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第2話

PM5:30 某コンサート会場 控え室でリサイタルの開始時刻まで、本を読んで時間を潰している。 今日はスプリングリサイタルとでも言うのか…特に記念公演でも無いのに、演奏会をする。 定期的にこうやって演奏会を行わないと、存在自体、忘れられてしまうからな… それほどピアニストなんて職業は溢れるほどいるんだ。 コンコン ノックの音がしたので、どうぞ。と言った。 扉が開くと、きらびやかに着飾った杏介の母が立っていた。 「あぁ、これはどうも、わざわざご挨拶に来ていただいて、恐縮です。」 俺は平身低頭挨拶をして、へつらう笑顔で女王をもてなす。 後ろのお坊ちゃんは、一人…あれ?もう一人は? 「桃李は今日はいなんですか?」 俺が聞くと女王は答えた。 「あの子は挨拶に行かないと言って…1人で席に向かってしまいました…」 …桃李の為にチーズケーキを用意していたが…無駄になったようだ。 俺は女王と坊ちゃんをもてなして、控室でしばらく談笑した。 「先生…杏介に、あまり熱を上げないで下さいね…」 意味深にそう言って、俺の体に触れる女王を見て、お前は何を思うんだろうな… 杏介の心情を案じた。 桃李は賢いな…こうなる事が分かっていたんだ… だから来なかった。 自分の母親が女になる所なんて…見たくないからな… 俺は女王を適当にかわして、そろそろ時間だと言って2人を追い出した。 この前桃李が弾いていた曲。 最後のアンコールで弾いてやろう…お前を思って。 スタッフに声を掛けられて、俺はジャケットを羽織る。 ステージに向かう廊下を歩きながら、桃李の事を考える。 母親と兄をたぶらかす俺を酷い男と思っているんだろうな…。 ステージの袖に準備して、彼らの居るであろう座席の方を見る。 ライトが強くて、ここから確認することは出来ない… 桃李… ごめんね… スタッフからの合図を受けて、登場すると客席から沢山の拍手を受ける。 桃李…何処だ。 笑顔を客席に向けながら、目で彼を探して、見つける。 正装した彼は、仏頂面で、不満げな表情…隣の2席はまだ空席だな… 「愛してるよ…」 そっと呟いて、彼にウインクして、ピアノの椅子に座る。 そして、俺はプログラムにある曲を、上から順番に弾いていく。 音色が美しくホールに響いて、気持ちいい。 演奏家、ピアニスト、なんて呼ばれても、結局ピアノなんて…音楽なんてものは趣味、娯楽の一つでしかない…。絵描きの方が当たれば儲かる。演奏家は当たれば過労死だ。こうやって、ニッチな客層を掴んで、細く長く続けていくしかない… ピアノは好きだ。でも、だから何だ。 これで飯を食っていくのは思った以上に大変で、俺は杏介の母親や、今までのその他のパトロン、全て利用してここまで地位を築き上げて来た。そうでもしないと、俺の実力程度ではやっていけなかった…そこまで才能のあるピアニストでは無かったんだ… 今更、正義ぶって音楽を解くつもりもない。 そんな音楽論、俺は持ち合わせてもいないしな… 誰彼構わず抱くが、一生一緒に居るなんて…口が裂けても言いたくない。 金さえもらえれば、俺の地位が保たれれば…それで良いんだ… セックスするのは生きるためだ。 桃李…軽蔑するだろ…俺の生き方を。 そんな目で見る、お前に欲情する俺は、オオカミ以外の何物でも無いな… 15歳の少年に本気になるなんて… 俺らしい…軽蔑される生き方だ。 途中休憩をはさみ、最後の曲を弾く。 一般に人気のある曲を無難に弾いて、演奏が終わる。 アンコールの為、一度引けた袖から再び現れた俺は、桃李と視線を合わせながらピアノまで向かう。 そして、椅子に腰かけると、この前桃李が弾いていたショパンのワルツを弾く。 無難じゃない、俺の演奏をお前にあげよう。 歌もそうだ、そのほかの楽器も、だんだんと自分の癖が付いて来る。 ピアニストはその癖を強く出すか…抑えて大衆向けにするか…塩梅を見ながら演奏する。俺は大衆向けにいつも無難な弾き方ばかりしている。 でも、この曲は、お前が気に入ったこの曲は…俺の弾き方で演奏しよう。 お前の為に、お前を思って、俺の演奏を送ろう… 鍵盤に指を置いて、あの子の弾いたショパンを弾く。 情熱的に、お前を思って、心を込めて弾く。 楽譜の記号など無視して思うがままに、ピアノを鳴らす。 最後の余韻まで、彼に届けて… 俺は椅子を立って客席に一礼する。 顔を上げて桃李を見る。 あんなにつまらなそうにしていたのに… あんなに不機嫌にしていたのに… 彼は満面の笑顔で、俺を見て涙をこぼしている。 俺はそれを見て固まると、腹の底からよく分からない感情がこみ上げそうになった。 だから、足早にステージを下りた。 そして袖で1人静かに嗚咽を漏らして泣いた。 あんなに喜ぶと思わなかった… あんなに俺の演奏に感動してくれると思わなかった… 嬉しい…久しぶりに感じたそんな気持ちに戸惑う…。 お前の好きな曲を、お前の気に入る形で贈れて良かった… 涙を拭いて、平気な顔に戻って、控室へ戻る。 「先生、素晴らしかったです。」 パトロンや、業界関係者のそんなお世辞を受け取って、へつらって笑う。 杏介と彼の母親もやってきて、俺に豪華な花束をくれる。 「桔平先生、とても素晴らしかったです。」 うっとりとした顔でそう言って、俺の手を握って、欲情する女王と、坊ちゃん。 その後ろに、そっと静かに彼が居る。 来てくれたのか… 俺は二人にお礼を言いながら、彼を見つめる。 彼は頬を紅潮させながら俺を見て、何か言いたそうにしている。 今すぐ手を引いて、誰も居ない所に行って、お前の話を聞いてやりたいよ… 俺の演奏の感想を聞いて、愛してると伝えて、抱いてしまいたい… でも、俺はお前のそれに気が付かないふりをして、通り過ぎて行くよ… 桃李、ごめんね… 桃李は俺に無視されて、終始寂しそうな顔をしていた… 胸が張り裂けそうになって…苦しい。 俺が先に音を上げそうだ… こんな駆け引き…するなんて、大人げないよな… 会場を後にして、車まで向かう。 受付で渡されたお客さんから頂いた花束の束を抱えて、駐車場まで来る。 後部座席を開けて、荷物を積み込んで、扉を閉める。 運転席に乗り込んで、気付く。 「何だろう…」 それはワイパーの部分に置かれた小さなブーケ。 こんな事するの…あの子しか思いつかない… 俺は運転席から降りると、ブーケを手に取って中を見た。 “最後のだけ好き” そう書かれたメッセージカードが添えられて、やや元気をなくした花が滲んで見える。 俺はそのブーケを胸に抱えて、また泣いた。 なんて可愛いんだろう… だけど、俺はあの子を無視してしまった… だから、会場の名前の入ったカードを慌てて添えたのかな… 考えるだけで胸が締め付けられる… ダメだ…俺の負けだ。 今度あの子に会ったら、いつも通り優しくしよう… 駆け引きなんてせずに… あの子に話しかけたくて仕方がない… おじさんの負けだ… しかし、次の杏介のレッスンに彼は現れなかった。 迎えの時間になっても、誰も来なかった…。 「桃李はどうしたの?」 杏介に聞くと、さぁ?と言って、誤魔化された気がした。 本棚の一輪挿しに飾った、彼がくれたデイジーの花が悲しそうに見える。 「具合でも悪いのか?」 俺の問いに答える気が無い様に、俺の背中に顔を埋めて頬ずりする杏介。 心配になった… 彼の悲しそうな顔を思い出して、胸が痛くなる。 「先生がアンコールで弾いた曲、どうしてあの曲にしたんですか?」 そう杏介が聞いて来るけど、さっき俺の問いに答えなかったんだ。 俺が答える義理はないだろう…。 あの子のために用意したお菓子が溜まっていく… 俺が無視したから…傷ついてしまったのかな… もう、会いたく無くなってしまったのかな… そんな思いを続けて、日々を過ごした。 彼の姉のお披露目パーティーまで、彼に会うことは無かった。 「桔平先生良く来てくださいました。」 玄関で杏介の母親に丁寧にもてなされる。 俺は挨拶もそこそこにピアノ演奏を依頼され、快く応じた。 彼の家にはピアノが二台ある。 一台は、このスタンウェイのグランドピアノ… もう一台は、杏介の練習用のスタンウェイのアップライトピアノ… ホールの様に広いこの場所に、グランドピアノの生演奏BGMとは…英国の貴族の様な感覚だな…。 俺は貴族お抱えのベートーベンにでもなったつもりで、彼らの様子を見ながらピアノを演奏する。 桃李はどこに居るかな… 「桔平先生…」 後ろから声を掛けられて、杏介が俺の視界に現れる。 「先生の弾いてる姿が見れるなんて…嬉しいです。」 そうか… 俺は適当に相槌を打って、集中したいと伝え、杏介を追い払った。 あちこち見まわして、やっと、部屋の隅に桃李が居るのを見つけた俺は、彼と目を合わせようと、ずっと見つめるのに、彼は下を向いたまま動こうとしなかった。 そうこうしていると、彼の姉がチュチュを着てプロのダンサーを従えて現れる。 俺は演奏を止めて、桃李の元に急いで行く。 「桃李…久しぶりに見るぞ。」 俺がそう言って声を掛けると、彼は逃げる様に立ち去ろうとする。 「まって」 そう言って、彼を後ろから捕まえて抱きしめる。 彼の背中の熱を感じて、彼の息を感じる。 「桃李…どうした」 どうした?って…俺が傷つけたんだ… 白々しい大人だ… 「お前は姉さんと踊るんじゃないのか?」 彼の顔を覗き込むように見ると、久しぶりに見た彼はすっかり元気のない顔をしている。桃李は姉さんとは踊らないのか… 「…何かあったのか?」 そう聞いても何も答えないで、俺から視線を逸らしたままにする。 だから、俺は彼の体を後ろから抱きしめて、黙って腕をさすった。 「桔平先生…演奏を、お願いします。」 使用人にそう声を掛けられる。 しかし、俺はせっかく会えた桃李を逃す訳にはいかなかった。 「一緒においで」 そう声を掛けて、半ば強引に彼の腕を引っ張ってピアノまで連れてくると、足の間に彼を座らせて、ピアノに向かい合った。 体を捩って逃げ出そうとするから、俺は彼の細い腰を掴んで離さなかった。 今お前を逃がしたら、また会えなくなりそうで、俺が嫌なんだ。 「桃李…ごめんね…」 そう言って桃李のふわふわの頭を撫でると、俺は白鳥の湖第二幕のグランアダージョの部分をピアノで弾いた。 彼の不機嫌な理由は、姉さんの隣にプロのダンサーが居ることなんだろうか… それとも、俺に会うのが嫌だったんだろうか… 後者のような気がする… 桃李は俺の足の間で、演奏の邪魔にならない様に身を縮ませるから、俺は小さい声で言った。 「そんなに縮こまらなくても大丈夫だよ…俺の足の中に居たら邪魔にならないよ。」 そう言って、彼の頭の匂いを嗅ぐ。 鼻先に彼の髪の毛が掛かって、気持ちいい。 「お花、ありがとう…」 リサイタルの話を彼にする。答えなくてもこの距離だ。聞こえていない訳じゃない… 「最後の曲、気に入った?」 桃李は微動だにしないで、俺の話を聞いてるか…姉さんの踊りを見ている。 「お前の方が綺麗だ…」 俺はそう言って彼の頭にキスする。 少し体を避けるけど、この状態だ。動けなくて固まる。 「家においで…あの曲を弾いてあげる。気に入ったんだろ?」 「いやだ」 久しぶりに聞いた彼の第一声は“いやだ”だ… おかしくて笑うと、俺の足の間の彼は、体を震わせて顔を下に下げた。 笑っているのかと思ったら、両手で顔を抑えて……泣いているようだった。 頭が真っ白になって、それ以上彼にちょっかいを掛けるのを止めた。 ただ、背中に触れて彼を抱いて、ピアノを弾いた。 「桃李…ごめんね…」 姉さんの踊りが終わるころ、彼に小さく言う。 きっと、許してもらえないだろうけど… 俺はどうやら匙加減を間違えてしまったようだ… 彼は深く傷ついて、俺の事を嫌いになってしまったみたいだ。 15歳の少年にあんな駆け引きじみた事…しなきゃよかった… 大切なものを自分で壊してしまったような、自己嫌悪に陥る。 踊りが終わって、ピアノの演奏も終わる。 俺は足の間の彼を振り向かせて顔を見る。 俺に顔を背ける彼の顔を見る。 「桃李…ごめんなさい…」 そう謝って、彼を解放してあげた。 何てことだ… 「桃李はバレエを辞めたんです。」 適当に見知らぬ人と閑談していると、杏介が俺の傍に来て、そう言った。 俺の表情を伺う様にじっと見つめて、反応を伺っている様子にうんざりとする。 「どうして…?あんなに夢中になっていたじゃないか…」 表情を変えずに、杏介を見て、俺は尋ねた。 「さぁ、飽きっぽいんじゃないですか?もともと姉のついでだったし…」 酷いな…あんなに頑張っていたのに… 「彼の踊りを見た事がある?」 杏介に聞くと、興味なさげに彼は首を横に振った。 「とても美しいんだよ。さっきのお姉さんよりも美しくて、しなやかで、綺麗なんだ。」 彼の踊りを思い出して、自然と口元が緩んでいく。 「まるで重力なんて感じない様な踊りでね、彼は相当努力したんだよ。飽きっぽいなんて、そんな訳ない。そんな子があんなに上手になれる訳が無い。」 残念過ぎて、俺まで涙がこぼれそうだ… 「先生はまるで、桃李の事が好きみたいな口ぶりですね。」 杏介がそう言うから、面倒に感じて言った。 「俺は桃李が好きだよ。何よりも大事だ。だからあの子は簡単に抱いたりしない。」 杏介があからさまに嫌悪感を抱いて表情を変える。 そして、嘲笑う様に口元を上げて俺に言った。 「じゃあ、先生は悲しいかも。桃李はバレエの先生に悪戯されて、バレエを辞める事になったから…。悪戯した先生は姉の先生で、ほら、今日もいらっしゃってる。」 頭から冷や水を掛けられた様に血の気が引いていく。 こんな事…巷では…よくある事なんだろうけど…俺はショックで目の前が暗くなった。 嘘だろ… 「そんな……ひどい目に遭った弟に…お前は随分冷たいんだな…!」 俺はそう言うと、杏介の傍を離れた。 「先生、待って!」 「いやだ。お前は…お前と話すと、気分が悪くなる…!」 俺は追いすがる彼の手を払った。 信じられない。 だから、あんなにあの子は落ち込んでいたのか… 可哀そうに…可哀そうに… なんで被害者のあの子がバレエを辞めなくてはいけないんだ…あんなに大好きだった、バレエを辞めないといけないんだ… 俺は頭に来て、彼の姉の近くへ行き、傍に居るそれらしい男に聞いた。 「お前が…悪戯したのか?」 すると、男はじっと俺を見て黙っている。 その態度に頭にきて、胸ぐらを掴んでもう一度聞いた。 「お前が桃李を好きにしたのか?」 「もう、その話は終わっている。」 吐き捨てる様にそう言うと、俺の腕を払って逃げて行く。 この男が…俺の宝物を踏みにじった…!! 男の体を掴んで、目の前に引っ張り寄せ、右手で思いきりぶん殴ると、倒れたそいつの上に跨って、顔面を殴った。 綺麗で、端正で、美しい顔をボコボコにしてやる。 あの子は嫌がったはずだ…怖がったはずだ…痛くて、泣いたはずだ…!! 許せない!! 使用人たちが俺を止める頃には、バレエの先生はすっかりボコボコになった後だった。ざまあみろ… 騒然とする室内で、俺は使用人達に羽交い絞めにされ、奥のキッチンに連れて行かれる。 そこには女王が待ち構えていて、俺の荒れた息を顔に浴びて高揚して言った。 「桔平先生…困ります。これがどういう事か、お分かりですか?」 彼女はそう言って、俺の体を食べたそうに服の上から体を撫でる。 「息子が悪戯されたのに、平気なんですか?」 鼻息を荒くしてそう言うと、彼女の手を払って俺は凄んだ。 彼女は俺の顔を見て、微笑むと、視線を外しながら冷たく言った。 「それを言ったら、先生だって、杏介に悪戯されたじゃないですか…」 「確かに…では、今後一切関わるのは止めましょう。もうレッスンもお受けいたしません。どうぞ、お元気で。」 そう言って、俺はキッチンを出ると、まだ騒然とする暴行現場を通って玄関を出る。 何で…何で、桃李が… 悔しくて、可哀想で、胸が痛くて、倒れてしまいそうだ… 駐車場に停めた車の中で、ぼんやりと放心する。 パトロンを一つ失ってしまった。 でも、今はもう考えたくない… すると、目の前に桃李が現れた。 目を赤くして、俺の車の方に駆けよってくるから、俺は運転席のドアを開けた。 俺が運転席を立つよりも早く、彼は俺に抱きついて来て、声を上げて泣いた。 俺は彼の体を抱きしめて、頭を撫でてあげた。 疲れ切った様な背中で、悲しそうに揺れる彼を見下ろして、俺は言った。 「家においで…」 俺がそう言うと、彼は泣き声を上げながら、大きく、何度も頷いた。 可哀そうに… こんなに弱っている… 俺の可愛い人 あのまま桃李を連れ去って、家まで戻ってきた。 無言のまま、家に上がると、居心地悪そうにするから、俺は彼の体を引き寄せて、抱きしめると言った。 「桃李…ピアノを弾いてやろう…お前の気に入った曲はショパンって人が作ったやつだ。その人が作ったワルツと言うのの、7番目の曲で、変則的なロンド形式だ。主題を…同じメロディを繰り返して、演奏される。ワルツと言っても踊る用では無くて…演奏を目的とした曲だ。でも、お前なら合わせて踊れるかもしれないね。」 長々と…聞かれてもいないのにそう話しながら、彼をピアノの部屋に連れてくる。 拒みもせずに大人しく付いて来る彼に、胸が締め付けられる。 「おいで」 ピアノの椅子に座って、足の間を開けて手招きすると、大人しく言う事を聞く。 桃李…俺に心を許しちゃダメだよ… そのまま彼を抱きしめて、頭にキスする。 指を鍵盤に置いて、弾き始める。 「これが主題だ…このメロディーが繰り返し聞こえるから、よく聞いていてね。この曲は3つの主題を繰り返している。1つは1回しか出てこないんだ。良く聞いていて、お前ならすぐに分かるから…」 桃李はこの曲が好きな様で、大人しく聴き入ってる様子に安心する。 「今、主題が変わったよ。」 こんな事を言われながら聞きたくないだろうが、持て余した気持ちを抑えるためにも、俺は講師の様に振舞う事が必要だった。 「ここでまた変わったね。分かる?」 俺が聞くと、彼は小さく頷いて答えた。 髪の匂いを嗅ぎながら、彼の体温を感じる。 あまり触れすぎると、興奮してきてしまうので、必死に抑えて講師の様に曲を説明する。 「ほら、これはさっきも聞いたでしょ?」 俺の問いに頷いて答えていた桃李が体を乗り出して、鍵盤の動きを見ている。 「桃李、ピアノは何楽器だと思う?」 その様子が可愛くて、そう聞くと彼は下を向いて答えた。 「弦楽器…」 「ふふ、実は打楽器なんだよ。正確には打弦楽器。中にハンマーが入っていて、鍵盤を押すと、ハンマーが弦を叩くんだ。それで、この音色が出てくるんだよ。凄いだろ?」 後で中を見せてやろう…きっと驚くだろう。 曲を弾き終えて、彼を足の間に収めて気持ちを持て余す。 このまま…犯してしまいそうで…弱っている彼にとどめを刺しそうで、自分を信用できない… 「…次は何が聞きたい?」 俺は彼の頭に顔を寄せて聞く。今にも食べてしまいそうな気持を抑えて、必死に耐える。 「…ベートーベンの…交響曲第7番の第2楽章…あれはピアノじゃないの?」 随分と…暗い曲だな… 「ふふ、あるよ。リストが独奏用に編曲した。あのラ・カンパネラのリストね。」 俺はそう言って、人類滅亡の曲を弾いた… どうしてそう呼ぶかと言うと、まるで人類が滅亡するときに流れそうな…暗くて、絶望して、あがいて葛藤している様なそんな情景が、この曲を聴くと浮かぶからだ…。 「良い…」 ひと言そう言って、彼は人類滅亡の曲を静かに聞いた。 選曲が面白いのは変わらない…。 弾き終えて、また彼を両手で抱きしめる。 細くて、人形の様な体の美しい彼…この子を好きにしたあの男が許せない… 頭を撫でて、髪をすくって顔を覗く。 まだ目の周りが赤くなっていて、まるでアイシャドウを付けた様に見える。 赤くなった所を親指でなぞって、おでこにキスする。 桃李は俺の腰にそっと手を添えて、胸の向きを変えると、体を捩って、俺の口にキスをしてきた。 我慢しろ… 俺はそのまま舌を入れたいのを我慢して、彼の軽いキスを受ける。 これは試練なんだ… ここでオオカミになったら…何かが終わる気がする。 彼の髪をかき上げて、顔を覗く。 怒っている訳でも無く、悲しんでいる訳でも無く…真顔な訳でもない、ニュートラル。 「毒が抜けたようだ…」 俺がそう呟くと、桃李は俺の肩に両手を滑らせて、そのまま抱きついて来た。 甘えてる… 可愛い… 俺は彼の細い腰を腕でつかんで、締め付ける。 そのまま彼の首に顔を埋めて、匂いを嗅ぐ。 舌を這わせたいのを必死に我慢して、大人しくする。 「嫌な思いをしたね…」 彼の耳元で俺が言うと、桃李はしゃくりあげて泣き始める。 「怖かったの?」 俺の問いに頷いて泣く。 「嫌だったの?」 続けて頷いて答える。 「可哀想に…もう大丈夫だよ…」 そう言って、彼の足を持ち上げて椅子に乗せてあげる。 そのまま彼を抱きしめて、安全であると伝えるために、欲情をひた隠す。 俺も一歩間違えたら…あの男の様に彼を好きにしたのかな… 多分… いや、絶対…そうしたに違いない… 彼の髪をすくって頭を撫でて、気持ちよさそうに目を瞑る顔を眺める。 「桃李…愛おしいよ」 そう言って彼の顔の近くに唇を寄せていく。 決して自分からではなく、彼からのキスを待つ。 そっと触れる彼からのキスに、背筋が痺れて興奮する。 口を開けて舌を舐めたい… 頭が痺れるようなキスをしたい… でも、我慢だ…俺は35歳だ。我慢のできる男だ… 細い背中を手のひらで撫でる。 このまま服を剥いて犯してしまいたい…! あの男と何ら変わりない欲望を、俺だって持っている。 気を散らしたくて、俺はピアノを弾くことに専念することにした。 「次は何が聞きたい?」 俺がそう聞くと、桃李は姿勢を戻すと、立ち上がり、俺を見下ろして言った。 「赤ずきん…」 誘ってるの…? まさか…変な期待をするな。 「良いよ。じゃあ、桃李は踊ってよ…」 俺は彼を足の間から解放して、楽譜を探しに立ち上がった。 彼は俺のひざ掛けを頭から被って頭巾を作った。 俺は彼の顔の周りのひざ掛けを整えてあげる。 俺のひざ掛けを被っただけなのに…なんて可愛いんだ… 楽譜を見つけて、ピアノに戻る。 「オオカミは誰がやるの?」 俺が笑ってそう聞くと、桃李は俺を見て言った。 「オオカミは桔平だろ…」 俺は笑って流して、ピアノに指を置く。 …一生懸命我慢してるのに、煽るような事を言うんじゃないよ… 彼は指を一本立てて、つま先を伸ばしポーズをとって立ち止まった。 どうか俺のオオカミが暴れませんように… そして、俺は軽やかな赤ずきんの導入部分を弾いた。 彼はピアノに合わせて軽やかに歩くと、首を振る赤ずきんの振付を踊る。 表情まで付けるから…ひたすら可愛い… 俺をオオカミに見立てて驚いて、逃げる。 しなやかに体を反らせて、オオカミから逃げる赤ずきんを踊っている。 手に持った本をカゴに見立てて床に置くと、俺に向かって振付のジェスチャーをする。 踊りも佳境に入って、テンポが上がる。 バレエではオオカミが赤ずきんを持ち上げて、袖に連れて行くんだけど… ここまでされたら、やるしかないだろう… 俺は最後まで弾き終える前に、テンポに合わせて椅子から立ち上がると、桃李の軽い体を持ち上げて、ソファに連れて行く。 そして、そのまま降ろすと彼に覆いかぶさって見下ろす。 麗しの赤ずきん… 彼の顔を見て、目を見つめて、時間が止まる。 彼は何も言わないで、俺の様子をただじっと見ている… 長いまつ毛に、紅潮した唇。頭巾がずれて、ふわふわの髪から覗くおでこ…。 堪らない…このまま抱いてしまいたい… 衝動を抑える様に目を閉じて… イクのを我慢する時の様に、彼から視線を逸らして、深呼吸する。 「桃李…上手に踊れたね…」 そう言って微笑んで、彼の上から体を退かす。 桃李はすぐに体を起こして、俺の様子を不思議そうに伺っている。 そしておもむろに俺の膝に手を置くと、ゆっくりと体を落として頭を置いた。 細い体を俺に預けて、目を瞑って無防備に俺の膝枕で眠り始めた… 「と、と、桃李…眠いの?」 意外な展開に動揺して、声を裏返しながら聞くと、彼はコクリと頷いた。 「ベッドで寝ても良いよ…」 俺はそう言うと、彼を起こそうと体を持ち上げた。 「いやだ。ここで…お前の膝で寝たい…」 そう言ってまた俺の膝にコロンと寝転がって、目を瞑る。 どうしよう… 変な気が起きて、膝の上の彼を視姦する。 胸元の開きから覗く肌を見つめて、触れたくなる。 首筋に顔を埋めて舐めまわしたい… 「桃李…変な気分になって来たから…離れた方が良いよ…」 そう言って、彼の首筋を指で撫でて耳たぶを触る。 柔らかい肌に理性が飛んでいきそうだ… そのまま彼の頬を撫でて、顔を上に向かせると、唇を撫でて押し広げる。 俺を仰ぐ彼の顔が、誘っているように見えて、そのまま顔を沈めて、舌で彼の唇を舐める。 止まらなくなって、彼の唇を食むように味わって、舌を入れてキスする。 彼は嫌がらないけど、怖くて固まっているの? 表情を確認すると、惚けたような顔で俺の首に手を回して、キスしてくる。 良いんだ… 許可をもらった俺は、彼の首筋に顔を埋めて、思う存分に彼を舐める。 「桔平…兄さんにもしたの?ボクも…同じように抱くの?」 潤んだ瞳で、そう聞いて来るから、俺は彼の唇にキスして黙らせる。 彼の服の中に手を滑らせて、肌を触る。 滑らかで、吸いつくような肌に手が興奮して行く。 腰の細さもさることながら、わき腹からわきの下までのラインが、しなやかで… 女を触っている様な錯覚を覚える。 「桃李…可愛いよ。お前は特別だから、うんと優しく抱いてあげるよ…」 そう言って、彼の服をまくり上げると、あらわになった美しい肌に唇を当ててキスする。 桃李の体がしなって反る。両手を滑らせて彼の可愛い乳首を触る。 「桔平…あっ、ん…や、やだ…恥ずかしい…変な声出るから…」 可愛いこと言うと…もっと興奮して、もっとエッチな事しちゃうのに… 俺は彼の乳首に舌を這わせて下からねっとりと舐めて口に入れる。 舌でレロレロと転がしてやると、桃李は体を仰け反らせて可愛い声で喘いだ。 可愛い… そのまま、わき腹を舐めて下がり、彼のズボンに手を掛ける。 俺の肩を掴んで体を起こすと、桃李は顔を赤くして言った。 「何…するの…?」 俺は彼のズボンのチャックを開けて、少し脱がせると、彼のパンツの上から、半勃ちしたモノを唇で優しく刺激する。 俺の頭を掴んで、嫌がる様にするから、俺は彼のパンツを下げて、彼のモノを取り出すと、口に咥えて扱いた。 「あっ!あっ、ダメ…や、やん!だめぇ…桔平、や、ヤダぁ…」 体を仰け反らせて、口元に手を当てて、俺にフェラチオされる桃李を見る。 目だけで、イキそうだ… 彼のモノは俺の口の中で大きくなると、可愛くビクビク動いて快感を感じてる。 彼の顔を覗いて、彼のモノを丁寧に扱いてあげる。 快感から逃げる様にソファを足で掻いて、可愛い口でエッチな声を出す。 堪らなくエロくて、思った通りに、最高に可愛かった… 彼の口にキスして、舌を入れて絡めると、彼のモノをねっとりと扱いて、絶頂まで登らせる。俺の胸に小さな手を置いて、体を反らせて感じる彼の口を離さない様に、しつこくキスする。 口端から漏れる喘ぎ声に、自分のモノが激しく反応して、痛い位に勃起する。 「桃李…気持ちいい?」 キスを外して、彼のおでこに頭を付けながら、彼の顔を見て、尋ねる。 答える代わりに、虚ろな目で俺の方を見て、頬を赤らめる。 口元を緩めて舌を出してくるから、俺は彼の舌を吸って、またキスをする。 彼の体を抱いて、彼のモノを下から上に丁寧に扱いてあげる。 先っぽからトロトロの汁が垂れて美味しそうな音を立てる。 「ああ…桔平…ボク、イキそう…イッちゃいそうなの…。あぁ…ん、はぁはぁ…」 両手で俺の頬を包みながら、トロンとした表情で俺に伝えてくる。 可愛い…最高に可愛い 「イッて良いよ…」 俺はそう言って彼にまたキスする。 首筋に舌を這わせて、舐めて、快感をもっと感じさせてあげる。 「あぁっ!だめ…はぁはぁ…んんっ…イッちゃう…あぁああ!…はぁはぁ…あぁん…」 彼は腰を震わせながら、射精した。 俺はすぐにそれを舐めて彼のモノを口に咥える。 「あっ!あぁああ…ダメぇ…んん…はぁはぁ…ああぁ…きいもちい…桔平、あぁああ…」 体がとてもしなやかなんだ… がっちりと彼の足の根元を掴んで、逃がさない様に口で扱く俺の頭を掴みながら、上体を反らして、膝を曲げて快感に悶える姿がとてもエロくて…堪らない。 彼の胸に手を滑らせて、そのまま乳首を撫でると、もっと体が反っていく。 可愛い…堪らない。 彼の体を手で押さえながら、乳首をゆっくりとこね回していく。 俺の口の中で彼のモノが、今にもイキそうなくらいにビクついてくる。 そのまま吸い上げると、彼はその快感と一緒にまたイッた。 自分のモノが痛くなってきて、俺はズボンから出して、軽く自分で扱いた。 桃李はそれを見ると、視線を逸らして、頬を赤くするから、俺は彼の手を取って自分のモノを触らせると、上から手を握って掴ませた。 「桃李…桔平のここ、気持ちよくして…」 そう言って彼に、彼の小さな手で扱かせる。 堪んない… どんどんモノが興奮して大きくなる。 細くて小さな手が、俺のモノを扱いている。そして、それは桃李の手なんだ… 「上手だよ…桃李、ほら、もう…こんなに大きくなったでしょ…」 そう言って、彼の唇を指で触って親指を口の中に入れる。 彼の舌の感覚を指に感じて、腰が動く。 そのまま堪らなくなって、彼の口にキスする。 扱いて貰ってるだけなのに…こんなんで…もうイキそうだ… それくらい感情が高ぶっているという事なのか… 「あぁ…!桃李、俺もイキそうだよ…可愛い…愛してるよ…桃李」 そう言って、小さな彼の手に扱かれて、俺はイッた…。 彼の手に付いた精液を、すぐティッシュで拭いてあげる。 桃李はおもむろに、俺の股間に顔を落とすと、イッたばかりの俺のモノをペロリと舐めた。 その光景を見たら、あっという間に顔が熱くなって、耳まで熱くなってくる。 「桃李…良いの、お前はそれ、しなくて良いの…」 俺は慌てて彼の肩を掴んで上を向かせると、可愛い彼の唇にキスした。 なんだ、この気持ちは…羞恥心なのか? 今までフェラチオされて、こんな風に恥ずかしがる事なんて、無かったのに… 彼に舐められただけで、こんな気持ちになるなんて… 俺は…彼を本当に好きなんだ… 口に突っ込みたいとか、思っていたのに… いざそうなると、彼にそんな事させたくないと思って、止めるなんて… そんな初々しい気持ちを持ち合わせていたなんて…笑える。 「桔平…もうしないの?」 俺の腕の中で桃李が聞いて来るから、俺は彼の乱れた髪の毛を、手ですくって整えてあげる。 「うん…十分すぎるくらい、気持ち良かったから…」 そう言って、前髪を掻き分けて彼のおでこを出して、唇にまたキスする。 可愛い…俺の愛する人。 桃李に服を着せて、自分も服装を整える。 ソファに座って、膝に寝転がる彼を撫でながら窓の外を見る。 「桃李…新芽開いた」 俺がそう言うと、彼は目を開けて微笑んだ。 こんな穏やかに笑うんだな… そのまま髪の毛を撫でて、寝かせてあげる。 あの家に帰るのかな… 帰したくないな… ピンポン チャイムの鳴る音に目が覚める。 どうやらあの体勢のまま、眠ってしまっていたようだ。 膝の上でまだ眠る彼を起こさない様に、俺は玄関に向かう。 「はい」 玄関の扉越しに応えると、向こうから杏介の声がした。 「先生…桃李を迎えに来ました。」 あぁ…俺の可愛い桃李… このまま帰してしまったら…もう会えなくなるんじゃないか… だってあの時彼らの母親に言ったじゃないか…今後一切関わらないと… 考える様に立ち尽くす俺の背後から、廊下を歩く音が聞こえる。 後ろを振り返ると、桃李が立っていた。 「お前は…どうしたい?」 彼に尋ねる。 桃李は、ゆっくり玄関に来ると、迷うことなく靴を履いた。 …そうか そして、俺の体に抱きつくと言った。 「あいつを殴ってくれてありがとう…お前はピアニストだから、もう殴らない方が良い。」 そう言って、愛おしそうに俺の背中を撫でて、胸に顔を埋める。 俺は目から涙を落として、彼との別れを悲しんだ。 細い腰に腕を回して、彼の体が浮くくらい強く抱きしめた。 「またおいで…お願いだ…また、俺に会いに来て…」 そう言って、彼の唇にキスをする。 玄関を開けると、目の前に杏介が立っていて、俺を見て目を逸らした。 桃李は何も話さないまま迎えに来た車に乗り込む。 俺はその後姿を、ただ眺めることしか出来ない。 俺に向かって一礼して、杏介も遅れて車に乗り込む。 用が済んだ様に車が立ち去っていく。 俺の愛しい人を乗せて、遠くへ行く。 …また、来るかな… もう…来ないかもしれないな… 玄関を閉めて、彼の居たピアノの部屋に戻る。 一緒に乱れたソファに、一人で座って彼の感触を思い出す。 結局、彼を抱くことは出来なかった… 可愛い人を自分が汚すことに、抵抗を感じてしまった。 でも、これで良かったんだと思う。 ピアノに向かい、椅子に腰かけて、彼の踊った赤ずきんの曲を弾く。 その後、人類滅亡の曲を弾いて…最後にショパンを弾く。 彼を思って、偲んで、弾きあげる。 俺にも、こんな繊細な感情が残っていたんだな… 涙が頬を伝うのを感じた。 また会えるか、分からない彼を思って、涙を落とした。 杏介のレッスン予定の日… 彼は何食わぬ顔で俺の元を訪れた。 「お母さんに聞いていないか…もう君のレッスンはしないんだ。」 玄関でそう言って、扉を閉めようとする俺に、杏介は食い下がって言う。 「母も僕も、先生のレッスンを辞めるとは、一言も言っていません。」 「これは君たちの問題じゃなくて、俺の問題だ。もう君をレッスンすることは無い。」 玄関でそんな押し問答をしていると、一台の車が停まって、中から学校帰りの桃李が出てきた。 学校の校章が付いた紺のブレザーに、赤いネクタイ、グレーのズボン姿。 こうやって見ても、やっぱり可愛い彼に胸が痛くなる。 「桔平…なぜ兄さんを入れないんだ…失礼だろ」 彼にそう声を掛けられて、俺は杏介を見る。 「面倒なんだよ…」 そう吐き捨てる様に言って、桃李に視線を戻す。 桃李は俺達の方へ向かってくると、杏介の後ろに立って俺を見た。 やや癖っ毛の髪は、今日もフワフワして日の光を受けて美しく光った。 杏介の耳元に顔を寄せて、俺の方を見ながら囁く。 「兄さんは…面倒だ…」 その瞬間、杏介のびんたが桃李に飛んで、彼は体をよろけさせて顔を伏せた。 ふわふわの髪が邪魔で、彼の表情が見えない。 「杏介、止めなさい。叩くことないだろ。」 そう言って俺が諫めると、杏介はもっと桃李を殴った。 「どうして?!先生!酷いじゃないか!こんな奴の方が良いの?なんで?先生!」 そう叫びながら、杏介は桃李を殴って蹴った。 俺は桃李を庇う様に背中に隠して、杏介の腕を掴んで止める。 そして、彼を見下ろして言った。 「もう、君のレッスンはしない。俺が決めた。」 そう言って振り返って、桃李の顔を覗く、頬を赤くして、髪の毛が乱れてしまった。 俺は手櫛で髪を整えてやると、前髪を分けて、頬を撫でる。 「可哀想に…痛かったね…」 そう言って、桃李を抱きしめる。 桃李は俺の背中に細い手を回して、ギュッとしっかり抱きしめて来た。 「…桃李!帰るよっ!母にこの事、伝えますからっ!」 捨て台詞の様にそう言って、杏介が帰って行く。 俺の愛しい人を連れて… あの人は置いて行けよ… どうせ虐めるんだから… 俺の勘だと、桃李は家に居場所が無さそうに思える… いつも、姉弟どちらかのおまけの様な扱いを受けている。…普通、一番下の子と言うのは両親の溺愛の対象になるんじゃないのか…? まるで…虐めているみたいに見える。 この前の姉のバレエのお披露目会でもそうだ。 彼だけ1人、家族と離れた場所に居た… 俺と居る時以外の彼を知らないが…まるで憎しみを晴らすように杏介を煽る姿に、痛々しささえ感じる。 気のせいなのか…それとも 苦々しい気持ちを抱えたまま、彼らの去った方を見て思いを巡らした。 俺は部屋に戻り、ピアノの前に座る。 あの子…ショパンをどこで聞いたのかな… 俺の知っている範囲で、杏介の課題にショパンのあの曲があがることは無かった。 あの子が自宅で練習以外にピアノを弾くことは、奏者としてのタイプから無いと推測して…。 一体どこで聞いたんだろう… 母も姉もピアノを弾かないし…姿の見えない父親に至っては、情報不足だ。 今度会ったら…会えたら…聞いてみたい。 パトロン無しでも生きていける様に、作曲の仕事を受け始めた俺は、桃李の事を思いながら、生きていくために曲を書いた。 これがまともな選択なんだろうな… うすうす感じていたが、自分のセンスに自信が無かった。 でも、桃李が…あの子が俺の演奏に涙を流した姿を見たら…少し自信が持てたんだ。そこから始まった作曲の仕事。何としても軌道に乗せていきたい。 ピンポン 熱中して作業していると、誰かが訪ねて来た。 俺は玄関に向かい、のぞき窓から相手を見る。 観念した様に扉を開けて、相手を向かい入れる。 「杏介君の事ですか…」 俺はそう言って、彼女を家にあげる。 匂いのきつい香水を付けて、俺の体にしなだれかかると、口紅の付いた唇で俺にキスをする。 俺は彼女の肩を掴んで、引き剥がす。 「この前、お話した通りです。俺はあなたたちとはもう関係を断ちたい。」 そう言って、彼女の顔を見る。 杏介の母親は、俺の目を見て笑うと言った。 「私たちの関係を無しにしたら、あなたはどうやって生きていくの?私がお世話してあげないで、誰が面倒見てくれるの?どうして、急にそんな自立心が芽生えてしまったの?何もできないのに…」 そう言うと、クスクス笑って、俺に近づいて来る。 「杏介君のレッスンは他の先生にお願いしてください。俺はあの子が嫌いだ。あなたの事も、嫌いだ。だからもう2度と会いたくない。」 そう言って、近づく彼女の体をかわして、部屋の扉を開ける。 「帰ってください。」 俺の言葉に、ムッとした顔をして、怒りをあらわにする。 あなたの権威はあなたの物じゃない…旦那の物なのに…。 勘違いして行くんだろうか…金と権力のある男と結婚して、周りがひれ伏すと、勘違いしてしまうんだろうか…まるで、自分が女王様にでもなったかの様に…。 帝王学でも学ばないと、不釣り合いになって、均衡が保てなくなるんだろうか… 彼女は、結局…金をちらつかせて男遊びをする年増のババアだ… 俺はその金に釣られて、年増を抱く…卑怯者だ。 だから、もう終わりにしたい。 好きでも無い奴を抱くのも、簡単に誰とでも寝ることも、終わりにしたい。 「桃李の事、大事なんでしょ?」 そう言う彼女は、まるで魔女の様に口端を上げて笑う。 何か不穏な空気を感じて、俺は彼女の次の言葉に注目する。 「あの子がどうなっても良いの?」 どう言う事だ… 「心配なんでしょ?だったら…分かるわよね?私も杏介も、あなたの事が気に入ってるのよ…ねぇ。野性的で…粗暴で…男らしくて…ね?」 桃李がどうしたって言うんだ… 「彼は…あなたの子供でしょ?」 俺は愕然としながら彼女の目を見る。 彼女は目を笑わせながら、はぐらかすように声を揺らして言った。 「どうかしら…」 「じゃああの子は誰の子供ですか?」 「さぁ…何の事かしら…」 そう言って、俺の体に手を伸ばして、触れて、抱きついて、顔を上げて言った。 「ねぇ、早く抱いてよ…この前、あなたが興奮して怒っているの、見てから…私ずっとしたかったの…ね?あんな興奮して…本当にあなたは…可愛いわ…」 桃李の事が…何だっていうんだ… 考える様に目の前の彼女の瞳を見つめる… このどす黒い渦に飲まれたら…俺はそれこそ桃李に顔向けできないんじゃないのか…でも、彼を人質の様にされた今、俺が従わないと…彼はひどい目に遭うんじゃないのか… 「桃李に…私の元でピアノを習わせてください。約束していただけたら、杏介君のレッスンを受けます。あなたとの関係も、これまで通り続けます。」 せっかく抜け出そうとした穴に、再び飛び込んで行く。 前向きに考えて、穴の中を知っているからこそ…次は桃李も連れて、2人で抜け出せるかもしれない… 後ろ向きに考えると、結局俺は楽な生き方を辞めることが出来なかった…クズだ。 彼女は声を出して笑うと言った。 「あの子にピアノは一番ダメな組み合わせね…。でも、良いわ。あなたの方が大切だから…言う通りにしてあげる。ただ、家に宿題を持ち込ませないで…家では弾かせないで。」 彼女はそう言うと、俺の唇にキスをして、舌を入れて絡める。 俺はその舌を受け入れて、彼女の腰を抱いた。 息が漏れるキスをして、彼女の足を抱いて、股間を押し付ける。 ただ、男と女として…抱くしかない… 「桃李は…私の子じゃない…」 薄暗い寝室で、ベッドに横たわってタバコを吸いながら、彼女が言った。 「単身赴任先で…家の主人が作った子供…無理やり別れさせたら、女は自殺した。あの子が小学3年生の頃。でも、子供に罪はないから…引き取って育てたけど、全然可愛くない。どんどん嫌いになっていく。」 そう言う彼女は少し寂し気な表情を浮かべていた。 俺は背中で聞いて、服を着ると、1人でピアノの部屋に戻る。 …だから、桃李は家族から浮いていたのか… 居場所が無い筈だ…所謂、妾の子なんだ… 可哀そうに…だから、あんなに必死に構ってもらいたがったのか… 俺に色目まで使って… 悲しいな… 「じゃあ、また」 そう言って女王が待たせている車に乗り込んで帰る。 こんな情事、いつまで続くのだろうか… 俺は家に入ると、鍵をかけて、体の感覚を忘れる様にシャワーを浴びた。

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