?」  咲桜はどこかへ行こうとする稲城長沼を追ったが、屋内の、それも屋敷の廊下の曲がり角で見失ってしまった。  晩飯を食らい、薬を口に放り、口角から水を溢しながら飲み込む。布団は敷き直され、吐物や血痕も片付けられている。金魚鉢の(ふな)に餌をくれてから寝に入るところだった。襖の奥で巴炎の声がする。中に入るよう促すと、彼は(たらい)を抱えている。 「身体を拭きに参った」 「あえぇ、旦那が?」 「陸前高田くんと話もしたかったものだから。使用人たちの仕事を奪ってしまったな」 「いや、シュミならいいんじゃないですか」  巴炎は布団の脇に腰を下ろし、盥の中の薬湯に手拭いを浸す。絞られ叩き付けられる水の音が心地良い。咲桜は手拭いをもらおうと手を出すが巴炎はにやりと笑って彼の寝着を開く。 「旦那にこんなことさせちゃって悪いですな」 「いいや、君と話せるいい機会だと思っている。私は」 「ンじゃあお任せするしかありませんや」  衣を肩まで下ろし、素肌を晒す。繊細な手付きだった。 「軽蔑、しただろうか」 「さっきの話ですか」  巴炎は濡れた手拭いを熱心に見ながら頷いた。 「稲城くんに訊いてみたんです。旦那の昔話どう思うかって。そしたら和泉砂川さんとやらが山鳩クンだったら、同じことするって言ってました。軽蔑なんてしませんよ。ああ、オレが言いましたもんね。あれは本当に気にしないでください。旦那は悪くないんですから」 「青藍は何も悪くない。ただ真っ直ぐ自分の恋慕と向き合っただけなのに、私は 恐ろしくなって、まるで弟が異常者みたいに接してきた軽蔑に値する人間だ」  咲桜は首を曲げ、角度を変え巴炎を眺めた。 「軽蔑して欲しいなら軽蔑すると言いますがね。意外と軽蔑ってのは自発的なもので、自分で決められるものじゃないみたいなんですな。ところで、火子お嬢さんはいつ頃帰ってきますかね。なんだか寂しいな、ひとりで寝るのは…………っと、変なイミではなく!他人の息吹がそれなりにあると落ち着くという話で、ひとりで寝るというのは変なイミではなく!実際ボキはこっち、火子お嬢さんはそっちで、離れて寝ていますし、ボキが寝てからお嬢さんは床に就いて、ボキが起きる前にはもう起床してるんですから!まったくいつ寝てるんだか」 「ああ、分かっているよ。頑張り屋さんでね。ありがとう、娘の心配をしてくれて」  ふは、と咲桜は笑った。自ら客人の身体を清める当主は何事かとばかりに目を大きくする。 「頑張り屋さん!頑張り屋さんって、旦那も言うんですね。これはバカにしたのではなく、お茶目だなと……」  裸の上半身は布の感触を受け取った。温かく硬く、がっしりとした質量に包まれている。薬湯と石鹸の香りも鼻に届く。 「旦那?」 「もう少しだけ……明日には娘が帰ってくる。もう少しだけ、私を野州山辺の長男としてではなく、1人の不甲斐ない男として見てくれ……野州山辺でなくなった私は、やはりつまらない男かも知れないけれど、今だけは……」  抱擁は強かった。咲桜も迷いはしたが腕を回してみた。山鳩を抱き締めるときとは質量感や圧迫感が違う。 「こうしていると落ち着くよ。寒いだろうか?」 「いーえ?旦那の体温が高いんで」  さらに抱擁する力が強まった。 「幸せだ。けれど罪悪感もある。青藍のこの幸せを奪ってしまって、それでいながら、きっと青藍と鹿楓がこの幸せに浸るはずだったのを……おれは祝福できないんだろうと。それでも鹿楓がああなると分かっていたら…………いいや、分からない。何も……ただ、おれは自分本位な人間だということだけ………」  時折、母親のようになる亡妻を思い出した。実の母よりも母親のように咲桜を甘やかす。髪を撫で、後頭部のほうで甘たるく囁きかけるのだ。喉を鳴らす猫に似ている。 「自分の醜さ見つめ直すのやめましょうや。人間の醜さなんて数えたらキリないし、悔いて恥じれるか、それすらも分からないかの、見ないふりを続けられるかのれかなんです。無い人なんて多分いないんですよ。誰にでも醜くて卑しいところがあるのは大前提で、あとは各々、程度問題で、感じやすいか、そうでないかの問題なんです。オレは深く恥じ入ってるのに、口にしないと落ち着かない旦那の素直さというか、好い人ぶりが、少し心配ですわ」 「優しくしないでくれ」 「いいじゃないですか、たまには。甘えても」  巴炎は抱擁を解いてしまった。しかし両肩に触れたままで、咲桜の目を見つめている。 「いけない。元々が、甘えただから。私は」 「ンじゃ尚更ですわ」  穏やかな笑みを絶やさない顔が歪む。それでも笑みを続けようとするためわずかに不細工になる。しかしそれは巴炎の好男子ぶりを損なうものではなく、むしろ親しみやすく気取ったところのない美点になっていた。 「私は君と話しに来たつもりなのに、これでは君に慰められに来たみたいだ」 「あ、慰めてます?オレ。お喋りだからかな。やっぱ稲城くんとか普段黙ってるやつからビシッと言われたほうが届きますかね?」  ゆるゆると大男は首を振った。 「陸前高田くんの問題ではなくて、私の問題だ」  両肩から滑り落ちる大きく分厚い掌は二の腕を通らず、布団に散った咲桜の手を拾い集めた。 「旦那……?」  覗き込むと、彼は怖がる様子で目を側めた。互いに黙ってしまう。巴炎はひどく落ち込んでいるように見えた。握られた手は温かい。 「オレの上官を唸らせた爆笑必至の話聞きます?」 「ああ。聞かせてくれ。聞かせてほしい」  話している間、巴炎は何度か目元を拭った。話すことに夢中になっていたわけではなかった。水膜を張った眼に気付いていながらそのことを指摘もせず、咲桜は話を続けた。舌の上を転がるように言葉が出てくる。だがその眼差しは器用に巴炎を見て、何事もなかったように逸れた。 ◇  世間は夏であるにもかかわらず、金春村は肌寒いくらいで、程よい温かさと薬によって咲桜は深く眠っていた。柔らかな布団も、高さの合った枕も、それを包み頬を撫ぜる滑らかな乾布も、すべてが朗らかに彼を眠気の泥沼に沈める。すでに脳天まで落ちているくらいだった。それでいてわずかに起きている頭の片隅では淫らな欲求が渦巻いている。亡き妻と睦む夢だった。欲情の先行したものではなく、夫婦の仲を深めるための営みで、咲桜は誰も居るはずのない枕元を探した。そこにあったものを掴む。夢の中では、亡妻の手を握っているつもりなのである。 「ん……っ」  横を向いていたが、俯せに転がる。意外な可愛いらしさを持って声が漏れたらしかった。そして悩ましい溜息が抜けていく。それは咲桜の呼吸とは異なる。違和感が芽吹く。すぐに朽ちると高を括りながらも。少しずつ、自分のだけでは息遣いを認める。違和感は膨張し、意思に反して目が開く。白い顔、黒く長い髪、淡い群青めいた浴衣。見覚えがある。知らない人ではない。咲桜はまた目を瞑る。相手は男だ。淫らな夢に昂った気持ちで、眠ってもなお美しい女装に手を伸ばす。妻のような豊満な胸はなかった。布か何かの詰め物を触る心地で、勝手に同衾(どうきん)している悪戯に応えるつもりもあった。淫ら心はあまりない。指先が詰め物を隔て掌に集まる。柔らかく弾む。水の入った袋を詰めているのかと思うほどだった。揉む。襦袢の下の肌に馴染む膨らみを揉みしだく。よく真似られた女子の可憐な声が漏れている。稲城長沼と分かっていながら、咲桜は身体を火照らせた。傷のよく隠された顔を覗き込む。揉む。長い睫毛が持ち上がる。髪と同じように黒くよく濡れた目が咲桜を捉える。至近距離だというのに腫れも痣も傷もない。揉む手が止まる。詰め物ではない。女が胸に持つ脂肪そのものだ。咲桜は腕ごと身を引いた。壁に何か当たるまで後退した。女だ。稲城長沼の化けた女が女の身としてそこにいる。咲桜は無理、無理、と繰り返し呟きながら、部屋の隅に放り投げてある鈴をうるさく鳴らした。久々の女の乳に接した掌は痺れにも(ただ)れにも似た得体の知れない感触を残している。  化け物に等しい女は長い髪を掻き上げた。淑やかな見た目で、気怠い仕草のひとつひとつに妖しさと艶気を帯びている。 「だ、だ、だ、誰……ですか」  垂れた目はまだ微睡(まどろ)みの湖沼から抜け切っていない。隙のない稲城長沼とはやはり違う。しかし彼の女装した姿によく似ていた。咲桜は肝を潰し、下品なところも無くはないが色気のある女に瞠目する。彼女は咲桜のほうに姿勢を正して辞儀をする。 「三紅國(みくに)と申します」 「な、ななな、なんで……オ……ぼくの布団にいるんでつか…………」 「弟がお世話になっております。咲桜様」 「弟……?」  声も稲城長沼の女装したのとそっくり同じだった。しかし手は、指が長く、爪も尖った、咲桜の多く見てきた女子の形をしている。肩もまたすとんと円い曲線を描いて落ちている。 「菖蒲馬(あやめ)でございます」 「ア、ア、ア、アア、アヤメって誰ですのん?」  黒豆をそのまま嵌めたような光沢のある大きくな目は鏡のように咲桜を映し、首を傾げる。 「弟でございます」 「アヤメなんて弟御、オ……ぼ、ぼく知りませんでございます」 「今は……オオギ屋カキヌマとか名乗っていたかも知れませんけれど…………」 「稲城長沼?」  鈴の鳴るような声で彼女は肯定した。 「稲城くん!お姉さん来てるよ」  咲桜は大仰に女を避けて襖を開いた。廊下に忍びが立っている。 「どゆこと!」 「お屋形様が、陸前高田様がお寂しいようだと心配なさっておいででしたので」 「じゃあチミがお春菜(はな)さんになって来なさいよ!」  稲城長沼に指を突き抜ける。傷だらけの顔は色ひとつ変えない。 「で、チミの姉となるとお嬢ちゃんの……?」 「いいえ。種違いです」 「あ、じゃあ母ちゃん似か」  忍びは縦にも横にも首を振らない。 「なんでお春菜さんになって稲城くんが来ないかな。胸触っちゃたんだけど。謝っておいてよ。オレから穿(ほじく)り返して言うのなんか悪いし」  彼は会話の途中で消えることもなく咲桜に一礼するとすれ違って中紅梅が目に痛い部屋へ、また一礼してから踏み入った。 「姉さん、頼み事は以上です。お帰りください」 「もういいの?」 「無理なお願いをしてすみません。おにいさんにも、俺から……」  美男美女姉弟の会話に割り込み、稲城長沼を引っ張る。苦い面をして雇主の客人に付き合う。嫌がる美青年に肩を寄せる。 「人妻?」  小声で問う。傷だらけの顔面はまだ渋い面構えで頷いた。咲桜は自身の額をぺちりと叩いた。

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