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タクトのCMとリップの話

「だぁあぁああぁああ!!」  リビングの方から聞こえた雄叫びに俺は聞こえた声と同じくらいの叫び声を上げて飛び起きた。勢いよくベッドヘッドボードの上に置いてある眼鏡を手に取ってそれをかけながらにリビングへ向かう。 「どうした、真!」  何かが割れたり壊れたりなだれ落ちてきたりするような音は聞こえなかった。それに、真が出た程度であんな雄叫びを上げはしない。ならば強盗か。変質者か。それともお化けか。どれにしても大問題だ。助けてやらないと。俺は妙な口の渇きを覚え、それでも精一杯の声を張り上げてリビングのドアを開けた。  見慣れたいつものリビングルーム。グレーのソファの上で、クッションを顔に押し当ててうずくまっている真の姿を見つけ俺は一目散で真へ駆け寄った。 「大丈夫か真。何があったんだ」 「て、てれび……」 「テレビ? こんな朝っぱらからホラー映像でも流れたか」  でも、真はホラー耐性もグロテスク耐性も高かったはずだが。以前、アカネの家に行って元軽音部メンバープラス真の前の会社の後輩と一緒にスプラッタ系ホラーゲームをしたときも、コントローラーを握って絶叫しているテツと後輩くん――田中一朗太という名前だからチロタと呼ぶことにした――二人の隣でひたすら綺麗なグラフィックに感動し、冷静に物語を考察していたし、いざチロタからコントローラーを渡された時には黙々とゲームを進めていた。  思えば、昔から雷は怖がるくせに、夏にやるホラー映像特集なんかは平気で見ていた気がする。恥ずかしながら俺自身に耐性がない為、その時の真の反応を、一切合切覚えていないのが悔やまれる。ただ、映像を見て指を差して笑うようなことは無かったが、時々驚いて肩を震わせるくらいで、絶叫まではしていなかったのは確かに覚えている。  だから、ホラー映像の類いが流れたのでは無いと思うが。俺は真の背中を撫で、顔を上げる。するとそこに映っていたのはとある有名コスメブランドのコマーシャルだった。  新しく出たルージュのCM。そのルージュを唇につけ微笑んでいるのは紛れもなく、俺だった。 「……まこと?」 「……」 「え、お前、俺が出ているCMを見てあんな雄叫びを上げていたのか?」 「だ、だって……」  CMが終わり、ニュース番組の「今日の気になるニュース」のコーナーが始まる。するとやっと真は顔を上げて俺の顔を見つめた。そんなに、目に涙を溜めて鼻を真っ赤にしなくても。思わず苦笑が漏れてしまった俺に真は頬を膨らませ俯いた。 「だ、だって、すっげぇ、なんというか……えっちだったから……」  デジャブを覚える言葉だ。確かに色気を意識して撮影したがここまでの反応をもらえるとは思っていなかった。嬉しくて先ほどとは違う笑顔を浮かべていると真は不服そうに眉を顰めた。むくれた顔が可愛らしい。 「あのCM、心臓に良くない」 「そんなにか?」  熱くなっている真の頬を撫でる。薄紅に染まった頬を俺の手にすり寄せながら、真は俺の顔に――唇に手を伸ばした。 「だって、すっげぇ綺麗なんだぞ。あのCMの、ワインレッドの口紅つけたお前。綺麗だし、格好いいし……だし。我儘言って良いなら、正直あんな顔、俺以外に見せて欲しくない……」  黄昏の空のような瞳が熱で潤む。蕩けた瞳で見つめられると背筋が甘く痺れた。じんわりと口の中に唾液が滲み出てくる。音を立ててそれを飲み込めば今度は真が身体を震わせた。その様にさらに身体の熱は増していく。 「嬉しいな。俺の姿にそんなに陶酔してくれるなんて。俺が美しいのは至極当然のことだが、やっぱりお前に褒められると嬉しいよ。嬉しすぎて今からその喜びを歌にして奏でながらお前を抱きたい気分だ」 「朝っぱらから変なこと言うなよ」 「朝っぱらから俺の出ているCMを見て欲情したお前と大差は無いだろう。今日は予定もないし、今からベッドに戻るか?」 「も、戻らないっ」  耳まで真っ赤にして真は顔を背ける。残念だという気持ちを愛らしいという感情がはるかに上回り満足してしまった俺は「そうか」とだけ告げて、朝食を作るためにキッチンへ向かう。だが、それを真に阻止されてしまった。  そういえば、いつもは俺より起きるのが遅い真だが、今日は早起きだ。もしかしたら、今日の朝は自分が作るつもりで早起きをしたのかも知れない。そうかと思うと非常に健気で愛おしいではないか。久しぶりに真の作ったベーコンエッグも食べたいし、ここは静かにソファに座って真が朝食を作ってくれるのを待つことにした。  冷蔵庫から食材を取り出す音や、引き出しからフライパンを取り出す音が聞こえる。野菜を洗う水の音や、コンロの着火音に合わせて適当に音楽を口ずさみながらテレビを眺めていると、ニュース番組がCMに入った。洗剤のCMが流れた後、見慣れた映像が流れ出した。 「――一塗りで高発色。暗闇の中でも艶めく唇を。新登場「ビビッドルミナスルージュ」」  ハスキーボイスの女性のナレーションをバックに、夜の街を歩く男性の姿。カメラがアップになり唇に指を添えて微笑む姿は我ながら非常に官能的だ。穏やかと言うよりは蠱惑的な、そこはかとなく野性的な笑み。なるほど、真はこういう表情が好きなのか。  やはり、自分の携わった作品を何度も見返すのは新たな発見と学びを得られる良い方法である。過度にやり過ぎるとナルシストだと言われて引かれてしまうが。自分の美貌と溢れんばかりの才能を再確認しさらに高めることの何が悪いというのだろうか。一切合切謎である。  そろそろ、飲み物やカトラリーを準備するか。ソファから立ち上がり、キッチンへ向かう。フライパンの中でパチパチと音を立てる二つの目玉と見つめ合う真の横顔に口が緩んでしまう。コップに牛乳を注ぎ、じっと真の横顔を、彼の唇を凝視する。  キュッと閉ざされたコーラルレッドの唇。少し乾燥しているのか薄く皮が剥げているのが見えた。昨日の晩にキスしたときには一切気が付かなかった。自分もこの時期は唇が乾燥するからよくわかる。唇が切れたり割れたりすると凄まじく痛いのだ。真の口はまだ切れていないようだけれど妙な憂いに飲み込まれそうになってしまう。  少し過保護すぎるだろうか。しかしながら、大切な人を痛みや苦しみから遠ざけたいと思うのは恋人として当然ではなかろうか。 「……なんだよ、人の唇ばっか見て」 「いや、お前の唇は紅を引かずとも十二分に魅力的だな、と思ってな」 「馬鹿なこと言ってないで……もう出来るから、座って待ってろ」  俺の言葉が嫌では無かったらしい。真は木漏れ日のような淡い笑みを浮かべた。至極愛らしいが、唇が動く度に切れやしないかと気が気では無い。さて、保湿リップはどこにしまったのだっけ。自分用のものを、スキンケアグッズを入れているボックスに入れてはいるが、アレもだいぶ使ってしまっている。どうせなら、新品をプレゼントしてあげたい。  頭を悩ませた俺はあることを思い出す。そうだ。アレがあったな。後で持ってこよう。  俺はあからさまに何かを企んでいるような顔を晒しながら、食卓に着いた。  久しぶりの真手作りのベーコンエッグは、それはもう食べるだけで顔がほころんでしまうくらいに美味かった。とろとろの半熟卵とカリカリのベーコンの組み合わせというものはどうしてこうも美味なのだろうか。溢れ出る濃い味の黄身に香ばしく柔らかいベーコン。この二つだけで美味いのにその上にハーブソルトをふればそれはもう極上のご馳走のできあがりだ。  しかも、このプレートの上にさらにニンニクを漬けて香り付けをしたオリーブオイルで炒めたプチトマトまでついてくる。これはそれだけで食べても美味いのだが、しっかり焼き目をつけたトーストの上に乗せて食うとさらに美味いのだ。  朝から贅沢をさせて貰った。これにはお礼をしなければならないだろう。食事の後、洗顔と歯磨きを済ませてから、俺は自分の仕事部屋を漁りに行った。  ソファの上に置かれた黒いインクでブランド名を印字した茶色の紙袋。それを開き、中に入っていた数本の黒い棒を取り出すと、側面に書いてある説明を見たり、棒の先に着いているキャップをとって中を吟味したりしながら、数本のうちの一本を手に握り残りの棒は袋の中に戻した。 「まーこーと」  リビングに戻り、珈琲を飲みながらテレビで録り溜めていた俺が出ている音楽番組を見ている真に声をかける。食事中の俺の表情で何かを察していたのだろう。やや身構えた様子で首をかしげる真の隣に座ると、俺は先ほどもって来た棒――リップクリームの蓋を取った。 「口を少し開いて、」 「え、何」 「唇が乾燥して皮が剥けている。放って置いて切れて血が出たらいけないからリップクリームを塗ってやろう。さっき俺が出ていたCMのコスメブランドのものだ。営業か何かの人だろうな。試供品だといって貰ったんだ」 「それは、なんというか有り難いけど、自分で塗る」 「俺はお前に塗ってあげたいんだが」  俺がそう言うと、真は目をぱちくりと瞬きさせると、考えるように瞳をあちらこちらへ動かした。本当は俺にリップを塗って欲しいが、恥ずかしくて、そして何より怖くてそれを言い出せないでいるのだ。自分が自分では無くなるような感覚。真はソレが怖いらしい。  だが、今みたいに、理性と欲望の狭間で揺れる真は非常に愛らしいくいじらしい。そして何より揺らいでぐらついてそのまま欲望の方へ堕ちて――自分が自分でなくなってしまうのではないかと思うほどに、理性も表情も感覚もトロトロになってしまったその真の様がいたく可愛らしいのだ。この表情が見たくて、彼に意地悪なことをしてしまう。 「まぁ、唇を突き出した姿を晒したまま、しばらく静止しないといけないのは確かに恥ずかしいものがあるか。ならば仕方ない。ほら、ちゃんと自分で、」 「え、」 「……なんだ、塗って欲しいのか? さっきは自分で塗ると言っていたじゃないか」 「それは、そうだけど……鏡。そう、鏡、持ってくるの面倒くさいし、俺、こういうの、苦手だから」  嘘をつくのが相変わらず下手だ。真が目を瞑ったまま大した位置の誤差なく絵を描けるほど器用なことぐらい知っている。そしてなにより、彼が「そう言う理由付け」をして自分の欲を正当化したがるのも知っている。だから俺は真にじっとしているように促した。  リップの先を出し、動かないように左手で真の顎を支える。別に、キスをするわけではないのだから目を閉じる必要など無いのに。僅かに睫毛を震えさせる真の瞼に口付けをしたいのを押さえ込んで真の唇の上にリップを滑らせた。唇の上を何往復もし、俺は真の唇からリップを離した。 「ほら、唇こすりあわせて……そう、上手だ。よし、もういいぞ。目を開けろ」 「ん……」  真の目が躊躇いがちにゆっくりと開かれる。 「うん。やっぱり想像通りだ。可愛いよ」  俺が笑うと、真は直ぐにハッとして自分のスマートフォンを手に取った。そして、カメラを起動しカメラをインカメラに切り替える。唇に手を当て、真は勢いよく俺を睨みつけた。 「色付きじゃねぇか、このリップ!」 「安心しろ。保湿効果はしっかりある」  「そこじゃない!」と声を荒げた真の唇は桜のような淡いピンクに色づいていた。じんわりと潤んでいる唇はいつもとは違い――いつもの唇も魅力的だが――魅惑的で扇情的だ。その蜜のように艶めかしく輝いている唇に引き寄せられそのまま自分のそれを重ね合わせると、真の息を呑む音が鮮明に聞こえた。 「これだと、塗った意味、ないんじゃないか」 「いや、俺の唇にもリップが移って俺がリップを塗る手間が省けた」 「本当だ。色が、」  そこまで言って真は目を逸らす。目まで潤ませて。一体何を考えているのだろうか。白々しいことを思いながら、俺はまた真の顔に自分の顔を近づけた。 「もっと、お前の色で染めてくれても良いんだぞ?」 「い、いや、」 「いやなのか?」 「……俺は、お前の色に、」  サッと目を伏せられる。そんなことを言われてしまっては、彼が望むようにしてあげたくなってしまうではないか。 「そうか。そういうプレイをご所望か。実はリップは全部で五色あってな。俺の色を選んでくれないか?」  熱っぽい真の手を握る。こちらを見ずに頷いた真の腕を引き、俺は仕事部屋に向かう。  その後、鍵を閉めた仕事部屋が再び開いたのは、昼近くになってだった。

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