3 / 14

一年前の二人の話

 俺が仕事を辞めて、しばらく経った頃だったと思う。  その頃の俺は、まだ精神的に不安定で、食べ物もヨーグルトやスープの様なものしか受け付けなくて、日中の大半はベッドの上で過ごす様な毎日を過ごしていた。  それでも朝、六時きっちりに目が覚める。ベッドの傍のハンガーラックにかかっているはずのシャツとスーツに手を伸ばすが、そこにはシャツもスーツもなく、あわててどこにやったかを捜していると、後から優しい温度が俺を抱きしめるのだ。 「いいんだよ、真。もう、あの会社には行かなくていいんだ」 「……そう、だ。そうだった」 「朝飯作ろうか。それとも、もう少し寝るか?」 「……ねむ、たい」 「じゃあ、寝るといい。昨日も、中々寝付けなかっただろう。俺が、手を握っててやるから、ゆっくりおやすみ」  そう拓兎に言われ、俺はベッドに戻り、静かに目を閉じる。すると狭いベッドに拓兎が入り込んできて、俺の手を握り、子守歌を歌ってくれる。それを聴いていると自然と身体が重たくなって、頭の中がとろとろと溶けていって、次第に意識が闇に堕ちていく。それが心地よくて幸せな一方、襲い来る焦燥感と不安がとてつもなくて、何度も俺は悪夢を見ては汗にまみれながら目を覚ますのだ。  そうやって俺が起きる度、拓兎も目を覚まし、優しく俺を抱きしめてくれた。  退院してからというもの、拓兎は甲斐甲斐しく俺の世話を焼いてくれた。世話を焼くという言葉では足りない。ほとんど介護状態だった。俺の為に飯を作って、洗濯も掃除もしてくれて、挙句風呂にすら入る体力がない俺の身体を毎日綺麗に拭いてくれた。  時々、ギターを弾き、なにやら譜面に書き込んでいる様な姿は見られたが、買い物以外で外へ出ることはなく――仕事に行っている様子は一切なかった。 俺のせいだ。俺のせいで、拓兎は大好きな音楽を出来ないでいる。そう思えば思うほど申し訳なくて、唯々申し訳なくて、やっぱり彼の傍にいるべき人間は俺ではないのではないかと怖くて、それでも彼がいない頃の孤独を思い出すと気が狂いそうで、辛くて、苦しくて、何度謝っても足りなくて――何度も死なんていう言葉がちらついた。  家電製品のコードが見える度、拓兎が料理をするときの包丁の音を聞く度、医師から処方された薬が目に入る度、頭の中で何人もの自分が喧嘩をし始める。これ以上、彼に迷惑をかけるくらいなら、でもあの日彼は俺に「死んでほしく無い」と言った、でも、だけど、けれど、それでも。ぐるぐると頭の中に考えが浮かんで、涙がこぼれそうになる度に、拓兎は静かに笑い、俺のかさついた唇にキスを落とすのだ。 「大丈夫、大丈夫」  そう呪文の様に何度も唱えられると、少しの間だけ馬鹿げた計画が頭の中から消える。でも、俺の頭の中にはしばらくの間、最も重い罪に手を伸ばす妄想が離れないままでいた。  そんな、ある日のことだった。  あれは一体夜の何時頃だっただろうか。部屋には月明かりが差し込んでいて、開けっぱなしにしていた窓からは涼しい風が部屋へと吹き込んでいた。  ぼんやりと天井を眺める。しばらくするとゆっくりと意識がはっきりとしていって、それと同時に自分の手にこもる強い力と、あまりに美しすぎる祈りが聞こえてきた。 「……神様、お願いします。真をこの苦しみから、どうかお救いください。彼を日々襲い来る影からお助けください。どうか、どうか……明日も、彼の目を目覚めさせてください……朝、握った彼の手が冷たくありませんように。絶えず呼吸を繰り返していますように。生きて……生きて、くれますように。お願いします。お願いします……」  苦しそうな声だった。苦しそうで、美しい声だった。  彼はそんなに、縋るように神に祈りを捧げるような人間ではないのに。確かに聖歌隊に所属はしていたが、熱心に神様を信仰するようなタイプではなかったはずなのに。そんな彼が、ここまで必死に、懸命に、祈っている。  それが嬉しくて、悲しくて。  手に伝う涙を、震える指を感じると、静かに涙が頬を伝った。 「……まこと?」  名前を呼ばれ、首を動かす。そこには顔を赤くして涙を流す拓兎の姿がいて、俺は何度も、何度も無意識のうちに彼に謝り続けていた。彼に縋って、泣きながら、何度も謝っていた。 「大丈夫、謝らなくていいから。よしよし」 「でも、俺、拓兎に迷惑掛けてる上に、あんな、こと考えて……」 「迷惑だなんて思ったことは一度もない。俺は、お前が生きてるだけで、それだけでいいんだ」  「生きて」とそう祈られる。その度に涙が溢れて。依然、不安は染みついたままだけれど、涙と一緒にこびりついていた冷たく暗い影が剥がれ落ちていった。  拓兎の身体を抱きしめる。その温度が温かくて、それをずっと感じていたくて、何より、こんなに俺を思ってくれる彼を置いていくなど考えられなくて、その日から俺は、彼のために生きることを決めたのだ。 「……」  そんなことを、何本目かわからない缶チューハイを飲みながら拓兎に語る。すると、拓兎は口を開いたまま硬直してしまった。首をかしげ、彼の頬を突くがしばらく彼は動かなかった。 「たくと? たーくーとぉ」 「待て、待って……どうしたんだよ、急にそんな話……心臓に悪い……」 「あれだよ、テレビで、女子高生がなんか、「早いうちに死にたい」って、そんなこと言ってて……あの時期のこと思い出して……ふふ、それでも、突然すぎたよな。ごめん」 「……お前、だいぶ酔ってるな? お前は酔うと素直になるというか……口数が増えるから」  確かに、酔っているのかも知れない。頭はふわふわするし、拓兎の言葉も耳に入っては来るものの頭の中に中々残ってくれない。 「でも、なんだ……お前の気持ちを聞けて嬉しかったし……もっとお前のこと幸せにしたいって思ったよ」 「俺は今でも十分幸せだし、それに、俺も頑張ってお金貯めて、拓兎の負担少しでも減らしたいし、ちゃんと安定した職に就きたいし……俺だって拓兎のこと幸せにしたい」 「俺も十分幸せだよ……頑張るのはいいけれど、無理はするなよ」 「うん。拓兎も、無理するなよ。最近、疲れてる、みたい……だし」 「……どうした? 眠くなったか?」  何かはぐらかされたような気がしたが、頭がぼんやりしてあまり考えられない。そのまま、拓兎の言葉に頷き、彼の胸元に頭をすり寄せた。 温かい。ずっと感じていたいぬくもり。それに包まれながら俺はもぞもぞと口を動かした。 「こもりうた、歌って欲しい……」 「わかった」 「……拓兎、」 「何? リクエストか?」 「……拓兎も、俺のために生きてな」  その言葉に拓兎は笑い声とともに頷く。その答えが嬉しくて、俺は心の中が満たされるのを感じながら、目を閉じ拓兎の歌声の中に沈んでいった。

ともだちにシェアしよう!