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「このデートの後に抱く」と拓兎に言われた真の話

「このデートの後に、お前を抱く」  冷たい指先がスッと手首をなぞり、指へと絡まる。その手つきにはぞわりと背筋が疼いたが、耳元で囁かれたその甘い言葉に対しては正直「またか」なんて言葉が浮かんできた。  俺の恋人はサプライズが苦手だ。  彼は幼い頃から、悪戯をする前に「これからお前のことをくずぐる。まず脇から行くぞ」と宣言してから人をくすぐるような男だった。そんなことを言えば皆くすぐられたくなくて彼が手を出す前に逃げてしまう。その様子を見て彼は目をパチクリとして「また逃げられた」と笑うのだ。  成長してからも誕生日のサプライズは必ず事前にどこに行き、何をプレゼントするかを宣言していたし、先日もデートの前日に最後に行くレストランで指輪をプレゼントしてくれることを教えてくれた。結局その指輪はデート前日に渡されある意味サプライズになったのだが。  一度、成功した誕生日のサプライズも互いに忙しく、連絡を取れなかったから成功したようなものである。お互いに連絡が取れる状態であればきっと、彼は事前に言ってくれていただろう。「誕生日にはピアスをプレゼントするから耳に穴を開けて待っていてくれ」と。  そんな「宣言」をする彼は、デートの後に俺を抱くときは必ず宣言をしてくれる。ちょうど先ほどのように。初めは彼の発言にタジタジしていたが、慣れてしまった今となっては心の準備ができるし、嫌ならば「ノー」と事前に言えるのがありがたく思ってしまう。  今日は特に眉を顰めて首を振る理由もない。俺は楽しげに握った手を前後に振る拓兎の顔をじっと見ると溜息交じりに彼へ尋ねた。 「今日はどこのホテルに行く気なんだ?」 「新しい店を開拓をしようと思ってな。駅近くではあるんだが、大きな通りからはかなり離れている所だ。HPを見たら内装が滅茶苦茶面白かったんだよ。ライトがいっぱい光り輝いていた。色んな意味で楽しそうだったぞ」  遊園地へ行く時と同じテンションで語る拓兎がなんだか愛おしくて思わず笑ってしまう。話している内容自体は下世話であるのに。そのギャップさえも面白い。 「そうか、それは楽しみだな」  言った後に気が付く。これではなんだか、ラブホテルに行くことが――抱かれることが楽しみだと言っているみたいではないか?  決して、楽しみではないわけではないのだが。けれど、変に期待しすぎると淫乱だとか、はしたないとかそんな風に思われるのではないだろうか。不安になって拓兎の顔を見る。だが拓兎は特に何も気にしていない様子で鼻歌交じりにゆったりと前を見据え笑っていた。俺の気にしすぎだったようだ。  ――そっか。今日はデートの後に拓兎とえっちするんだ。  ぼんやりとその事実を再確認する。少しだけ恥ずかしくなり俯いたが、その恥ずかしさは目的地である個展会場に着いたときにはもう頭の遙か彼方へ消えてしまっていた。 「やっぱり、この人の絵は凄いな……」  数ヶ月前。SNSでたまたま見かけた水彩画に惹かれ気が付いたらファンになっていた作家の個展。それが偶然にも近所で行われることを知って行こうか悩んでいたら、拓兎が「デートでここへ行こう」とこの個展に行くことを提案してくれたのだ。恐らく、俺が何度も個展のお知らせページをスマートフォンで見ていたことを知り、気を利かせてくれたのだろう。  なんだか嬉しい気持ちと、同じくらいの申し訳ない気持ちを抱えながら展示を見て回ったが、どの作品も繊細かつ大胆で心から来て良かったと思えるひとときを過ごすことが出来た。拓兎も気に入った絵があったのか会場を一周した後もう一度会場を見て回り物販店でもポストカードを数店購入していた。  俺も物販店で作品のプリント複製キャンバスを数枚購入するとそれが入った袋を胸に抱え、夢見心地のままで個展会場を出た。かなり危ない足取りだったのだろう。出てから数歩歩いて直ぐに拓兎に背中を支えられた。 「良い具合に気持ちよくなっているな。また何かの魔物に襲われたか?」 「悪い……その、凄い物を……生で見ると如何しても昂ぶっちゃって」 「その気持ちは良くわかる。俺も良い音楽を聴いたときは、良い酒を飲んだときと同じぐらい気持ちよく酔えるからな」  そのまま拓兎に肩を抱かれ、俺達は日が暮れ始めた街を歩き始めた。なんだか今日は世界の色がいつも以上にはっきり見える気がする。そう思える位、充実した時間だった。  やっぱり、良い作品に触れる時間は幸せだ。絵も、彫刻も、映画もそして音楽も。刺激的であればあるほど、得たときの満足感がある。心も身体も頭もいっぱいだ。 「絵にはあまり詳しくない俺でもかなり楽しめる個展だった」 「本当か? それなら、よかった。俺一人楽しんでたら……拓兎につまらない思いさせてたらって不安だったんだ」 「詳しくないからこそ、新しい物に触れるという楽しみと感動があるからな。普段の生活では得られない新たなインスピレーションが湧き出してくる良い体験ができた。それに、お前が楽しいと思う場所は俺も楽しい。なんてったって、楽しそうにしているお前を見ることが出来るからな。とてつもなく幸せな時間だったよ」  いつものことなのだが、拓兎に熱烈に語られると無条件で照れてしまう。唯でさえ火照っていた顔がさらに温度を上げたのを感じた。夕焼けで本当に良かった。きっと、今顔を見られたら照れているのが一瞬で拓兎にばれてしまうだろう。 「照れているのか。可愛いな」  いや、もうすでにばれてしまっていたようだ。  恥ずかしくなってさらに体が熱っぽくなる。すると体の感覚は鈍くなるどころか逆に敏感になってしまい、自分の身体を抱く拓兎の腕を妙に意識してしまった。それと同時に、デートの前に告げられた言葉を思い出す。 「このデートの後に、お前を抱く」  デートの後とは、このデートの終わりとは一体何時なのだろう。この後、夕ご飯を食べに行くのだろうか。この状態で?  きっと、今は何を食べても味がしないのだろうな。そんなことを考えていたら耳に生暖かい風が吹いた。不意に声が出そうになる。奥歯を噛みしめ必死にそれを我慢すると笑い声が――蔑むというよりは寧ろ、愛おしく思っているような――甘い笑い声が鼓膜を揺らした。背筋が痺れる。腹の奥が、変に疼く。ゆっくりと息を吐くと、拓兎もそれに併せて口を開いた。 「そろそろ、行こうか」 「ど、どこに」 「ホテルだよ。デートの前に言っていただろう。確か、今日のデートスケジュールはお前が好いている作家の個展に行くことだけだったよな」 「そういえば……」  ディナーに行くなどという話は、一切出ていなかったな。つまり、デートはここで終わりだということで、この後は―― 「ほどよくお前も出来上がっているようだし……抱かせてくれるよな?」 「まだ、時間帯的に、早いんじゃ」 「我慢できるのか?」  あぁ、この訊き方は、俺がそうできないことをわかっている訊き方だ。「できるのか? いや、できないだろう」そう言っている。断定している。だから、俺はもう何をすることも出来なければ、何をする必要もない。頷きさえもいらない。彼にはもう、全てわかっているのだから。 「今日は新曲を聴かせてやるからな」  抱くときに愛情表現の一つとして歌を歌う癖がある彼は、時折こんな宣言をする。それに俺は小さく「楽しみ」とだけ返すと胸に燻る熱を抱えたまま、彼に導かれるまま行ったことのない街の裏通りへと足を進めるのだった。

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