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手荒れに悩む真の話

 深夜十二時を告げる鐘が厨房に響く。調理道具を洗い終えた俺は、泡のついた蛇口を捻り、水を止める。ふと目に入った手の甲に、細かな赤い線が数カ所刻まれていることに気がついて、俺は口元から溜息を漏らすとエプロンで自分の手をふいた。  北風が冷たさを増す季節。そんな時期にする水仕事にはやはり少なからず堪える物がある。もう一度溜息を吐くと、同じ厨房にいた人物が小さな笑い声を上げた。馬鹿にされている、と確かに感じられる笑い方なのに、一切気には障らない。そんな笑い声の主の方へ顔を向けると、彼は口元に手を当てながらにまにまと俺のことを見つめていた。 「ごめん、ごめん。何か思い悩んでいるようだったから、おもしろ、」  咳払いが一つ挟み込まれる。 「心配になってね」 「思いっきり「面白くて」って言いかけてましたよ。渡海さん」 「言いかけただけだ! 言っていないからノープロブレム! それより、如何したんだい、真くん。たった今、仕事が終わり、後は家に帰って愛しい彼氏の腕に抱かれながら眠るだけだというのに、何を憂いているんだい?」 「だかっ……!? なっんて、ことを言うんですか、あんたは?!」 「違うのかい? 寒い夜には身体を寄せ合って眠るのが、同棲している恋人同士のテンプレートだとばかり僕は思っていたのだけれど……最近の若い子は何かと奥手だというしね! オッケー、気にしないでくれ。とにかく、後は帰って眠るだけだというのに、何故にそんな暗い顔をしているんだい。悩み事があるなら、おにいさんに相談してごらん?」  さあ、と渡海さんはずいずいと俺の方に近づいてくる。黙っていれば、拓兎に負けず劣らずのイケメンなのに、行動やら発言やらが本当に残念な人だ。いつもこんな様子だが、料理を作らせればプロ顔負けの腕前である。本当に、こんな何屋なのかもよくわからない店ではなく、ちゃんとしたレストランで働けば良いのに、と常々思ってしまうほどだ。  一年前まで、とある企業に勤めていた俺は、上司からのパワーハラスメントとそれを娯楽のように楽しむ社員達の目に耐えられず、挙句ストレスで碌に物も食べられなくなり、栄養失調で倒れたことを機に仕事を辞めて、今はここ「物語屋 シェヘラザード」という店でアルバイトとして働いている。  「物語屋」と聞けば、一体何の店か、本屋か何かかと思われるかもしれないが、簡単に言うと低価格で寝床を提供している、ホテルのような店だ。一泊の値段設定は泊まる部屋によりけりだが、一番安い部屋だとカラオケのフリータイムとどちらが安いかというくらいの値段設定である。  店の内装は「シェヘラザード」という名にふさわしい、アラビア風の物となっている。そして、どの部屋にも必ず本棚が備え付けられている。どうして全部屋に本棚が必要なのかと思うかもしれないが、ここが、普通のホテルとこの店の違いなのだ。この店に泊まると、アラビア風の語り部の姿をした店員が客に彼ら彼女らが眠りにつくまで枕元で物語を読むという謎のサービスがつくのだ。  この店を紹介してくれたのは、拓兎の高校時代のバンド仲間の一人である「牧野麻」だった。職探しをしている俺に「知り合いが働いている店がアルバイトで裏方の仕事をしてくれる人を探してるんだけど」と話を持ちかけてきた牧野について行った先にあったのがこの店だ。  最初、どんな店なのかを聞いたときは――この店が飲み屋と風俗、キャバクラ、ホストクラブが建ち並ぶ歓楽街の直ぐ側なせいもあるが――水商売という言葉が頭を過ぎり身構えたが、俺は客に本を読むサービスをする――この店では「語り部」と呼ばれている人たちがするような仕事はしないでいい。主にして欲しいのは部屋の掃除と、客に提供する料理の調理と、それを運ぶ仕事だけだ、とのことであったため、とりあえず試しに一ヶ月だけ働いてみることにした。  仕事を辞めたばかりで、長くは続かないだろうと何処か頭の端で思っていた俺だったが、気がつけばこの店で働き始めて一年近く経とうとしていた。  店の人たちはみんな優しくて、俺が少しでも顔を曇らせようものなら直ぐに相談に乗ってくれる。今、渡海さんがそうしてくれているように。 「……とは言っても、別に滅茶苦茶悩んでる訳じゃないんです。ただ、手のあかぎれが増えたなって思っただけで」 「ふむ。水仕事をすると如何しても手が荒れてしまうからね。あんまり酷いようであれば、皿洗いをするときだけでもゴム手袋なんかをはめた方が良いかもね。それに、あぁ、指先がこんなに赤く……」  渡海さんの手が俺の指先に触れそうになったところで、俺は勢いよく手を引っ込めた。危ない。もう少しで手を握られるところだった。この人は男女見境無くスキンシップが激しすぎるのだ。この前も、女性の語り部さんに抱きつきそうになっていたところを店長にひっぱたかれていた。だが、全く懲りていない辺り、この人は定期的に人に触れないと死ぬ病か何かなのだろう。 「君、今口には出さないが、ものすごく失礼なことを考えていたね」 「え、すみません」 「謝る必要は無い。万人に完璧に百パーセント好かれるなど神でなければ、神でさえも難しい所業だ。少し引かれたくらいで傷つきはしないさ。それより、君は調理以外に部屋の掃除なんかもするんだろう? これからの時期、乾燥も酷いし、さらに手が荒れてしまうだろうね。どうしたものか」  渡海さんの唸り声が厨房に響くと、ギィッという音とともに厨房の戸が開かれた。扉の先には踊り子のような服装をした青年が一人。こちらをじっと見つめていた。 「あぁ、聖夜くん。どうしたんだい」 「お話し中、すみません。渡海さん、店長が呼んでいます」 「おや、なんだろう。すまないね、真くん。解決策が見いだせなくて」 「いえいえ。大丈夫です。ありがとうございました」  俺は渡海さんを見送ると、やり残した仕事はないかと厨房を見渡す。やるべき仕事が終わっていることを確認してから厨房を出ようとしたところで、扉のところに立っている聖夜くんと目が合った。 「どうかしたか?」  そう尋ねると、彼は首をかしげて、そちらこそ、と眉を顰めた。かなり心配そうな顔をしている。先ほどの渡海さんの言葉を聞いて、何か俺が大きな悩みを抱えていると勘違いしているようだ。俺は厨房の電気を消して部屋から出ると小さく首を振った。廊下を聖夜くんと並んで歩く。客が泊まっている部屋の前を通るため、俺は声を潜めながら聖夜くんに手を見せた。 「寒くなってきたのと、水仕事してるせいであかぎれが増えちゃって」 「なるほど。大変ですよね。俺も結構荒れやすくて……あ、そうだ。高藤さん、帰る前にちょっと時間ありますか」 「あるけど、どうかしたか?」 「良いものがあるので。ゆづ……知り合いからもらったんですけど」  そう言ったきり、聖夜くんは顔を赤くして黙り込んでしまった。知り合いといっていたが、その人はきっと聖夜くんにとって大切な人なのだろう。そんな人からもらった物を、俺がもらっても良いのだろうか。そんな申し訳なさを感じていると、聖夜くんはクスクスと声を漏らして微笑んだ。コロコロとした耳障り良い声だ。きっと彼の声によって紡がれる物語はさぞ聞き心地が良いのだろう。 「心配しないでください、高藤さん。もともと「友人か職場の人にも配ってくれ」とたくさん渡された物ですから。高藤さん以外にも、店長や双葉さんにも配ってます」 「そうだったのか」  それなら良かった。彼の大切な人からの贈り物を奪う訳でも、自分だけが何かをもらう訳でもない。ならば、と一気に心が落ち着いていくのを感じた。  程なくして、俺たちは誰もいない休憩室にたどり着く。他の部屋同様、物語のような内装の部屋に不自然に置かれた灰色のありふれたロッカー。聖夜くんはそれに近づくと、自分のロッカーを開き、中から茶色の紙袋を取りだした。何処かで見かけたマークがプリントされているその紙袋の中には、何かのチューブが数本詰められていた。聖夜くんはそのうちの一本を取り出すと、俺の方に差し出す。薄紫色のパッケージの上に金色で何やら英語のような文字が綴られていた。 「ハンドクリームです。どうやらこのハンドクリームのブランド、キャンペーンをしていたみたいで、ブランドの商品を三つ買うとオリジナルグッズなんかが当たる抽選に応募できたみたいなんです。それに応募したかったみたいで……あ、ここ、元々香水が有名なところで、とても香りが良いんです。ハンドクリームの種類も何種類かあって……どれがいいですか?」  そう言うと聖夜くんは机の上にハンドクリームのチューブを並べる。匂いの種類は先ほど差し出された薄紫色の他に、薄荷色や琥珀色、桃色……八種類程度あるようだ。ここまで種類が多いと選ぶのも大変そうだ。しかも、パッケージに書かれた香りの名前がオシャレでその上その名前だけでは匂いが想像できないと来た。  とりあえず、チューブの蓋を開けて一本ずつ匂いを嗅いでみる。爽やかなシトラス系の香りや甘いフローラルな香り、お菓子のような香り。どれも良い匂いではあるが、いまいち好みには合致しない。そもそも、男が香り付きのハンドクリームを使いのはいかがな物なのだろうかとさえ考え始めた。  様々な思考が頭の中で絡む。その糸は、ある匂いを嗅いだときに急にほどかれた。  思わず声を漏らす。最初に差し出された薄紫色のハンドクリーム。その匂いが、驚くほど自分の好みにぴったりとはまった。こういう系の香りをウッディというのだったか。木の匂いというのはいまいちわからないが、優しい香りの奥に、甘くてスパイシーなハーブの芳香がする。嗅ぐだけで、心がすっと落ち着いた。 「これ、もらって良いかな」 「……やっぱり、その匂いですか」 「へ?」 「何でも無いです。どうぞ」 「ありがとう。今度何かお礼する」 「そんな、気にしないでください」 「いやいや。何かもらったら、返さないと気が済まないんだ」 「その気持ち、わからないでもないですけど……わかりました。今度こっそり僕だけに賄いを作ってください。メニューは問いませんから」  聖夜くんはそう言って頬を赤らめた。彼は本当に可愛らしい。中学時代、所属していた部活にいた後輩を思い出す。  俺は聖夜くんのお願いに頷くとロッカーに向かい、帰りの支度を進める。ハンドクリームをリュックに入れ、そのリュックを肩からかけると、休憩室の端に置いてある機械にタイムカードを差し込んだ。機械音とともに吐き出されたカードを自分の名前が張られているボックスに戻すと、振り返り、聖夜くんにもう一度お礼を告げてから休憩室を後にした。  受付にいる店長と渡海さんにも挨拶をしてから店を出る。外の空気はキンッと冷えていて、思わず身体を震わせた。口から吐き出す息は僅かに白い。手に触れた風が傷口を撫でて思わず眉を顰めた。  早く帰ろう。俺は僅かに背を丸めながら、夜にもかかわらず、以前爛々と煌びやかな光りを放つ街を背にして歩き始めた。 「ただいま」  家に帰り、帰宅を知らせる言葉を声に出す。リビングは闇色に染まっているが、寂しさは感じない。拓兎がいる証拠だ。起こさないように、足を潜め、電気もつけずにリビングを抜け、寝室へ行く。扉を少しだけ開き、中をうかがうと、一人で眠るには少し広いベッドの上に、拓兎が寝そべっていた。眼鏡を外し、目を閉じて寝息を立てている彼は、愛おしくなるほどに幼くて、思わず口元が緩む。  それと同時に、胸元が小さく空虚感を訴えた。渡海さんの声が頭に響く。今日は、彼の腕の中では眠れない。勝手に彼の胸元にでも顔を埋めれば良いのだろうが、やっぱり、自らではなく、彼から――。  俺は思わず自分の頭を小突く。それと同時に手の甲に刻まれた切り傷が痛んだ。ぼんやりと、それを眺める。 「求めすぎだ。馬鹿」  早く、風呂に入ろう。できるだけ音を立てないように着替えを準備すると、俺は静かに浴室へ向かった。数時間前に入れられたのであろうはずの湯は、何故か温かく、俺はその湯の温かさに浸りながら、ゆっくりと頭を冷やす。ぼんやりと思考を巡らせると、心の中を埋め尽くしていた欲望がプチプチと潰され、小さくなっていくような気がした。  もう大丈夫。謎の言葉を頭の中に浮かべ、俺は浴室を出た。身体を拭き、服を着ると、冷たい空気が肌を撫でる。せっかく温まった身体は直ぐに冷やされ、先ほど消し去ったはずの欲望がふつふつとまた胸をくすぐり始めた。 寒さというのはやっかいだ。  溜息を吐き、リビングの戸を開ける。暗い部屋の中。ソファの側に投げたままにしていたリュックが目に入った。そういえば、聖夜くんからハンドクリームをもらったんだった。ぼんやりとした頭のまま、間接照明の明かりをつけリュックの中を漁る。その中からチューブを取り出すと、静かにソファに腰を下ろした。チューブの蓋を開け、匂いを嗅ぐ。やっぱり、落ち着く――良く嗅ぎ慣れた香りだ。 「なんの、匂いだっけ、これ」 「なにがだ」 「この、ハンドクリーム、の……」  ゆっくりと振り向く。それと同時に唇を塞がれる。都合の良い夢でも見ているのだろうか。温かい手が頬を包み、ゆっくりと唇が離れていった。 「たくと……寝てたんじゃ」 「寝てた。お前が帰ってくるまで起きておこうと思ったんだが、楽曲提供やら新曲制作やら最近何かと忙しくてな……気がついたら寝てた」 「それは、知ってる。よく知ってる。最近、仕事部屋に籠もりきりだったし……寝るのも、バラバラだったし、」  そういえば、拓兎とキスするの、何日ぶりだろう。こうやって触れあうのも、酷く久しぶりな気がする。それを自覚した途端、胸の中で沸騰していた思いが体中に溢れだしてきた。全身を流れる血が熱い。頭がクラクラしてきた。  拓兎の笑う声がする。いつの間にか彼は俺の隣に腰を下ろし、俺の手からハンドクリームのチューブを引き抜いた。寝起きで眼鏡をかけていない彼は、少し目を細めてパッケージを見る。そして急に無表情になるとぐるりと顔を俺の方へ向けた。 「如何したんだ、これ」 「最近手が荒れてるって言ったら、バイト先の人がくれて……知り合いが懸賞目当てに大量買いして消費に困ってたみたいだからもらったんだよ」 「ふーん……懸賞なんかしてたのか。知らなかったな」 「え?」 「どうしてこの匂いを選んだんだ」  さも、他にも種類があったことを知っているような口ぶりだ。俺は訳がわからないままに、好みの匂いがしたから、と思ったことを正直に口にした。すると、拓兎はゆっくりと、ゆっくりと目を輝かせた。開かれた口から覗く鋭い犬歯に思わず背筋が震え上がる。  あの歯に噛みつかれたい。  そんな淫らな言葉が頭を占めて首を振る。ハッとして俯くと、拓兎がわざとらしく音を鳴らして舌舐めずりをする生々しい音が鼓膜を震わせた。 「手を出せ」  戸惑う声を上げると、早く、と急かされた。拓兎の命令に黙って従う。何をするのだろうと僅かに顔を上げると、拓兎はハンドクリームを自分の手のひらに絞り出してそれを両手で延ばした。ふんわりとした香りが辺りに漂う。  一体彼は何をしようとしているのだろう。そう思っていると、彼の指がおもむろに俺の指に絡んできた。最初は優しく俺の手を包み込んでいたその手は、次第にマッサージでも施すような、それでいて卑猥な物へと動きを変わっていく。思わず息を呑むと、彼の指は優しく俺の手の甲に這う小さな傷達をなぞり始めた。細かな痛みが、だんだんと甘い疼きへと変化する。ドクドクとした血が一カ所へと流れ込むような感覚におもわず顔を歪めてしまった。身体を捩っても拓兎は手を放してくれない。 「たくと、やめ、」 「本当だ。あかぎれが酷いな。気がつかなかった」 「だめ、だめだ。これ以上は、触らないで、くれ……」 「そういう割には嬉しそうだぞ。寂しかったんだろう。ここ数日、俺を感じられなくて。無意識でこの香りを選ぶくらいには、餓えていたんだろう」  拓兎の手が手首の方へ伸びる。そのまま彼の身体が俺にもたれかかり、そのまま俺はソファの上に仰向けに倒れた。  ふと、彼の首筋から――いや、耳の後だろうか――甘い香りがした。その匂いが肺に満ちると同時に、俺は聖夜くんが俺にくれたハンドクリームのブランドは元々香水が有名だと話していたことを思い出した。そういえば、彼がロッカーから取り出した紙袋に描かれていたマークは、拓兎が使っている香水のビンに描かれている物と同じではないか。  拓兎の匂い。俺が何故、あの香りを選んだのか、その理由に気がついて身体が震えた。求めていたのだ。知らぬうちに。温度だけではなくその香りさえも。 「ごめんな、こんなになるまで構ってやれなくて。安心しろ。今すぐ満たしてやる」 「拓兎……だめ、俺、こんなに求めちゃ、駄目なのに……欲しくて堪らないんだ。抱きしめられるだけじゃ足りない。温度だけじゃ、匂いだけじゃ……全部、全部欲しくて、俺、こんな……ごめん、ごめんなさい」 「どうして謝る。お前に求められて、俺は嬉しいよ。お前は寡欲で言いたいことを隠す癖があるから」 「そんな、こと」  開いた口を塞がれる。口の中に熱くて甘い物が入り込み、俺の舌を絡め取った。口腔内をぐちゃぐちゃに犯される。唯でさえ高ぶっていた熱が燻られていく。先ほど風呂に入ったばかりだというのに、もう下着は溢れだした汁で汚されてしまっていた。 「可愛い奴め」 「たくと……」 「わかった、わかった。いっぱい俺のこと感じさせてやるからな」  拓兎はそう言って俺の手に唇を近づけ、傷口を真っ赤な舌でなぞった。痛み以上に圧倒的な快楽に支配される。机の上に置かれた口の開けられたままのハンドクリームが目に入った。  ごめん、渡海さん、聖夜くん。俺、この傷、治らなくてもいい。こんな刺激を拓兎から与えてもらえるのなら、酷くなっても構わない。  俺は愚かなことを考えてしまったことを、頭の中で懸命に謝りながら、拓兎から与えられた悦楽に浸り、口の端を歪め陶酔しきった声を上げた。

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